121話の感想1でも書いたとおり、もうこれ、夢オチしかありえないよね?
まともなお話として終わろうとするなら。
というか、もはやそうでないと、あまりにも物語の整合性がなさすぎて。。。
でも、世の中の流れからすれば、むしろ「夢オチ」を積極的に歓迎する方向にもあるようにも思っていて。
単純に、マルチエンディングを可能にする最も原始的な語りのテクニックとしてね。
もちろん、それをうまく使えるかどうか、という基本的な問題点はあるわけだけど。
たとえば、今までにも何回か触れてきた、漫画家・春場ねぎに多大な影響を与えたと言われる『ネギま!』のなかでは、「渡界機」という平行世界を渡る能力をもった便利アイテムが最終的に用意されて、続編である『UQ Holder!』で、本編とは異なる平行世界を描くことに可能にしている。
そうすることで、続編では『ネギま!』のサブヒロインではあるが、人気の高かった吸血鬼のエヴァをメインのヒロインにしている。
あるいは、最近であれば「青春ブタ野郎」シリーズ(いわゆる「青ブタ」)では、量子力学を根拠にした思春期症候群という説明原理を用意して、事実上、作中内の誰かが見た「夢」が、今読んでいる物語が進んでいる世界である、というアクロバティックな展開を可能にしている。
どちらにしても、異なる世界の行き来を任意に可能にすることで、マルチエンディングを添加会することのできる物語世界にしている。
いやまぁ、ぶっちゃけ、ゲームのマルチシナリオの、漫画やラノベへの輸入なんだけど。
で、そんなマルチシナリオを、お手軽に可能にするテクニックが、いわゆる「夢オチ」。
それを『五等分』でも展開しているのではないか、ということ。
というのも、この物語、要所要所で、「夢」という言葉を多用しているから。
今までに何度も指摘してきたように、そもそも物語の冒頭で「夢を見ていた」という言葉が使われている。
直近であれば、120話の冒頭で、「夢かぁ!」といって、風太郎がガバっと起き上がるシーンがあるしw
日の出祭3日目に、四葉からキスされたときの風太郎もうたた寝していたし。
そもそも32話で、らいが見て回った結婚式会場でも、風太郎は寝ているし。
気がつけば、「夢」という言葉や、いざなにかあるときには「寝ている」という描写はちょくちょく出てきている。
それで、121話の感想1でも書いたように、この121話の結婚式は、風太郎が見ている夢でしょ?と思ったわけで。
なので、この「夢」に関わる描写や言及は、この物語の語りをふわふわとした、文字通り「夢」のようなものにしていると思うのだよね。
つまり、この物語に出てくる「夢」は、それこそ『ネギま!』における「渡界機」の代わり。
問題は、機械である「渡界機」のように便利には使えないところ。
「夢オチ」の場合、では、どこの話がどの段階で「夢」として語られていたのか?という疑問が常に付きまとう。
でも、積極的に「夢オチ」を使おうと思うなら、「夢」に触れられていた場所が、「目覚め」のポイントとして用意されている、と解釈することもできるのかも。
となると、121話の夢が、どこからのもので、どこまでさかのぼって物語を語り直すのか、というのも、複数の可能性があるのではないか?ということで。
もしかしたら、その「夢」の言及箇所が分岐点になって、今後、五つ子それぞれについての真・物語が、続編なのか、スピンオフなのかはわからないけれど、始まるのではないかな、という気がしている。
というのも、どうも115話以降の「雑な展開」は、こうした「やり直し」を行うためにわざとやっているようにしか思えないから。
では、今が四葉ルートにあるとして、本当の花嫁は誰なのか?ということになるけど、でも、それは、もはや突き詰めようとしても無意味なんだ、という気がしている。
それは、作者に伏線を「きちんと」回収する気がないから。
残り1話で物語の「考察」を支えてきた伏線が未だにいくつも残っている事実が、作者が伏線回収を放棄したことを意味している。
むしろ、そうした伏線は。回収するためにあったのではなく、多分、五つ子の誰もが花嫁になりうる、という根拠をばらまくためのものでしかなかったのだと思う。
でなければ、こんな、安易な、一種の幼馴染エンドである四葉エンドでお茶を濁すような終わり方はしないでしょ。
121話でいえば、「直前にピアスの穴をあける」というように、たいていの伏線は、それらの間で整合性をつけようとしなければ、あと付けでなんとでもなるから。
多分、その典型が「鐘キスの相手」で、あれはいろいろな考察をもたらすけど、理論上は、全ての五つ子に均等に機会がありえるということでしょ?
だから、121話のタイトルは、四葉エンドが決定しているはずにもかかわらず、いまさらながら「五分の一の確率」なんて、いけしゃあしゃあと確信犯でつけたりするわけで。
いや四葉エンドが確定なら「一分の一の確率」に決まってるじゃん!
それを、式場で行うには、あまりにも悪趣味な「五つ子ゲーム」まで行うのだから。
ということで、多分、最終話のタイトルは「五等分の花嫁」。
そう言って島て、誰のエンドか有耶無耶にしたかたちで、作品タイトルもめでたく回収、ということで「ひとまず」終わり、になるのだと思う。
ただし、この終わりは、あくまでも「ひとまず」のもので、後日、今までの本編にあった「夢」ポイントを分岐点にして、新しい物語をえがいていくことになるのだと思う。
それが、『ネギま!』を世に出したマガジン編集部としても納得のオチなのではないか。
というのも、そうでもしない限り、115話以降を、こんなに雑な展開にする必要はないから。
そもそも、14巻で完結、なんて性急なことをしなければいい。
多分、人気もでてきたことだし、この先、どうしようか、という話になったときに、ダラダラと引き伸ばして20巻とか30巻とかになるよりも、これは美少女ゲーム的セオリーに則って、五つ子ごとの個別ルートを描いたほういい、というか、カネになる、と踏んだんじゃないかな。
ということで、『ネギま!』同様に、オープンエンドの、花嫁の可能性は「五等分」という形で終わり、
(詳しくはこちらで→ 五等分の花嫁 第120話 感想3: 121話と122話に向けて、結局「振り出し」に戻ってしまった)
『ネギま!』の渡界機に変わる「分岐アイテム」が「夢」である、ということに落ち着くのではないかな。
そして、このオチなら「誰も選ばない」などとわざわざ風太郎に一度、凄みをつけた口調で言わせたことにも理由ができるから。
そんなカッコイイせりふを吐いたにもかかわらず、あっさり(安易に)最初から自分に優しくしてくれた四葉を選んだ、というヘタレな風太郎になったことも理解できるから。
加えて、その裏返しとして、最終コーナーで四葉をここまで「泥棒猫」のような小狡いキャラとして、物語当初の「善人」から、どう見ても善人といいがたい、むしろ「悪人」といってもいいくらい悪質なキャラとして扱わなければならなくなったことも理解できるから。
ということで、次回タイトルは「五等分の花嫁」で決定でしょ!
まともなお話として終わろうとするなら。
というか、もはやそうでないと、あまりにも物語の整合性がなさすぎて。。。
でも、世の中の流れからすれば、むしろ「夢オチ」を積極的に歓迎する方向にもあるようにも思っていて。
単純に、マルチエンディングを可能にする最も原始的な語りのテクニックとしてね。
もちろん、それをうまく使えるかどうか、という基本的な問題点はあるわけだけど。
たとえば、今までにも何回か触れてきた、漫画家・春場ねぎに多大な影響を与えたと言われる『ネギま!』のなかでは、「渡界機」という平行世界を渡る能力をもった便利アイテムが最終的に用意されて、続編である『UQ Holder!』で、本編とは異なる平行世界を描くことに可能にしている。
そうすることで、続編では『ネギま!』のサブヒロインではあるが、人気の高かった吸血鬼のエヴァをメインのヒロインにしている。
あるいは、最近であれば「青春ブタ野郎」シリーズ(いわゆる「青ブタ」)では、量子力学を根拠にした思春期症候群という説明原理を用意して、事実上、作中内の誰かが見た「夢」が、今読んでいる物語が進んでいる世界である、というアクロバティックな展開を可能にしている。
どちらにしても、異なる世界の行き来を任意に可能にすることで、マルチエンディングを添加会することのできる物語世界にしている。
いやまぁ、ぶっちゃけ、ゲームのマルチシナリオの、漫画やラノベへの輸入なんだけど。
で、そんなマルチシナリオを、お手軽に可能にするテクニックが、いわゆる「夢オチ」。
それを『五等分』でも展開しているのではないか、ということ。
というのも、この物語、要所要所で、「夢」という言葉を多用しているから。
今までに何度も指摘してきたように、そもそも物語の冒頭で「夢を見ていた」という言葉が使われている。
直近であれば、120話の冒頭で、「夢かぁ!」といって、風太郎がガバっと起き上がるシーンがあるしw
日の出祭3日目に、四葉からキスされたときの風太郎もうたた寝していたし。
そもそも32話で、らいが見て回った結婚式会場でも、風太郎は寝ているし。
気がつけば、「夢」という言葉や、いざなにかあるときには「寝ている」という描写はちょくちょく出てきている。
それで、121話の感想1でも書いたように、この121話の結婚式は、風太郎が見ている夢でしょ?と思ったわけで。
なので、この「夢」に関わる描写や言及は、この物語の語りをふわふわとした、文字通り「夢」のようなものにしていると思うのだよね。
つまり、この物語に出てくる「夢」は、それこそ『ネギま!』における「渡界機」の代わり。
問題は、機械である「渡界機」のように便利には使えないところ。
「夢オチ」の場合、では、どこの話がどの段階で「夢」として語られていたのか?という疑問が常に付きまとう。
でも、積極的に「夢オチ」を使おうと思うなら、「夢」に触れられていた場所が、「目覚め」のポイントとして用意されている、と解釈することもできるのかも。
となると、121話の夢が、どこからのもので、どこまでさかのぼって物語を語り直すのか、というのも、複数の可能性があるのではないか?ということで。
もしかしたら、その「夢」の言及箇所が分岐点になって、今後、五つ子それぞれについての真・物語が、続編なのか、スピンオフなのかはわからないけれど、始まるのではないかな、という気がしている。
というのも、どうも115話以降の「雑な展開」は、こうした「やり直し」を行うためにわざとやっているようにしか思えないから。
では、今が四葉ルートにあるとして、本当の花嫁は誰なのか?ということになるけど、でも、それは、もはや突き詰めようとしても無意味なんだ、という気がしている。
それは、作者に伏線を「きちんと」回収する気がないから。
残り1話で物語の「考察」を支えてきた伏線が未だにいくつも残っている事実が、作者が伏線回収を放棄したことを意味している。
むしろ、そうした伏線は。回収するためにあったのではなく、多分、五つ子の誰もが花嫁になりうる、という根拠をばらまくためのものでしかなかったのだと思う。
でなければ、こんな、安易な、一種の幼馴染エンドである四葉エンドでお茶を濁すような終わり方はしないでしょ。
121話でいえば、「直前にピアスの穴をあける」というように、たいていの伏線は、それらの間で整合性をつけようとしなければ、あと付けでなんとでもなるから。
多分、その典型が「鐘キスの相手」で、あれはいろいろな考察をもたらすけど、理論上は、全ての五つ子に均等に機会がありえるということでしょ?
だから、121話のタイトルは、四葉エンドが決定しているはずにもかかわらず、いまさらながら「五分の一の確率」なんて、いけしゃあしゃあと確信犯でつけたりするわけで。
いや四葉エンドが確定なら「一分の一の確率」に決まってるじゃん!
それを、式場で行うには、あまりにも悪趣味な「五つ子ゲーム」まで行うのだから。
ということで、多分、最終話のタイトルは「五等分の花嫁」。
そう言って島て、誰のエンドか有耶無耶にしたかたちで、作品タイトルもめでたく回収、ということで「ひとまず」終わり、になるのだと思う。
ただし、この終わりは、あくまでも「ひとまず」のもので、後日、今までの本編にあった「夢」ポイントを分岐点にして、新しい物語をえがいていくことになるのだと思う。
それが、『ネギま!』を世に出したマガジン編集部としても納得のオチなのではないか。
というのも、そうでもしない限り、115話以降を、こんなに雑な展開にする必要はないから。
そもそも、14巻で完結、なんて性急なことをしなければいい。
多分、人気もでてきたことだし、この先、どうしようか、という話になったときに、ダラダラと引き伸ばして20巻とか30巻とかになるよりも、これは美少女ゲーム的セオリーに則って、五つ子ごとの個別ルートを描いたほういい、というか、カネになる、と踏んだんじゃないかな。
ということで、『ネギま!』同様に、オープンエンドの、花嫁の可能性は「五等分」という形で終わり、
(詳しくはこちらで→ 五等分の花嫁 第120話 感想3: 121話と122話に向けて、結局「振り出し」に戻ってしまった)
『ネギま!』の渡界機に変わる「分岐アイテム」が「夢」である、ということに落ち着くのではないかな。
そして、このオチなら「誰も選ばない」などとわざわざ風太郎に一度、凄みをつけた口調で言わせたことにも理由ができるから。
そんなカッコイイせりふを吐いたにもかかわらず、あっさり(安易に)最初から自分に優しくしてくれた四葉を選んだ、というヘタレな風太郎になったことも理解できるから。
加えて、その裏返しとして、最終コーナーで四葉をここまで「泥棒猫」のような小狡いキャラとして、物語当初の「善人」から、どう見ても善人といいがたい、むしろ「悪人」といってもいいくらい悪質なキャラとして扱わなければならなくなったことも理解できるから。
ということで、次回タイトルは「五等分の花嫁」で決定でしょ!