詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(41)

2011-04-14 11:02:28 | ナボコフ・賜物

 そんな風にしてひと夏をだらだら過ごし、ざっと二ダースほどの詩を生み、育て、そして永遠に見限ってから、ある晴れた涼しい日、土曜日のことだったが(晩には集まりがあることになっていた)、彼は大事な買い物に出かけた。落葉は歩道の上に敷きつめられているわけではなく、干からびて反りかえり、葉の一枚一枚の下から青い影の角が突き出ていた。キャンディでできた窓のついたお菓子の小屋から、箒を持ち、清潔なエプロンを掛けた老婆が出てきた。彼女は小さな尖った顔と、並はずれてばかでかい足をしていた。そう、秋なんだ!
                                 (99ページ)

 私は、わざと長い引用をした。私が感動したのは「葉の一枚一枚の舌から青い影の角が突き出ていた。」という部分なのだが、その部分だけではなく、あえてその周辺を含めて引用した。そうしてみると、不思議な気持ちになる。
 ナボコフは、なぜこのことばを書いたのだろう。読ませたかったのか。隠したかったのか。
 「青い影」だけでもとても美しいが、「青い影」ではなく「青い影の角」。あ、葉っぱは尖ったているのだ。丸い部分もあるかもしれないが、尖った部分を持っている。それが「一枚一枚」の下から突き出している。この繊細な感覚が(描写が)、「そう、秋なんだ!」ということばに結びついていく。「ある晴れた涼しい日」と「青い影の角」と「秋」が結晶し、きらきら輝く。
 でも、そのまわりには、その透明さとは相いれないものがひしめきあっている。矛盾したものがひしめきあっている。キャンディでできた窓のついたお菓子の小屋(公衆トイレ)、清潔なエプロン、老婆、ばかでかい足。
 そういう「もの」だけではない。

 落葉は歩道の上に敷きつめられているわけではなく、

 ロシア語の原文がどうなっているのかわからないが、ここに日本語としてやくしゅつれれていることばがすべてロシア語でも書かれていると仮定すると。
 「歩道の上に」の「上に」がとても気になる。この「上に」は「葉の一枚一枚の下から」の「下から」と対応しているのだが、「上に」って必要? 「下に」敷きつめるということなどできない。「上に」敷きつめるしか、表現としては存在しない。それなのになぜ、「上に」?
 もしかすると、ナボコフは「青い影の角」ではなく、それを一枚一枚の葉の「下に」みつけたことを書きたかったのかもしれない。「下に」ということばを書きたかったのかもしれない。「青い影の角」は、それを引き出すためのものなのだ。

 --というのは、とても変な読み方である。

 わかっているのだが、気になるのだ。「涼しい」「青い影(の角)」「秋」という結晶の美しさ。それを読むだけのために私は何度もこのページを読むのだが、そのことについて書こうとすると「下から」ということば、「上に」ということばの対比(構造)が気になって仕方がないのだ。
 ナボコフはある情景をぱっと思い浮かべ、それをていねいに書き留めるのではなく(描写しているのではなく)、どんな情景もきちんと「構造」をつくりあげながら(意識しながら)、情景を創出しているのかもしれない。
 情景があり、それをことばが追いかけるのではなく、ことばを組み合わせることで情景をつくりだしているのかもしれない。





ナボコフ伝 ロシア時代(上)
B・ボイド
みすず書房

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