熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

硫黄島からの手紙

2007年01月30日 | 映画
   クリント・イーストウッド監督の2部作後編「硫黄島からの手紙」を観た。
   「父親たちの星条旗」はアメリカの視点から見た映画であり、この映画は最初から最後まで完全に日本語で押し通された日本側から見た硫黄島の戦いの映画である。
   日本軍の総指揮官である栗林中将(渡辺謙)の絵手紙に基づいて書かれたアイリス・ヤマシタの脚本の素晴らしさは言うまでもないが、私は、全編を貫くクリント・イーストウッドの温かくて優しいヒューマニズムを感じながら感激して観ていた。
   
   何よりも、正直、真実の部分が大切だと言っているが、これだけフェアかつ誠実に、日本軍を、そして戦争を描いた映画監督が居たであろうか。
   栗林中将が兵士たちに告げる「(人びとは)何年も経ってから君たちの事を思い出して、君たちの魂を祈ってくれる」と言う言葉に万感の思いを込めて、国のために戦って死んで行った多くの若者達にトリビュートを奉げたクリント・イーストウッドの人間賛歌の素晴らしい映画である。
   戦争がなければ長く生きられたのにと、若い少年兵のような兵士達に向かって言ったイーストウッドの言葉が、戦争の空しさを如実に語っている。勝者も敗者もない戦いを淡々と描いていて胸を打つ。

   留学してアメリカを知っていた栗林中将が、古い日本軍の古参将校たちの反対を押し切って作戦を練り直し、少しづつ戦場の雰囲気が変わって行く。栗林に助けられながら、若い元パン屋の西郷昇陸軍一等兵(二宮和也)が生きる希望を持ち始めて少しづつ変わって行く様子が印象的である。
   それにしても、渡辺謙の栗林中将が、実に丁寧な美しい日本語を喋り続け、最後までジェントルマンとして押し通す人間としての素晴らしさは格別である。
   同じく、ロサンゼルス・オリンピックで乗馬で大活躍した西竹一陸軍中佐(伊原剛志)が、米軍捕虜を助けて介抱し、語りかけるあたりの人間らしさも素晴らしい。
   残酷な軍隊生活の側面は押さえ込まれて奇麗事のようであり真実を語っていないと言う批判もあろうが、それは、雲霞の如く押し寄せる米軍と壮絶な戦争シーンで十分に語られている。

   優秀な通訳が居たと言うが、監督のクリント・イーストウッドは、日本語で演技をする日本人俳優を相手にメガフォンを取った。
   主要な数人の俳優以外は総てアメリカ在住の日本人俳優で、スタッフの殆どもアメリカ人であり、主にカリフォルニアにある禿山で撮影されたようであるが、日本そして日本人を描くのに手抜きは一切ない。
   演出する時は、本能や勘を重視する。演技は、本能的な芸術である。最初のインスピレーションが大切で、俳優には、脳を使わずハートを入れろと言っている。とイーストウッドは語っていた。
   表面の波浪には一切幻惑されずに、大きな潮の流れだけを掴もうとする、そんな真摯な姿が浮かび上がってくる。
   じっくりと凝視しながら本質的な価値と芸術の魂をしっかりと掴み取る類稀な天性の芸術感覚の発露であろう。

   この戦争映画は、ヴェトナムやイラクでの泥沼のようなアメリカの戦争を告発するイーストウッドの反戦映画でもある。
   投降した日本兵を、自分の身を守るために、平然と射殺する米兵を描きながら、戦争の非情さ以前の悪についても容赦はしていない。白旗を握り締めながら死んでいる若き日本兵(加瀬亮)を大写しにすることによって、アメリカの正義が如何に欺瞞であるかを暴こうとしているのである。
   原住民のインディアンを蹴散らしてフロンティアを切り開き、あまねく文化文明を伝播してきたと誇るアメリカ人の驕りが、一人の指導者の思い上がりによっていまだに中東で繰り返されている、クリント・イーストウッドは、この2編の映画を通して、このことを痛いほど我々の眼前に叩き付けているのだ。

   今、何故、硫黄島なのか。
   誠実に一生懸命生きながら、邪悪な魂に遮られてどうしようもない運命に翻弄されて消えて行かざるを得なかったあのミリオンダラー・ベイビーが、総てを物語っているような気がしている。
   
   

   
   
コメント
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