中国の作曲家タン・ドゥン作曲の「始皇帝」の世界初演がMETで幕開けし、タイトルロールをプラシド・ドミンゴが歌うと言うので、当初から大変な評判だったが、やはり、実際にMETライブビューイングで聴いて観て見ると流石に面白い。
スペクタクルなグランド・オペラの華麗なる舞台である。
オペラとしての音楽の価値がどうかと言うことは私には全く分からない。
しかし、東洋と西洋の融合と言う意味では画期的な作品で、Making the First Emperorの一面として、オペラの準備や舞台裏の状況、それにタン・ドゥンの指揮の様子が録画で幕間に紹介されていたが、彼が、中国やインドの音楽のリズムについてその違いを教えていたのなど面白く、それに、随所に東洋的な芸術の伝統が取り込まれている。早い話、演出は中国映画界のホープ・チャン・イー・モウ監督、衣装はアカデミー賞のわが日本の誇るワダ・エミ、英語台本は中国の小説家ハ・ジン等々で、東洋ムード満開である。
タン・ドゥンが20年前に来米してMETでドミンゴのトーランドットの舞台を見て、将来オペラを作曲してドミンゴに歌って貰いたいと言う夢を持ったと語っていたが、実際に今回の初演でタン・ドゥンから誘いを受けてドミンゴが引き受けたと言う。
作曲中もこのオペラについては、二人の接触はあったようで、友情が育まれており、ドミンゴは、作曲者のタン・ドゥンが、自ら指揮をして自分の意図したことや、オーケストラや歌手達と一緒に創り出したいことを自分自身で表現することは素晴らしいとMETのインタビューで言っている。
始皇帝のドミンゴだが、昨年の日本でのワルキューレの舞台では疲れを感じたのだが、この舞台では至って元気で、素晴らしい美声を聴かせてくれた。
タン・ドゥンは国境のない音楽を作曲したのだと言っていたが、素晴らしいベルカント風のアリアはなかったが、音楽は全編にわたって非常に美しくて、華麗に語りかけるような琴の演奏を筆頭に東洋的な楽器がエキゾチックな雰囲気を盛り上げていて、最後まで飽きさせなかった。
始皇帝の頃の楽器は土器などを使っていたと言うので、大小の火鉢様の壺をならべたり、太鼓の放列をしいたり、一頃のシャンカールのようなEAST MEETS WESTのムードだが、異質感は全く感じられないほど融合していた。
舞台は、下から上まで階段状になっていて、詰まれたブロックが300個、天井からぶら下げられたロープが600本で長さが11キロメートルと言うのであるから、大変なボリュームで、この階段舞台が宮殿になったり奴隷達が積み上げる万里の頂上になったりするのだが、ぶら下がったロープが壮大な教会の列柱のような雰囲気を醸し出すなど素晴らしい演出である。
バックの合唱団が、群集になったり奴隷になったり、このオペラでは大変効果的な動きをしている。
タン・ドゥンも意識したのであろうか、音楽も何処かトーランドットに似たところもあり、舞台も群集の扱いも良く似ており、この舞台が、次の新しいトーランドットの演出に影響を与えるような気がする。
ところでこのオペラであるが、秦の始皇帝についてのオペラだと思えば完全に意表を衝かれる。
あの法治主義で郡県制をしいたり、中央集権制を批判した儒者に対して行った焚書坑儒や、万里の長城や兵馬俑を造った始皇帝のイメージなど全くない。
このオペラで重要なテーマは、偉大な帝国に相応しい新しい国歌を、宮廷音楽家カオ・ジャンリ(ポール・グローブス)を捉えて作曲させることことである。
ジャンリは、始皇帝が村を破壊し母親を殺したので憎み抜くが、始皇帝の娘ユエアン(エリザベス・フラトル)と恋に落ちる。ユエアンは将軍と結婚させられるが操を守り抜いて夫に殺害される。将軍も自害し、ジャンリも舌を噛み切り死んでしまう。
絶望した始皇帝がジャンリの作曲した素晴らしい国歌を聴こうとして、群集に歌えと命じるが、その歌は、まさしく奴隷達が歌っていた悲しみと慟哭の歌であった。ジャンリが復讐を遂げたのである。
エリザベス・フトラルの美しく澄んだソプラノを筆頭に、ポール・グローブス、そして将軍を歌ったハオ・ジャン・タン達も素晴らしい音楽を聴かせてくれた。
今回、音響についてはそれ程気にならなかったのが幸いした。
「マルコ・ポーロ」や「ティー」で既に名声を得ているタン・ドゥンだが、この「始皇帝」は、中国の統一と国歌の創作と言うことに発想を得てこれを比喩にして、彼の音楽を新しい統一された全体像を作り出すために異質なものを統一しようとする試みだと言う。
METと言う桧舞台に殴り込みをかけたタン・ドゥンの心意気が、正に、中国の建国と言う壮大なテーマに合致したのかも知れない。
スペクタクルなグランド・オペラの華麗なる舞台である。
オペラとしての音楽の価値がどうかと言うことは私には全く分からない。
しかし、東洋と西洋の融合と言う意味では画期的な作品で、Making the First Emperorの一面として、オペラの準備や舞台裏の状況、それにタン・ドゥンの指揮の様子が録画で幕間に紹介されていたが、彼が、中国やインドの音楽のリズムについてその違いを教えていたのなど面白く、それに、随所に東洋的な芸術の伝統が取り込まれている。早い話、演出は中国映画界のホープ・チャン・イー・モウ監督、衣装はアカデミー賞のわが日本の誇るワダ・エミ、英語台本は中国の小説家ハ・ジン等々で、東洋ムード満開である。
タン・ドゥンが20年前に来米してMETでドミンゴのトーランドットの舞台を見て、将来オペラを作曲してドミンゴに歌って貰いたいと言う夢を持ったと語っていたが、実際に今回の初演でタン・ドゥンから誘いを受けてドミンゴが引き受けたと言う。
作曲中もこのオペラについては、二人の接触はあったようで、友情が育まれており、ドミンゴは、作曲者のタン・ドゥンが、自ら指揮をして自分の意図したことや、オーケストラや歌手達と一緒に創り出したいことを自分自身で表現することは素晴らしいとMETのインタビューで言っている。
始皇帝のドミンゴだが、昨年の日本でのワルキューレの舞台では疲れを感じたのだが、この舞台では至って元気で、素晴らしい美声を聴かせてくれた。
タン・ドゥンは国境のない音楽を作曲したのだと言っていたが、素晴らしいベルカント風のアリアはなかったが、音楽は全編にわたって非常に美しくて、華麗に語りかけるような琴の演奏を筆頭に東洋的な楽器がエキゾチックな雰囲気を盛り上げていて、最後まで飽きさせなかった。
始皇帝の頃の楽器は土器などを使っていたと言うので、大小の火鉢様の壺をならべたり、太鼓の放列をしいたり、一頃のシャンカールのようなEAST MEETS WESTのムードだが、異質感は全く感じられないほど融合していた。
舞台は、下から上まで階段状になっていて、詰まれたブロックが300個、天井からぶら下げられたロープが600本で長さが11キロメートルと言うのであるから、大変なボリュームで、この階段舞台が宮殿になったり奴隷達が積み上げる万里の頂上になったりするのだが、ぶら下がったロープが壮大な教会の列柱のような雰囲気を醸し出すなど素晴らしい演出である。
バックの合唱団が、群集になったり奴隷になったり、このオペラでは大変効果的な動きをしている。
タン・ドゥンも意識したのであろうか、音楽も何処かトーランドットに似たところもあり、舞台も群集の扱いも良く似ており、この舞台が、次の新しいトーランドットの演出に影響を与えるような気がする。
ところでこのオペラであるが、秦の始皇帝についてのオペラだと思えば完全に意表を衝かれる。
あの法治主義で郡県制をしいたり、中央集権制を批判した儒者に対して行った焚書坑儒や、万里の長城や兵馬俑を造った始皇帝のイメージなど全くない。
このオペラで重要なテーマは、偉大な帝国に相応しい新しい国歌を、宮廷音楽家カオ・ジャンリ(ポール・グローブス)を捉えて作曲させることことである。
ジャンリは、始皇帝が村を破壊し母親を殺したので憎み抜くが、始皇帝の娘ユエアン(エリザベス・フラトル)と恋に落ちる。ユエアンは将軍と結婚させられるが操を守り抜いて夫に殺害される。将軍も自害し、ジャンリも舌を噛み切り死んでしまう。
絶望した始皇帝がジャンリの作曲した素晴らしい国歌を聴こうとして、群集に歌えと命じるが、その歌は、まさしく奴隷達が歌っていた悲しみと慟哭の歌であった。ジャンリが復讐を遂げたのである。
エリザベス・フトラルの美しく澄んだソプラノを筆頭に、ポール・グローブス、そして将軍を歌ったハオ・ジャン・タン達も素晴らしい音楽を聴かせてくれた。
今回、音響についてはそれ程気にならなかったのが幸いした。
「マルコ・ポーロ」や「ティー」で既に名声を得ているタン・ドゥンだが、この「始皇帝」は、中国の統一と国歌の創作と言うことに発想を得てこれを比喩にして、彼の音楽を新しい統一された全体像を作り出すために異質なものを統一しようとする試みだと言う。
METと言う桧舞台に殴り込みをかけたタン・ドゥンの心意気が、正に、中国の建国と言う壮大なテーマに合致したのかも知れない。