風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
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林英哲のしなやかさ

2021年03月21日 | 体を整える
和太鼓奏者の林英哲の映像がとてもきれいでクリアなおかげで、すみずみまで、見えて、演奏を心から楽しみました。
そして、録画のおかげで、別の角度から見ることで、いろんなことがわかった気になりました。

軸がまっすぐに通っていて、筋肉が盛り上がっているのだけれど、堅そうな感じはなく、とてもしなやかに、撥を操っているように見えます。

傍らの、若い奏者は、筋肉は、英哲さんよりたっぷりあり、姿勢もまっすぐなんだけど、頑張ってまっすぐ、頑張って力任せという風にみえてしまいます。


英哲さんの左右の足を前後にした構えは、安定感があり、その上に載っているというより、その上に伸びた上半身が、揺るがない。
伸ばした手のバチの先は、どこまでも空のかなたに飛んでいく感じ。
大器は無限であるか?という須藤先生の言葉の『大器はならず』が思い浮かぶ。


こんなに安定して、ちからづよいのに、硬い訳ではない。あくまでも強い。
伸ばした撥の先は、そこにとどまらず、永遠に宇宙へとつながっている。
大きな大きな器は、何物も包含してしまうから、クラシックの奏者が、英哲さんは雲の上の人と言いながらも「太鼓なのに」と大変失礼ないいまわしをしても、笑顔でした。


力任せではないのに、これ以上もない、すごい音が出ているらしい。
(映像では、音の本当の大きさ、響きがわからないから、過去の記憶から。)


英哲さんの体の真ん中は、どうなっているのだろう。

さらに、YouTubeの映像を見てみると、腰がよく回っているのが見えました。
キチンと支えるということは、動かないのではなく、良く動くから支えられている。そして、よく支えられているから、良く動くということが見えました。
この、支えは、すべてに通じると思う。

詠うにしても、舞いにしても、演奏するにしても、真ん中の支えは、それぞれが持っているのだけれど、動いてしまうために、確たる手ごたえを感じることが難しいのです。
英哲の演奏のように動き回らないから、長時間映像で見せてもらったことで、素人の私にもじっくりと伝わり、見えてきました。
やはり、現場に行って、その全体像をみて、響きの伝わりを味あわなくては、と、切に思う。

ジャンルの違う若者たちが、一瞬で、魅せられるほどのものを放っているのだから。

それで、クラシックの演奏家とのコラボが実現したのだけれど。
「英哲の太鼓には、メロディーがある。」と、言わしめたのは、きっとそういうことなのだろう。

若いころ、小澤征爾に発掘されたのは、さもありなん。

「題名のない音楽会」また面白くなってました。(英哲の出演している回は、3月13日と3月20日)

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