さすがに残り1話だからね。
つけるときにちゃんと悪態もついておこうかな、と。
で、最初に言うべきは、やはり、年が明けてからの、2020年になってからの展開は、どれもこれも腑に落ちないものばかり。
要するに、読者による「考察」なんて意味なかったんだなぁ、という諦め、というか、シラケた感じ。
これが、結構、真面目に、深刻に、効いているのは、マジで全く同じ思いを、「春場ねぎ」というペンネームの元ネタである「ネギ・スプリングフィールド」が主人公の『魔法先生ネギま!』の終盤で味わったから。
だから、同じ失望をまた味わうのかな?、というのが、1月半ば以降の基本的な気分。
そういう意味では、赤松健、という漫画家は、悪しき先例を作った罪深い悪人だと思いつつある。
要するに、伏線丸投げで、気分だけで、物語を終わらせてしまったこと。
ちょうど『ドラゴンボール』が、フリーザ登場のあたりからパワー・インフレという「アヘン」から抜け出せなくなって、なんともだらしないお話に堕してしまったように、
『ネギま!』は、設定上の謎に関わるような謎を続々と仕込んでくる、いわば「ミステリー・インフレ」の世界を呼び込んでしまい、いつの間にか、収拾のつかないもつれ具合になって、作者自身が丸投げして、途中経過をすっ飛ばして、結論だけ、しかも、ウルトラお花畑エンドだけを供する、という暴挙に至ってしまった。
念のため、公正のためにつけ加えておくと、『ネギま!』が丸投げした謎やら伏線のいくつかは、一応続編である『UQ Holder!』という作品で、あと付けの説明がなされてはいる。
でも、どれも、まさにあと付け、って感じで、しかもその説明にまた新たな設定を持ち出してくるから、『ネギま!』以上に、説明のウソっぽさがどんどん露呈してくる。
で、そういう説明に詰まると、バトルとエロの「絵面」でごまかしてくる。
実際、すでに160話を超えている、つまり『五等分』よりも長く連載をしているにもかかわらず、未だに物語に収拾がついていない。
つまり、「ミステリー・インフレ」のぬかるみ、というか、ドツボにハマってしまって、一向に抜け出せるような感じがしない。
したがって、物語の進み方については、ひたすら、乾いた笑いを向けるしかない。
で、『五等分』の方の話に戻ると、年明け以降の、115話以降の展開を見るだに、
春場ねぎって、結局、赤松健の悪いところしか受け継いでないよね?
と真面目に思いつつある。
まぁ、もしかしたら、それを許している担当編集者が戦犯なのもしれないけれど。
でも、それまでストーリーテリングを支えてきた謎や伏線、もっといえば「思わせぶりな発言」を全部すっ飛ばして、作者にとって一番ラクな道を取っている、という気しか、最近の『五等分』を見ていると感じないんだよね。
まぁ、単純に、作者にそれだけの物語開発力がなかった、ってことなのかもしれないけれど。
そして、そこを突き詰めると、画力と物語構成力の2つの才能をもつ漫画家などそうそういない、という本質的な問いに行き着いちゃうんだけど。
でも、同時期に『進撃』や『鬼滅』があるのを思い出すと、あぁ、やっぱり、天は二物を与えず、なんだなぁ、と嘆息してしまう。
で、終盤の『五等分』だけど。
多分、四葉が選ばれたことが嫌だとかいうことでは全然なく、問題は、四葉が選ばれるにしても、この物語のたたみ方は、さすがにおかしいんじゃない? 雑なんじゃないか?というのが率直な不満。
で、それは多くの読者が、あれれ?と思い始めている理由だと思う。
というか、どのキャラが推しで、その推しが勝つことだけが目的だ!ってやつは、どうぞ、ソシャゲにでも興じていてくれ!と思うよ。
ゲームではなく、物語の方には、ちゃんと「展開」というのがあって、そこでは、張り巡らした伏線なり疑問なりが、いかに「キレイに」回収されるかも、当然、その物語の評価の基準になるんだよ。
もちろん「キレイに」と言ったのは、単純な伏線の理屈だけではなくて、その伏線の回収の表現手段をも含んだもので。
つまり、たとえご都合主義劇説明であっても、その説明がドラマティックであればいい、とか、よくよく考えると確かに納得がいく、ようなものであってもいい。
でも、物語がはった伏線については、終盤においては回収に務めるのは当然のことで、その回収が物語の結末にうまく結びついたものが、物語としての評価を決める一つの目安になる。
なぜなら、伏線があるから、読者はその物語を読み続けるし、適宜、答え合わせをされることで、その物語への愛着も増していくものだから。
ところが、『五等分』については、こうした当然の期待が、終盤、ほとんど顧みられなくなっている。
また、回収を図った伏線についても、必ずしも「上手い」ものになっていない。
というか、何より気になるのは、読者が「伏線」と思っていたものが、どれもこれも、単なる思わせぶりなものでしかなかった(ことになりつつある)こと。
特に五つ子という特性からくる「なりかわり」にまつわるもの。
鐘キスしかり、京都の子しかり、零奈バレしかり。
もちろん、これらの疑問が最終回で明かされる可能性はまだ残っているけれど、それにしたって、最終回にまで引っ張った意味が確かにあった!、という驚きの仕掛けでもない限り、単なる「消化試合」的な義務からのものにしか見えず、もはや納得し難い。
だって、「なりかわり」の問題は、特に鐘キスの問題は、それが論理上は、(五つ子の)誰でもありえる、という可能性を常に開けておくものだったから。
裏返すと、「鐘キスの相手が花嫁」という命題は、常に真に決まっているから
だって、花嫁となった子を、鐘キスの相手だった!といえば済むだけだから。
しかし、そんな答え合わせを、世の中では「茶番」と呼ぶんだよね。
そう、『五等分』は115話以降、茶番の嵐になってしまった。
後出しジャンケンばっかり。
しかも、その「後出し」の答えが、どれもつまらないものばかり。
これだと、さすがに、春場ねぎって、実は、頭悪かったんだね?としか思えない。
そんなことばっかり。
でもまぁ、そんな悪態ばかりついても、読者としては気分が悪くなるだけなので、まだ、ちゃんと答えてくれるに違いない!、と思い直して、年明け以降も、感想を記してきたわけだけど。
でも、それらも、あと1回で、全部、台無しにされるのかもしれない。
そう思うと、さすがに嫌気が指してきたので、最終回前に、一度、毒を吐き出しておいた。
できれば、最終回で、納得がいくサプライズが来てほしいとは思うけど。
でも、その一方で、赤松健を師と仰ぐというなら、丸投げも十分ありえるなぁ、と思うんだよね。
ということで、期待値をとにかく下げて、最終回を迎えるかね。
でも、一つだけ。
わかっていたことではあったけど、まさか、結婚式場で本当に五つ子ゲームをやるとは思わなかった。
まさに冗談で言っているうちはいいけど、ほんとにそれをやられたらドン引きする、って類いのもの。
実はそれもあって、下方修正やむなし、という気になったのだった。
悪い冗談、笑えない冗談だよ。
つけるときにちゃんと悪態もついておこうかな、と。
で、最初に言うべきは、やはり、年が明けてからの、2020年になってからの展開は、どれもこれも腑に落ちないものばかり。
要するに、読者による「考察」なんて意味なかったんだなぁ、という諦め、というか、シラケた感じ。
これが、結構、真面目に、深刻に、効いているのは、マジで全く同じ思いを、「春場ねぎ」というペンネームの元ネタである「ネギ・スプリングフィールド」が主人公の『魔法先生ネギま!』の終盤で味わったから。
だから、同じ失望をまた味わうのかな?、というのが、1月半ば以降の基本的な気分。
そういう意味では、赤松健、という漫画家は、悪しき先例を作った罪深い悪人だと思いつつある。
要するに、伏線丸投げで、気分だけで、物語を終わらせてしまったこと。
ちょうど『ドラゴンボール』が、フリーザ登場のあたりからパワー・インフレという「アヘン」から抜け出せなくなって、なんともだらしないお話に堕してしまったように、
『ネギま!』は、設定上の謎に関わるような謎を続々と仕込んでくる、いわば「ミステリー・インフレ」の世界を呼び込んでしまい、いつの間にか、収拾のつかないもつれ具合になって、作者自身が丸投げして、途中経過をすっ飛ばして、結論だけ、しかも、ウルトラお花畑エンドだけを供する、という暴挙に至ってしまった。
念のため、公正のためにつけ加えておくと、『ネギま!』が丸投げした謎やら伏線のいくつかは、一応続編である『UQ Holder!』という作品で、あと付けの説明がなされてはいる。
でも、どれも、まさにあと付け、って感じで、しかもその説明にまた新たな設定を持ち出してくるから、『ネギま!』以上に、説明のウソっぽさがどんどん露呈してくる。
で、そういう説明に詰まると、バトルとエロの「絵面」でごまかしてくる。
実際、すでに160話を超えている、つまり『五等分』よりも長く連載をしているにもかかわらず、未だに物語に収拾がついていない。
つまり、「ミステリー・インフレ」のぬかるみ、というか、ドツボにハマってしまって、一向に抜け出せるような感じがしない。
したがって、物語の進み方については、ひたすら、乾いた笑いを向けるしかない。
で、『五等分』の方の話に戻ると、年明け以降の、115話以降の展開を見るだに、
春場ねぎって、結局、赤松健の悪いところしか受け継いでないよね?
と真面目に思いつつある。
まぁ、もしかしたら、それを許している担当編集者が戦犯なのもしれないけれど。
でも、それまでストーリーテリングを支えてきた謎や伏線、もっといえば「思わせぶりな発言」を全部すっ飛ばして、作者にとって一番ラクな道を取っている、という気しか、最近の『五等分』を見ていると感じないんだよね。
まぁ、単純に、作者にそれだけの物語開発力がなかった、ってことなのかもしれないけれど。
そして、そこを突き詰めると、画力と物語構成力の2つの才能をもつ漫画家などそうそういない、という本質的な問いに行き着いちゃうんだけど。
でも、同時期に『進撃』や『鬼滅』があるのを思い出すと、あぁ、やっぱり、天は二物を与えず、なんだなぁ、と嘆息してしまう。
で、終盤の『五等分』だけど。
多分、四葉が選ばれたことが嫌だとかいうことでは全然なく、問題は、四葉が選ばれるにしても、この物語のたたみ方は、さすがにおかしいんじゃない? 雑なんじゃないか?というのが率直な不満。
で、それは多くの読者が、あれれ?と思い始めている理由だと思う。
というか、どのキャラが推しで、その推しが勝つことだけが目的だ!ってやつは、どうぞ、ソシャゲにでも興じていてくれ!と思うよ。
ゲームではなく、物語の方には、ちゃんと「展開」というのがあって、そこでは、張り巡らした伏線なり疑問なりが、いかに「キレイに」回収されるかも、当然、その物語の評価の基準になるんだよ。
もちろん「キレイに」と言ったのは、単純な伏線の理屈だけではなくて、その伏線の回収の表現手段をも含んだもので。
つまり、たとえご都合主義劇説明であっても、その説明がドラマティックであればいい、とか、よくよく考えると確かに納得がいく、ようなものであってもいい。
でも、物語がはった伏線については、終盤においては回収に務めるのは当然のことで、その回収が物語の結末にうまく結びついたものが、物語としての評価を決める一つの目安になる。
なぜなら、伏線があるから、読者はその物語を読み続けるし、適宜、答え合わせをされることで、その物語への愛着も増していくものだから。
ところが、『五等分』については、こうした当然の期待が、終盤、ほとんど顧みられなくなっている。
また、回収を図った伏線についても、必ずしも「上手い」ものになっていない。
というか、何より気になるのは、読者が「伏線」と思っていたものが、どれもこれも、単なる思わせぶりなものでしかなかった(ことになりつつある)こと。
特に五つ子という特性からくる「なりかわり」にまつわるもの。
鐘キスしかり、京都の子しかり、零奈バレしかり。
もちろん、これらの疑問が最終回で明かされる可能性はまだ残っているけれど、それにしたって、最終回にまで引っ張った意味が確かにあった!、という驚きの仕掛けでもない限り、単なる「消化試合」的な義務からのものにしか見えず、もはや納得し難い。
だって、「なりかわり」の問題は、特に鐘キスの問題は、それが論理上は、(五つ子の)誰でもありえる、という可能性を常に開けておくものだったから。
裏返すと、「鐘キスの相手が花嫁」という命題は、常に真に決まっているから
だって、花嫁となった子を、鐘キスの相手だった!といえば済むだけだから。
しかし、そんな答え合わせを、世の中では「茶番」と呼ぶんだよね。
そう、『五等分』は115話以降、茶番の嵐になってしまった。
後出しジャンケンばっかり。
しかも、その「後出し」の答えが、どれもつまらないものばかり。
これだと、さすがに、春場ねぎって、実は、頭悪かったんだね?としか思えない。
そんなことばっかり。
でもまぁ、そんな悪態ばかりついても、読者としては気分が悪くなるだけなので、まだ、ちゃんと答えてくれるに違いない!、と思い直して、年明け以降も、感想を記してきたわけだけど。
でも、それらも、あと1回で、全部、台無しにされるのかもしれない。
そう思うと、さすがに嫌気が指してきたので、最終回前に、一度、毒を吐き出しておいた。
できれば、最終回で、納得がいくサプライズが来てほしいとは思うけど。
でも、その一方で、赤松健を師と仰ぐというなら、丸投げも十分ありえるなぁ、と思うんだよね。
ということで、期待値をとにかく下げて、最終回を迎えるかね。
でも、一つだけ。
わかっていたことではあったけど、まさか、結婚式場で本当に五つ子ゲームをやるとは思わなかった。
まさに冗談で言っているうちはいいけど、ほんとにそれをやられたらドン引きする、って類いのもの。
実はそれもあって、下方修正やむなし、という気になったのだった。
悪い冗談、笑えない冗談だよ。