嵯峨信之を読む(67)
114 方向
二行目の「鳥のように冷えてくる」という比喩がわからない。「鳥」は私には「温かい」ものという「記憶」しかない。鶏、鳩、雀……手につかむとみな温かい。雛の場合、それは体温の温かさ以上に、心情的に温かいものを含む。「冷えてくる」は、とても不自然に感じられる。
しかし、「鳥のように」という比喩は四行目の「大空へ帰るのだろう」と結びつくと、とても自然だ。
不自然と、自然のあいだで、よくわからないまま、わからないのだけれど何か人間の生きていることの不思議さのようなものを感じる。わからないから、そこに「魅力」を感じ、そのことばに誘い込まれる、と言えばいいのだろうか。
さて、この詩は何を書いてあるのだろうか。
「鳥」と「大空」のあいだに挟まった「それは少しずつ人間の制約からはなれて」をどう読めば、不自然が自然にかわるのだろう。
「人間の制約」ということばがむずかしい。一連目だけでは、わからない。
ひとは大事なことは何度でも言いなおす。きっと、どこかに言い直しがあるはずと思いながら二連目を読む。
「人間の制約」は「自分をとらえているもの」と言いなおされている。「自分をとらえているもの」とは「肉体」だろうか。それとも何かに対する「固執」だろうか。「死」ということばが重い。
「眠くなると」を「意識がなくなると」と考えるならば、何か対する「固執」が消えて、自分を超えた「大きな世界」を知ることができる、といっているように感じられる。「意識なくなる」をさらに「死ぬ」と考えて読むべきなのか。死ぬことによって、人間は大きな世界に触れると言っているのか。
「比喩」は、たぶん、論理だけでは説明できないものを含んでいる。その説明できないものを、感じたまま、感じた瞬間へ帰る(あるいはその瞬間に立ち戻る)ようにして、ことばを読まないといけないのかもしれない。
三行目の「それは」というのは、先行する何かを指して「それ」と言っている。文法上は「どの部分か」を指していると思う。「鳥のように」という比喩をいったん省略して読むと、「どの部分かが冷えてくる。そして、その冷えた「どの部分か」が少しずつ人間の制約からはなれて」ゆく。
けれど、私は、そんな具合に「論理的」には読んでいない。
書き出しの四行は、
嵯峨の書いている「論理」を無視して、目に飛び込んできたことばを自分の納得できる「論理」で並べ替えてしまう。こんなふうに読むと、空を飛ぶ鳥の気持ちよさが広がってきて、「眠り」が心地よくなる。
しかし、「私の論理」で読むと、「嵯峨の論理」が衝突して、「変だぞ」と何かが声を上げる。
どう見ても、嵯峨は私の読んだようには書いていない
この不一致の瞬間にこそ、私は嵯峨と出会っているのだと思うが、どうしていいのかわからない。
「私の論理(読み方)」は、どうなおしていけばいいのだろう。
「不一致」を抱えたまま、私は「私の論理」に固執して先を読む。
「死」ということばが異様に見える。「眠る」は「永眠」、つまり「死」のことを書いていたのだろうか。
そうならば「人間の制約」とは「いのち」のことである。「肉体」のことである。死ぬと「肉体」は「冷える」。「鳥のように冷えてくる」と嵯峨が書くのは、嵯峨には死んでゆく鳥を掌で抱いていたことがあるからかもしれない。鳥は死んで冷えていきながら、鳥の制約(羽で飛ばなければならないという制約)をはなれて、翼をつかわずに大空へ帰っていく--それが、鳥の死。
一連目の「人間の制約」は、実は「鳥の制約」だったのだ。
嵯峨は、永眠しようとする人を「鳥」という「比喩」のなかで動かしていたのだ。
ひとは死ぬと、人間は飛べないという人間の制約をはなれて、そういう制約から自由になって、つまり「鳥」になって、大空へ帰っていく。
そう読むことができる。
二連目の「自分をとらえているもの」、つまり「人間の制約」のひとつに「飛べない」ということがある。空高くから世界を見ることができない、ということがある。しかし、想像力で「鳥」になって考えると、地上を歩いているときとは違った「大きな世界」を見ることができる。「自分」を離れないことには「大きな世界」は見えないということかもしれない。
その想像の「鳥」のように、「死」を想像してみる。
そうすると、生きていることに固執していたときには見えないものが見えてくる。「死」が隠し持っている「遠い世界」が見えてくる。それは「遠い」と同時に「大きな世界」でもある。
この詩には、その「大きさ」「遠さ」は具体的には書かれていないが、「現実」よりも自由な世界として、「大きさ」「遠さ」が思い描かれている。
これは嵯峨が嵯峨自身の「死」を見つめながら書いた詩ではない。死んでゆく友に向かって書いた詩である。「きみは鳥のように大空へ帰るのだ、大きな世界へ帰るのだ」と安心させるための作品だ。それは、同時に、嵯峨の祈りでもある。
114 方向
眠くなると
どの部分かが鳥のように冷えてくる
それは少しずつ人間の制約からはなれて
大空へ帰るのだろう
二行目の「鳥のように冷えてくる」という比喩がわからない。「鳥」は私には「温かい」ものという「記憶」しかない。鶏、鳩、雀……手につかむとみな温かい。雛の場合、それは体温の温かさ以上に、心情的に温かいものを含む。「冷えてくる」は、とても不自然に感じられる。
しかし、「鳥のように」という比喩は四行目の「大空へ帰るのだろう」と結びつくと、とても自然だ。
不自然と、自然のあいだで、よくわからないまま、わからないのだけれど何か人間の生きていることの不思議さのようなものを感じる。わからないから、そこに「魅力」を感じ、そのことばに誘い込まれる、と言えばいいのだろうか。
さて、この詩は何を書いてあるのだろうか。
「鳥」と「大空」のあいだに挟まった「それは少しずつ人間の制約からはなれて」をどう読めば、不自然が自然にかわるのだろう。
「人間の制約」ということばがむずかしい。一連目だけでは、わからない。
ひとは大事なことは何度でも言いなおす。きっと、どこかに言い直しがあるはずと思いながら二連目を読む。
自分をとらえているものからはなれて
はじめて人間は大きな世界を知ることができる
死がふかくかくしもつている遠い世界に触れるのだ
「人間の制約」は「自分をとらえているもの」と言いなおされている。「自分をとらえているもの」とは「肉体」だろうか。それとも何かに対する「固執」だろうか。「死」ということばが重い。
「眠くなると」を「意識がなくなると」と考えるならば、何か対する「固執」が消えて、自分を超えた「大きな世界」を知ることができる、といっているように感じられる。「意識なくなる」をさらに「死ぬ」と考えて読むべきなのか。死ぬことによって、人間は大きな世界に触れると言っているのか。
「比喩」は、たぶん、論理だけでは説明できないものを含んでいる。その説明できないものを、感じたまま、感じた瞬間へ帰る(あるいはその瞬間に立ち戻る)ようにして、ことばを読まないといけないのかもしれない。
眠くなると
どの部分かが鳥のように冷えてくる
それは少しずつ人間の制約からはなれて
大空へ帰るのだろう
三行目の「それは」というのは、先行する何かを指して「それ」と言っている。文法上は「どの部分か」を指していると思う。「鳥のように」という比喩をいったん省略して読むと、「どの部分かが冷えてくる。そして、その冷えた「どの部分か」が少しずつ人間の制約からはなれて」ゆく。
けれど、私は、そんな具合に「論理的」には読んでいない。
書き出しの四行は、
眠くなると
自分のなかのどの部分かが冷えてくる
それは少しずつ人私を間の制約から解放してくれる
その結果、私は人間の制約をはなれて(人間ではなくなって)
鳥のように大空へ帰っていく
嵯峨の書いている「論理」を無視して、目に飛び込んできたことばを自分の納得できる「論理」で並べ替えてしまう。こんなふうに読むと、空を飛ぶ鳥の気持ちよさが広がってきて、「眠り」が心地よくなる。
しかし、「私の論理」で読むと、「嵯峨の論理」が衝突して、「変だぞ」と何かが声を上げる。
どう見ても、嵯峨は私の読んだようには書いていない
この不一致の瞬間にこそ、私は嵯峨と出会っているのだと思うが、どうしていいのかわからない。
「私の論理(読み方)」は、どうなおしていけばいいのだろう。
「不一致」を抱えたまま、私は「私の論理」に固執して先を読む。
自分をとらえているものからはなれて
はじめて人間は大きな世界を知ることができる
死がふかくかくしもつている遠い世界に触れるのだ
「死」ということばが異様に見える。「眠る」は「永眠」、つまり「死」のことを書いていたのだろうか。
そうならば「人間の制約」とは「いのち」のことである。「肉体」のことである。死ぬと「肉体」は「冷える」。「鳥のように冷えてくる」と嵯峨が書くのは、嵯峨には死んでゆく鳥を掌で抱いていたことがあるからかもしれない。鳥は死んで冷えていきながら、鳥の制約(羽で飛ばなければならないという制約)をはなれて、翼をつかわずに大空へ帰っていく--それが、鳥の死。
一連目の「人間の制約」は、実は「鳥の制約」だったのだ。
嵯峨は、永眠しようとする人を「鳥」という「比喩」のなかで動かしていたのだ。
ひとは死ぬと、人間は飛べないという人間の制約をはなれて、そういう制約から自由になって、つまり「鳥」になって、大空へ帰っていく。
そう読むことができる。
二連目の「自分をとらえているもの」、つまり「人間の制約」のひとつに「飛べない」ということがある。空高くから世界を見ることができない、ということがある。しかし、想像力で「鳥」になって考えると、地上を歩いているときとは違った「大きな世界」を見ることができる。「自分」を離れないことには「大きな世界」は見えないということかもしれない。
その想像の「鳥」のように、「死」を想像してみる。
そうすると、生きていることに固執していたときには見えないものが見えてくる。「死」が隠し持っている「遠い世界」が見えてくる。それは「遠い」と同時に「大きな世界」でもある。
この詩には、その「大きさ」「遠さ」は具体的には書かれていないが、「現実」よりも自由な世界として、「大きさ」「遠さ」が思い描かれている。
これは嵯峨が嵯峨自身の「死」を見つめながら書いた詩ではない。死んでゆく友に向かって書いた詩である。「きみは鳥のように大空へ帰るのだ、大きな世界へ帰るのだ」と安心させるための作品だ。それは、同時に、嵯峨の祈りでもある。
椅子に腰かけていて
時計のかすれたように鳴るのを聞く
彼はふいに立ちあがる
そして彼はみずからに案内されて消えていく
音の中に
彼の中に
死の中に
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