フョードル・コンスタンチノヴィチが、やっと部屋に辿り着いたあとの描写。
自分の部屋で彼はやっとのことで電灯を探り当てた。机の上では鍵束が輝き、本の姿が白く浮かび上がった。
(88ページ)
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探していた鍵が「輝く」、その一方、彼の希望に満ちた詩集(本)が「白く」見える。この「白」は輝きには満ちてはいない。力をなくした色としての「白」である。「蒼白」と書いてしまうとまた「意味」が強くなりすぎてセンチメンタルになる。
センチメンタルとは感情それ自身の動きではなく、理性、「意味」が感性に働きかけて、その働きかけによって傷ついた感情のことである。「意味」を含まないセンチメンタルはない。
ナボコフは、ここではセンチメンタルを注意深く避けている。
「蒼白(青白い)」と、そこにセンチメンタルな「意味」をこめるかわりに、「本の姿」と、「本」を少し複雑にしている。「本」が白く浮かび上がるのではなく、「本の姿」が白く浮かび上がる。
「姿」のひとことで、その本がありふれた「本」ではなくなる。「本」の形など、どの本もたいして違わない。けれども、自分に大切な本だけは違う。同じ大きさをしていても「姿」が違う。
ナボコフの小説は修飾語も巧みだが、修飾語(形容詞など)を避けた部分、具体的に「もの」の取り上げ方、「もの」に名詞をつけるやり方に、深く「肉体」を潜り抜けてきた視線を感じる。
引き裂かれた祝祭―バフチン・ナボコフ・ロシア文化 貝澤 哉 論創社