中井久夫訳カヴァフィスを読む(87)
「ユダヤの民について(紀元五〇年)」は、「イアンテス」というギリシャ風の名前の青年を描いている。「画家。詩人。走者。円盤投擲者」であり、父親は「アントニウス」とローマ風の名前。そのイアンテスの主張が、そのまま語られる。
「時は……の時です」「教えは……の教えです」という枠構造の中でことばが動いている。硬苦しい感じのする文体だ。いつものカヴァフィスのもの(存在)を投げつけたような、歯切れのいい文体とはずいぶん違う。カヴァフィスにはユダヤの文体は、ここに書かれているように「厳密な論理」(同義反復、異質なものを排除する主義)に見えたのかもしれない。カヴァフィスは、こんな風に自分の「声」とは違う「声」もきちんと聞き取り、それを他人の「主観」として書くことのできた詩人だ。
カヴァフィスが自分自身の主張をするなら「時は……時です」というような同じことばの反復で世界を閉じるのではなく、違ったものを持ち込むことで「定義」を解放するだろう。異質なものぶつけることで、風穴を開けるだろう。その風穴をとおして読者が何を見るかは読者にまかせるだろう。
だが、この厳密な「論理」は、どこまで有効か。ギリシャの、アレクサンドリアのなかで「論理」を守れるか。
これはカヴァフィスの「声」。アレクサンドリアにはアレクサンドリアの「論理」がある。それはユダヤの論理とは違う。アレクサンドリアに生きている限り、ユダヤの論理は守りとおすことはできない。「芸術と快楽主義」に溺れ、それを生きるしかない。それに染まってしまう。ギリシャにとっては、芸術と快楽こそが「論理」である。
ユダヤの「論理」はギリシャの「論理」にのみこまれ、吸収される「論理」である。--ユダヤの「論理構造」にしたがって言えば、そうなるのだろう。
カヴァフィスは、他人の「声」を引用しながらも、そしてそれを利用しながら、自己主張(ギリシャこそが絶対)という「主観」をきっぱりと語っている。
「やりおおせる場所柄じゃなかった」の「場所柄」ということば、「柄」という「あいまいな広がり」がユダヤの厳密と向き合い、そこから反論がはじまるのもおもしろい。ユダヤの「論理」では「場所」とは言っても「場所柄」とは言わないだろう。
「ユダヤの民について(紀元五〇年)」は、「イアンテス」というギリシャ風の名前の青年を描いている。「画家。詩人。走者。円盤投擲者」であり、父親は「アントニウス」とローマ風の名前。そのイアンテスの主張が、そのまま語られる。
「私の最良の時は
感覚の美の追求をやめる時です。
優雅ではあるが厳格なヘレニズムの教えに背を向ける時です。
ヘレネスの教えは、完全な形の、だが朽ち果てる定めの白い四肢に
身を焦がす教えです。
「時は……の時です」「教えは……の教えです」という枠構造の中でことばが動いている。硬苦しい感じのする文体だ。いつものカヴァフィスのもの(存在)を投げつけたような、歯切れのいい文体とはずいぶん違う。カヴァフィスにはユダヤの文体は、ここに書かれているように「厳密な論理」(同義反復、異質なものを排除する主義)に見えたのかもしれない。カヴァフィスは、こんな風に自分の「声」とは違う「声」もきちんと聞き取り、それを他人の「主観」として書くことのできた詩人だ。
カヴァフィスが自分自身の主張をするなら「時は……時です」というような同じことばの反復で世界を閉じるのではなく、違ったものを持ち込むことで「定義」を解放するだろう。異質なものぶつけることで、風穴を開けるだろう。その風穴をとおして読者が何を見るかは読者にまかせるだろう。
だが、この厳密な「論理」は、どこまで有効か。ギリシャの、アレクサンドリアのなかで「論理」を守れるか。
だが、やりおおせる場所柄じゃなかった。
アレクサンドリアの芸術と快楽主義に
どっぷり漬かって、その申し子であり続けた。
これはカヴァフィスの「声」。アレクサンドリアにはアレクサンドリアの「論理」がある。それはユダヤの論理とは違う。アレクサンドリアに生きている限り、ユダヤの論理は守りとおすことはできない。「芸術と快楽主義」に溺れ、それを生きるしかない。それに染まってしまう。ギリシャにとっては、芸術と快楽こそが「論理」である。
ユダヤの「論理」はギリシャの「論理」にのみこまれ、吸収される「論理」である。--ユダヤの「論理構造」にしたがって言えば、そうなるのだろう。
カヴァフィスは、他人の「声」を引用しながらも、そしてそれを利用しながら、自己主張(ギリシャこそが絶対)という「主観」をきっぱりと語っている。
「やりおおせる場所柄じゃなかった」の「場所柄」ということば、「柄」という「あいまいな広がり」がユダヤの厳密と向き合い、そこから反論がはじまるのもおもしろい。ユダヤの「論理」では「場所」とは言っても「場所柄」とは言わないだろう。