和辻のことばにヒントを得たのか、ベルグソンのことばにヒントを得たのか、はっきりしないが、たぶん和辻のことばだと思う。こんなメモがノートにあった。
どんな独創的な比喩であろうも、それがいったんことばにされれば、それはその比喩をとりまくさまざまなことばによって説明、把握されてしまう。これは逆に言えば、どんな独創的な比喩・暗喩も、それを比喩・暗喩としてささえる「過去」を持っているということである。いいかえれば、すでに「ことば」が存在しなければ「比喩のことば」が生まれることはない。「ことば」とは論理でもある。そして、「ことば」とは肉体でもあるからだ。詩だけではない。小説も、哲学も。
これは、野沢啓が書いている「言語暗喩論」への批判のためのメモだと思う。
なぜ、和辻のことばの影響なのか、ベルグソンのことばの影響なのか、私がはっきり思い出せないのは、たぶん、いま私がベルグソンの「創造的進化」(ベルグソン全集4)を読んでいるからだ。和辻につづけて読んでいる。
ベルグソンは、「序論」に、こう書いてる。
理解能力は行動能力の付属物である。
「行動能力」をどう「誤読」するか。私は「肉体」と置き換えてしまう。「肉体」が動く。そして、その肉体と対象(存在)がうまく合致して動いたとき、私はその存在(対象)を「理解」していると考える。肉体でできること。それを肉体で理解できること、と思うのである。
さらにベルグソンは、こう書いている。
意識をもつ存在者にとって、存在することは変化するということは、変化するということは成熟することであり、成熟することは限りなく自分を自分で創造することである。
もの(対象)に働きかけ、対象を変化させ、同時に肉体の方も変化する。動ける範囲が広がる。それは「理解力」の成熟であり、理解力が成熟すれば、新しい行動が可能になる。「自分を自分で創造する」ことができる。
しかし。
ここにひとつ大きな問題が横たわる。
「肉体」は自分自身でつくることができない。「肉体」は、まず、他者によってはじままる。他者によってつくられる。つまり「父」と「母」によってつくられ、「母」の「肉体」から分離されることによって、「ひとりの肉体」となる。
この、せっかく母というひとりの肉体から分離された私というものを、どう動かしていけば、私は私を「創造する」ことになるのか。
こんなことを考えるのは、私の「死期」が近いからだと思うが、どうも気になって仕方がないのである。
思考は生命の発散物もしくは一つの相貌にすぎないのである。
ベルグソンは「生命」ということばをつかっているが、私はやはりこれを「肉体」と読み替える。思考とは肉体の発散物のひとつである。肉体がなければ生まれてこない。
「生命」ということばと同時に、ベルグソンは「生きられる時間」ということばもつかっている。これは、言い換えだろう。そして「生きられる時間」とは「持続」のことだが。
時間の本性を深く究明していくにつれて、持続とは、発明を、形態の創造を、絶対に新しいものの絶えざる仕上げを意味する
この文章の中に、「創造」が出てくる。それは「新しいもののたえざる仕上げ」であり、それは「限りなく自分を自分で創造すること」である。
さて、ベルグソンと和辻は、どこで「交錯」するのか。
生命の諸特性は決して完全に実現されているわけではなく、つねに実現の途上にある。それらる特性は状態というよりも、むしろ傾向である。
ベルグソンのつかっている「傾向」ということばは、和辻の「構想力」に似ている。私は、だから、これを「構想力」と「誤読」することで、和辻とベルグソンを結びつけるのである。
さて。きょうの日記に書いた冒頭の文章だが。ベルグソンの、次の文章を「誤読」した結果が、あの文章かもしれない。
われわれる意識的存在の根底そのものは記憶であり、いいかえれば過去が現在のなかへ延長したものであり、要するに活動的で不可逆的な持続である
どんな比喩・暗喩であれ、その根底には記憶がある。つまり記憶(過去)が現在のなかに噴出してきたものが「比喩・暗喩という新しいことば(表現)」である。私たちは、過去の時間のなかへ、「比喩・暗喩」を持ち込めない。「いまあることば」を「過去」に存在させることはできない。しかし、すでに存在することば、過去のことばを成熟(成長)させ、、それによって自分の意識(肉体)を新しく「創造」することができる。
そして、そのときの「創造」を手助けするのは、あくまでも「肉体」である。「肉体」の動き(動詞)が、新しい意識の誕生に立ち合っているのである。