1月の歌舞伎座は実に華やかで、幸四郎・吉右衛門の共演、久しぶりの勘三郎に加えて、玉三郎が、素晴らしい舞台を見せてくれる。
昼の部の勘三郎との「喜撰」で、茶汲み女・祇園のお梶を演じるのだが、和歌に優れていて小野小町に見立てられた町女。ほろ酔い機嫌のチョボクレ坊主の勘三郎の喜撰法師を相手に、手ぬぐいを使って艶やかに踊る。
夜の部では、幸四郎の松永大膳、吉右衛門の此下東吉を相手に、祗園祭礼信仰記の「金閣寺」で、”三姫”の一つである素晴らしい雪姫を8年ぶりに演じて観客を魅了している。
幕府の執権大膳に絵師の夫狩野直信(梅玉)を投獄され、権力を傘に着て一夜をともにするか金閣寺の天井に龍の絵を描くかと迫られる雪舟の孫娘と言う設定。父が殺害されて奪われた名刀倶利伽羅丸を大膳から奪い取り斬りつけるが、逆に桜の木に縛られる。雪舟のように桜の花びらを足指で掻き集めて鼠を描くとその鼠が動き出して縄を噛み切り助けられる。
赤ではなくて鴇色の綺麗な着物を着たスマートな玉三郎が、桜吹雪を前身に浴びながら、縄を引き摺って舞台を彷徨って、立ち止まって絵を描き始めるが、この”爪先鼠”の場面だけでも実に素晴らしい絵になる。
昔、「土手のお六」で娘に見えないと言われたようだが、この雪姫は、雪舟の孫の女絵師でもあり、大膳に斬りかかる程のしっかり者の若妻であるから、娘である前に気品のあるLadyであることで、玉三郎には合っているし、特に強く主張することなく華麗な舞台を見せていて好ましい。
ところで、幸四郎の大膳だが、大舞台での存在感は十分すぎるほど十分だが、大悪人でありながら嫌味が全くなくて、空気のように澄んでいる感じの演技が面白い。
弱みに付け込んで雪姫に一夜を迫るなど、言うならば卑劣で助平な執権だが、そんな気さえ感じさせない全く無色透明な錦絵を見ているような様式美に徹底した悪人役で、ある意味では、これが時代物の歌舞伎の一面かも知れないと思って見ていた。
その憎々しい悪役を、十河軍平の左團次と大膳弟松永鬼藤太の彌十郎が代わりに演じていたと言う感じであった。
ところで、昼の部の高麗屋のお家芸勧進帳の弁慶、何回も観ているのだが、やはり、幸四郎の弁慶は格別である。今回、最後の眼目の飛び六方だが、疲れたのか、呼吸を整えて二呼吸置いてから豪快に花道を引っ込んで行った。
一方の此下東吉の方は、もっと俗人的で、地で行っているような演技であり、吉右衛門の持ち味が十分に発揮された颯爽とした清々しい舞台を楽しむことが出来た。
吉右衛門は、どこかで、歌舞伎の場合は物語の一部を切り取った「見取り」で公演されることが多いので物語全体を把握して舞台に臨むのだと書いていたが、確かにそうでないと、大きく立場の違ってくる此下東吉後に真柴筑前守久吉の味は出せなかったであろう。
夜の部の最後は、橋之助の与三郎と福助のお富の兄弟による「切られお富」で、例の「もし、御新造さんえ、おかみさんえ、・・・お富さんえ・・・いやさお富、久しぶりだなあ」の「与話情浮名横櫛」ではなく、書き換え狂言の「処女翫浮名横櫛」だが、福助の悪婆ぶりが面白い。
幸四郎兄弟の場合と違って、福助兄弟の場合は、同じ兄弟でも男女の役で、色模様を演じるのであるから一寸気になる。
お富が散々切り刻まれて瀕死の重傷を負うのだが蝙蝠の安蔵(彌十郎)に助けられて、安蔵と、後に出世した仇の赤間源左衛門(歌六)を徹底的に強請って金を巻き上げる話である。
残忍さと悪婆のしたたかさがポイントなのだろうが、福助のお富の悪婆ぶりを観て、あの「伊勢音頭恋寝刃」の仲居万野を演じた福助の舞台を思い出した。
福助は、同じ女形でも性格俳優としての素質も満点である。
昼の部の勘三郎との「喜撰」で、茶汲み女・祇園のお梶を演じるのだが、和歌に優れていて小野小町に見立てられた町女。ほろ酔い機嫌のチョボクレ坊主の勘三郎の喜撰法師を相手に、手ぬぐいを使って艶やかに踊る。
夜の部では、幸四郎の松永大膳、吉右衛門の此下東吉を相手に、祗園祭礼信仰記の「金閣寺」で、”三姫”の一つである素晴らしい雪姫を8年ぶりに演じて観客を魅了している。
幕府の執権大膳に絵師の夫狩野直信(梅玉)を投獄され、権力を傘に着て一夜をともにするか金閣寺の天井に龍の絵を描くかと迫られる雪舟の孫娘と言う設定。父が殺害されて奪われた名刀倶利伽羅丸を大膳から奪い取り斬りつけるが、逆に桜の木に縛られる。雪舟のように桜の花びらを足指で掻き集めて鼠を描くとその鼠が動き出して縄を噛み切り助けられる。
赤ではなくて鴇色の綺麗な着物を着たスマートな玉三郎が、桜吹雪を前身に浴びながら、縄を引き摺って舞台を彷徨って、立ち止まって絵を描き始めるが、この”爪先鼠”の場面だけでも実に素晴らしい絵になる。
昔、「土手のお六」で娘に見えないと言われたようだが、この雪姫は、雪舟の孫の女絵師でもあり、大膳に斬りかかる程のしっかり者の若妻であるから、娘である前に気品のあるLadyであることで、玉三郎には合っているし、特に強く主張することなく華麗な舞台を見せていて好ましい。
ところで、幸四郎の大膳だが、大舞台での存在感は十分すぎるほど十分だが、大悪人でありながら嫌味が全くなくて、空気のように澄んでいる感じの演技が面白い。
弱みに付け込んで雪姫に一夜を迫るなど、言うならば卑劣で助平な執権だが、そんな気さえ感じさせない全く無色透明な錦絵を見ているような様式美に徹底した悪人役で、ある意味では、これが時代物の歌舞伎の一面かも知れないと思って見ていた。
その憎々しい悪役を、十河軍平の左團次と大膳弟松永鬼藤太の彌十郎が代わりに演じていたと言う感じであった。
ところで、昼の部の高麗屋のお家芸勧進帳の弁慶、何回も観ているのだが、やはり、幸四郎の弁慶は格別である。今回、最後の眼目の飛び六方だが、疲れたのか、呼吸を整えて二呼吸置いてから豪快に花道を引っ込んで行った。
一方の此下東吉の方は、もっと俗人的で、地で行っているような演技であり、吉右衛門の持ち味が十分に発揮された颯爽とした清々しい舞台を楽しむことが出来た。
吉右衛門は、どこかで、歌舞伎の場合は物語の一部を切り取った「見取り」で公演されることが多いので物語全体を把握して舞台に臨むのだと書いていたが、確かにそうでないと、大きく立場の違ってくる此下東吉後に真柴筑前守久吉の味は出せなかったであろう。
夜の部の最後は、橋之助の与三郎と福助のお富の兄弟による「切られお富」で、例の「もし、御新造さんえ、おかみさんえ、・・・お富さんえ・・・いやさお富、久しぶりだなあ」の「与話情浮名横櫛」ではなく、書き換え狂言の「処女翫浮名横櫛」だが、福助の悪婆ぶりが面白い。
幸四郎兄弟の場合と違って、福助兄弟の場合は、同じ兄弟でも男女の役で、色模様を演じるのであるから一寸気になる。
お富が散々切り刻まれて瀕死の重傷を負うのだが蝙蝠の安蔵(彌十郎)に助けられて、安蔵と、後に出世した仇の赤間源左衛門(歌六)を徹底的に強請って金を巻き上げる話である。
残忍さと悪婆のしたたかさがポイントなのだろうが、福助のお富の悪婆ぶりを観て、あの「伊勢音頭恋寝刃」の仲居万野を演じた福助の舞台を思い出した。
福助は、同じ女形でも性格俳優としての素質も満点である。