写真はホテルの部屋のドアーです。右のほうに棒のようなものが付いています。これをメズザといいます。ユダヤ教徒の人は(注)この部屋に出入りする時、このメズザに触り、神に対して私はあなた忘れてはいません、という誓いをします。ユダヤ教徒にとっては神を忘れたとき神から厳罰が与えられることを恐れてのことのようです。
私はこの話を聞いた時、かつて旧約聖書を読んだ時、戦慄・恐怖を覚えたことを思い出しました。その一つに「出エジプト記」の34章14節の「私以外の神を拝んではならない、神の名は妬み、妬みの神だからである」がありました。この一節などがメズザになるのだろうと思いました。しかし、私も含めて多分一般の日本人は神が「妬みの神」というのは理解不能なところがあるような気もしました。
私が所有する聖書は「新世界訳」で他の教派のとは違うという指摘を受けていましたので、現在一番信用されている新しい「新共同訳」の該当部分を見ました。そこでは「妬み」が「熱情」という語になっていました。しかしこの語だと前半の文章とのつながりがよくわかりません。そこでこの「新共同訳」についていた英文を見てみました。そこには「熱情」という単語に相当する単語がなくI “LORD “ tolerate no-rivals いう文章がありました。この英文と前半の他の神を拝んではならないとを結び付けて「競争相手の神は許さない」とするとよく意味が通じます。なぜtolerate no-rivals が「熱情」になったがよくわかりません。そこで気になったので「新共同訳」以外の旧約聖書を文語訳をも含めて調べてみました。ところが、それらはすべて「妬み」「嫉妬」とかという単語が使用されていました。英文ではjealousy(妬み) でした。「嫉妬」という言葉はあまり良くない意味合いを与えるので最新の「新共同訳」では「熱情」という言葉に置き換えたというのが私の邪推です。ところがそのため意味不明なったというわけです。しかし” tolerate no-rivals “の日本語訳ならば意味が通じたと思うのですが。
そこで教会に電話で尋ねてみることにしました。あるカトリック教会では牧師さんが出てこられましたが午前中のミサで疲れているし(邪推 キリストに血の飲みすぎ=ろれつが回らない?)そんなことは本部に尋ねてくださいとの返事でした。あるプロテスタント系の教会では、他の言語の正確な日本語訳は不可能なので全体の趣旨から考えるべきである。この場合は妻が不倫をしたとき夫が「嫉妬」するのが当たり前のようにそれを「嫉妬」と訳そうが「熱情」と訳そうがあまり違いがないとのことでした。カトリック鹿児島司教区本部に電話しました。牧師さんは私の邪推に全面的に賛成だとのことでした。以前使用していた聖書では「嫉妬」となっていたし、最近の「新共同訳」の「熱情」の単語はあなたと同じくおかしいと思っていたとの話でした。原典のヘブライ語ではどうなっているのでしょうね?
ちょっと私の道楽の紹介が過ぎたようです。なにはともあれユダヤ教の神様も、キリスト教の神様も恐ろしいことをこのたび再確認しました。キリスト教関係者のご批判をいただければ幸いです。(もちろん関係者でない方も)
(注) 現在このようなユダヤ教の厳しい戒律を厳しく守っている人はイスラエルのユダヤ人の20%ぐらいといわれています。しかしイスラエルはユダヤ教の国家です。