調整していただいた最上の体で、夫の反対を押し切って、カラオケで練習。
入り口で、アルコール消毒。入室の際は、手袋をしているので余計な場所には直接触らないで、それぞれの準備をする。
あとは、自分の道具をつかうだけだから、手袋を外し、マスクを外す。
前回の練習の時と違って、ずいぶん早い段階で、声が出てくる。
声が出てくると、低い音の滑りが良くなり、濁る声が回を追って少なくなって快調である。
「あ」の音は、とてもいい。
三半、三の音程に気を付けて、パッと六に上がる譜が、回を追うごとに、滑らかになる。
これを習ったはじめは、「爾霊山」だったなぁ。
言葉が違うと、同じ「あ」の母音で、吟じるのに、感触が全く違っている。
昔の発声と、今開発中の発声の違いだけではない気がする。
伴奏も良く聞こえるし、結句の大山が最後まで安定してきたし、結びの三の高さの音が安定したので、ゆとりを感じる。
予定した練習回数の半分にも達してないのですが、「声を出さない発声練習」で、少しは補えたかもしれない。
関吟HPの掲示板にも、小さい声の練習は、発声の練習にはならないが、情緒的な工夫をするのには、適しているというのがありました。
自宅では、よそ眼(耳)を憚らず、好きなだけ練習していたあのころのことを懐かしむこと無く、今ある環境で、出来ることを工夫をすればよいと思えるようになった。
「おおきなこえ」に対する忌避感から口をつぐまざるを得ない状況に、大きな声を出せないと、ひもじい思いすることはない。
もうこのまま声が出なくなるのではないかとの不安から解消され、まだ、大丈夫、やればできると、安心を得たことも確か。
出ない声を無理に絞り出さないで、楽器のメンテナンスに勤しんだことは、不安もあったけれど、とても良かった
あとは、何度も何度も、鳥が羽ばたきを覚える時のように、「習」って「習」うのみ。
山田先生!楽器の調整、心の調整をありがとうございます。
そして、むしろ声を出さない発声練習を見つけた私を、褒めてもらおう。
若いときの幼い楽器で、出していた思い切りの声と、年を重ねて、少しくたびれて、気持ちもくたびれた楽器を、奏でるのは、同じ自分の体でも、まるで違う楽器を奏でるのだと、認識し、同じ声を出すには、楽器に合わせなくてはいけない。
それ以上の声を出すには、どういう意識改革が必要か、考える。
「いつものあれ」ではだめなのです。
自分の老いを知り、力の入れ具合が変わったことを知り、だからこそ、できる限りの体のメンテナンスを心がけることが、とても大事と、分かりました。
喉は、使いすぎてもいけないが、使っていなければ、どんなに体のメンテナンスを行っても、出にくいものだということもわかりました。
ほどほどというのが、それぞれに違っているから、自分のことを理解するにも、誰かへの助言の時も、これからどう言葉にしてよいのか、検証の要あり。
私の根本の発声は間違っていたわけではないのだと、安心しました。
本当に間違っていたなら、今までの練習はご破算にしなくてはならないところだった。
人生が変わる位の、重要案件になるところだった。
あぁ、良かった。