詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(22)

2014-04-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(22)          

 カヴァフィスの詩には歴史(裏話、逸話)を知らないと何が書いてあるのかわからないものがある。「おっ あの男」もそのひとつ。ルキアノスという詩人が出てくる。「詩八十三篇」を「書いた」ということばがあるので彼が詩人であることはわかる。書きすぎて「詩人は擦り切れ」たということもわかる。けれど、

落ち込む詩人をにわかに救う
一つの閃き。「おっ あの男」
かつてルキアノスが夢で聞いたやつ。

 これが、わからない。中井久夫は注で、「海外いかなる地に行きても人皆汝を指さして『おっ あの男』と言うべく特別の印を汝に付けおきたり」と夢で聞いたために、ルキアノスは文芸の道に進んだ、と書いている。したがってこの作品でカヴァフィスは、ルキアノスは詩を書きすぎて精神が擦り切れているのだが、いま、かつての夢のお告げを思い出し、少し元気になっていると書いていることになる。文学史のエピソードをなぞっている。ギリシャの文学に通じている人ならだれでも知っていることを、語り伝えられるままにことばにしていることになる。それが詩? 
 歴を書いているだけなのに、それが詩になっているのはなぜ?
 詩は「意味/内容」ではないからだ。詩が「意味/内容」ならカヴァフィスは何も新しいことを言っていない。読む必要はない。
 どこが、詩か。
 「かつてルキアススが夢で聞いたやつ。」の「やつ」ということば。口調。それが詩である。口語、それも非常に乱暴なことばである。聞いた「ことば」、聞いた「もの」、聞いた「こと」という意味だが、「やつ」という口調によって詩人が浮かび上がる。性格だけでなく、詩人が暮らしてきた「場」がわかる。どんな人間と交わってきたが「やつ」というひとことでくっきりする。「人間」がわかる。
 カヴァフィスは「事実」を書いているのではなく、その「事実」といっしょにいる「人間」を書いている。中井久夫はそれを読み取り、日本語にしている。

 この詩はルキアノスの「伝説」を描いているという読み方以外の読み方もできる。
 詩を書きすぎて精神がかさかさになってしまった詩人が、街で「あっ、あの男」と思う男にであった。インスピレーションを与えられた。詩の神、恋人を見つけた、その瞬間を描いているとも受け取れる。このとき「やつ」ということばを通って、ルキアノスはカヴァフィスにかわる。カヴァフィスはルキアノスを生きることになる。恋が芽生え、動く瞬間、そこでは詩人は俗語を話し、乱暴に感情をぶつけあっている。
 この場合でも、カヴァフィスは「事実」を描くというより、その「場」の感情の動き、感情があらわれた瞬間を書いていることになる。「意味」ではなく、むき出しになる感情を、「こと」として書いている。「おっ あの男」という口語となって動くこころを描いている。

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