風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

隊員時代の娘

2004年08月12日 | チンゲル亭過去日記

隊員として活動をしていたときの娘を、隊員として考えたことはなく、ただ、遠くで仕事をしていると捕らえていました。

隊員の基本は、青少年の育成と聞いています。
隊員が、派遣先の国で、一歩先に進んだ日本人として生活することでお互いに学びあい刺激しあうことが基本なのです。

娘が中国で活動を始めたとき、言葉の問題も大きいのですが、受け入れ先の担当者との、国民性の違いによる葛藤がまず一番にあったのではないかと思います。
そして、その担当者が、勉強熱心であればあるほどの葛藤、無ければまたそれ以上の葛藤がおこり、そこまでしなくてはいけないの?と思わず口から出そうになることまで、しなくてはいけない羽目に陥っていたのではないかと、思われます。

そこいるだけで良いと言うのは、挫折しそうな人にのみ、言う言葉であって何か成したいと思っている若者は、娘に限らず大いに悩んだはずです。

そんなときの娘の相談相手は、活動分野は違っても隊員仲間であったようです。
相談できる隊員がそばにいない時は、どうしたのでしょうか。
派遣元の担当官はそんな時、頼りになる人だったのでしょうか。

娘は、楽しい話ばかりメールで知らせてきました。
私には、そこに日本人としているだけでよい生活のように思えていました。
しかし、夫は、長年企業の中で、戦士のような働き方をしていましたから、伝えられない言葉の中からもさまざまな困難のあることを予想し、隠された思いを娘から受け取っていたようでした。

その一つは、隊員として張り切って指導をしたいと思っても、派遣先には、彼女よりも年上の担当者とその上には、はるかに年長の責任者がいて、協力的に動いてくれるとばかりは限らないことが、多かっただろう。
あるいは、無関心を装われることもあっただろう。

そんななかで、日本のやり方、彼女のやり方を如何に工夫して、相手の心に届かせ、相手の国にあったやり方を模索し発展させていくには、大きな苦労があっただろう。
彼女なりの達成感を味わうまでには、どんな苦労をしたのだろう。

彼女は、一個の大人として行動したのだけれど、若いせいで、子ども扱いされたりもしたのではないか。

協力がないなら、それはそれで仕方が無いと待ちの体制に入ってみようとすることなど、若さゆえに思いもつかなかっただろう。

あの時気がついてあげなくて、ごめんね。
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