ナボコフの視力は強靱である。その強靱さは、私のように目の悪い人間にはときどき苦痛になる。左右の目の視力に差があるひとにしかわからないことかもしれないが……。眼鏡の処方は少しむずかしい問題がある。右目と左目のそれぞれの視力を1・0に矯正したとする。そのレンズの度数に開きがあると、眼鏡をかけたとき「像」がうまく結ばないという障害が起きる。レンズの度数にして2・0差があると、右目の像と左目の像に「遠近」の差ができて、頭が疲れるのである。私の場合、これが1・0でも苦しい。世界が散らばって見える。とてもかけられない。それで、私の場合、右目の視力を中心にして眼鏡をつくり、左目の視力は低いままにしている。--と、わからないひとにはなんのことかわからないことを長々と書いたが……。
ナボコフの文章を読むと、むりやり視力を矯正したときのように、それぞれはくっきりみえるのだが、「世界の像」としては不完全な、ばらばらの印象になってしまうようなときがある。そして、それでも、なぜかしら、その文章を読まずにはいられないということがおきる。完全な像を結んでくれないのだが、その「完全な像」をむしろ破壊して、何かが輝く--その強さにひかれるのである。
「絵の具がまだ湿っている間だけ」がすばらしい。遠い風景が、手の届く紙の上に引き寄せられ、そこで呼吸する。それは遠いところなのに、近い。この遠近の落差を「時間」が埋める。「時間」がつなぐ。そして、その「時間」は「肉体」の時間なのである。
「すぐ色あせてしまう美を引き留めておくためには、次々に絵の具を塗り重ねなければならなかった。」絵を描く--しかも、その描く作業を「塗り重ねる」という具体にまで引き寄せることでくっきりしてくる「時間」。
ここに「肉体」の「時間」が書かれているので、私のように目の悪い人間にも、ナボコフの描いている「絵」がくっきりと見える。いや、「絵」全体は見えないのだが、その要だけははっきりと見える。その鮮やかさに、どうしても活字を追ってしまうのだ。
ナボコフの文章を読むと、むりやり視力を矯正したときのように、それぞれはくっきりみえるのだが、「世界の像」としては不完全な、ばらばらの印象になってしまうようなときがある。そして、それでも、なぜかしら、その文章を読まずにはいられないということがおきる。完全な像を結んでくれないのだが、その「完全な像」をむしろ破壊して、何かが輝く--その強さにひかれるのである。
巨大で、鬱蒼として、道多きこの庭園は、その全体が陽光と影の均衡のうちにあった。そして光と影が作り出す調和は夜から夜へと移り変わっていったが、その変わりやすさ自体がまたこの庭園だけに備わった固有のものだった。並木道で熱い光の環がいくつも足下に揺れていたとすれば、遠くでは必ず太いビロードのような縞が横に延び、その向こうには再びオレンジ色の篩(ふるい)の目のような模様が見え、さらにその先、奥のきわまったところには濃密な黒が息づいていた。その黒さを紙の上に移しかえようとしても、水彩画かの目を満足させられるのは絵の具がまだ湿っている間だけで、すぐ色あせてしまう美を引き留めておくためには、次々に絵の具を塗り重ねなければならなかった。
(126 ページ)
「絵の具がまだ湿っている間だけ」がすばらしい。遠い風景が、手の届く紙の上に引き寄せられ、そこで呼吸する。それは遠いところなのに、近い。この遠近の落差を「時間」が埋める。「時間」がつなぐ。そして、その「時間」は「肉体」の時間なのである。
「すぐ色あせてしまう美を引き留めておくためには、次々に絵の具を塗り重ねなければならなかった。」絵を描く--しかも、その描く作業を「塗り重ねる」という具体にまで引き寄せることでくっきりしてくる「時間」。
ここに「肉体」の「時間」が書かれているので、私のように目の悪い人間にも、ナボコフの描いている「絵」がくっきりと見える。いや、「絵」全体は見えないのだが、その要だけははっきりと見える。その鮮やかさに、どうしても活字を追ってしまうのだ。
賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2) | |
ウラジーミル・ナボコフ | |
河出書房新社 |