ナボコフ『賜物』(19)
イメージ(もの)が動くとき(動かすとき)、作家は何を頼りに「動き」を制御するのだろう。私はいつも「音」を頼りにしている、と感じる。私は、ことばのなかに「音」がある作家が好きだ、というだけのことかもしれないけれど。
毛皮の襟をつけてもらうときのことをナボコフは描写している。
「音」には2種類ある。実際に「もの」が立てる音。ここに描かれているのは、現実の音である。音の変化である。それにしても、最後の、耳当ての紐を結ぶときの、絹の布の張り具合の変化を「音楽」と呼ぶこの感受性の美しさ、その音楽の美しさは、なんともいえず、息をのんでしまう。絹の動くときの、結ばれるときの、なまめかしい、やわらかい音。
こうした「音楽」に敏感だから、次の部分、次のこだわりが生まれてくる。
「アスネージエンヌイ」ということば。沼野の注釈によれば、このロシア語のアクセントには2種類あるという。第二音節にアクセントを置く場合と、第三音節にアクセントを置いて「アスネジョーインヌ」。
このアクセントへのこだわりは、ことばそのものの「音」へのこだわりである。そして、こういうこだわりをもっている作家を私は信頼している。
信頼しながら、そこには、一種の変な感覚もある。
小説をどんなふうにして読むか。私は声に出さない。つまり音読しない。ナボコフはどうなのだろう。やはり音読はしないのではないかと思う。
音読はしなくても、「音」に対するこだわりがある。これは変なことだろう。
変なこと--と書いたけれど、私は、実は変とは感じていない。「音」を聞かないと、書けない。私はいつでも音を聞きながら書いている。声には出さないが、喉を動かしながら書いている。言えないことばは書けない。読めないことばは書けない。
ナボコフと私を結びつけるのは、まあ、私の傲慢になってしまうのかもしれないけれど、ナボコフもそういうひとなのだと思う。喉を動かさないことには書けない作家である。喉を動かさないと書けない--喉を動かしながら書いているからこそ、あることばのアクセントをどこに置くか、ついつい書いてしまう。
これは「肉体」にしみついた「音楽」に対するこだわりである。
沼野の翻訳がどれくらいナボコフの「音楽」を反映しているかわからないが、このアクセントのこだわりにはナボコフの「音楽」があらわれていると思う。
イメージ(もの)が動くとき(動かすとき)、作家は何を頼りに「動き」を制御するのだろう。私はいつも「音」を頼りにしている、と感じる。私は、ことばのなかに「音」がある作家が好きだ、というだけのことかもしれないけれど。
毛皮の襟をつけてもらうときのことをナボコフは描写している。
音響の変化はなんと楽しかったことだろう。襟を立てると、聞こえてくる物音に深みが増したのだ。さて、もう耳のところまで来た以上は、帽子の耳当ての紐を結んでもらうときの(さえ、顎を上げて)、ぴんと張った絹のあの忘れがたい音楽について触れなければならない。
(32ページ)
「音」には2種類ある。実際に「もの」が立てる音。ここに描かれているのは、現実の音である。音の変化である。それにしても、最後の、耳当ての紐を結ぶときの、絹の布の張り具合の変化を「音楽」と呼ぶこの感受性の美しさ、その音楽の美しさは、なんともいえず、息をのんでしまう。絹の動くときの、結ばれるときの、なまめかしい、やわらかい音。
こうした「音楽」に敏感だから、次の部分、次のこだわりが生まれてくる。
凍てついた日に外を駆け回るのは、子供たちにはたのしいこと。雪に覆われた(「覆われた(アスネージエンヌイ)」は第二音節にアクセントを置くこと)庭園の入り口には、風船売りが姿をあらわし、ちょっとした見物になる。
(32ページ)
「アスネージエンヌイ」ということば。沼野の注釈によれば、このロシア語のアクセントには2種類あるという。第二音節にアクセントを置く場合と、第三音節にアクセントを置いて「アスネジョーインヌ」。
このアクセントへのこだわりは、ことばそのものの「音」へのこだわりである。そして、こういうこだわりをもっている作家を私は信頼している。
信頼しながら、そこには、一種の変な感覚もある。
小説をどんなふうにして読むか。私は声に出さない。つまり音読しない。ナボコフはどうなのだろう。やはり音読はしないのではないかと思う。
音読はしなくても、「音」に対するこだわりがある。これは変なことだろう。
変なこと--と書いたけれど、私は、実は変とは感じていない。「音」を聞かないと、書けない。私はいつでも音を聞きながら書いている。声には出さないが、喉を動かしながら書いている。言えないことばは書けない。読めないことばは書けない。
ナボコフと私を結びつけるのは、まあ、私の傲慢になってしまうのかもしれないけれど、ナボコフもそういうひとなのだと思う。喉を動かさないことには書けない作家である。喉を動かさないと書けない--喉を動かしながら書いているからこそ、あることばのアクセントをどこに置くか、ついつい書いてしまう。
これは「肉体」にしみついた「音楽」に対するこだわりである。
沼野の翻訳がどれくらいナボコフの「音楽」を反映しているかわからないが、このアクセントのこだわりにはナボコフの「音楽」があらわれていると思う。
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