熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

敬愛なるベートーヴェン

2007年01月13日 | 映画
   シャンテシネで、「敬愛なるベートーヴェン」を見た。
   可なり面白い映画だと思ったが、大体、日本語の題名から、こんな日本語の表現があるのかと疑問に思ったが、親愛なら親愛なると言うが、敬愛なら敬愛するであろう。
   昔は、洋画の日本名は実に凝っていて意訳そのものであったが、その後、外国語の日本読みそのままになったり大変な苦労をしている。
   旅情などイメージを膨らませてくれるが、デヴィッド・リーンの意図したSummertimeのニュアンスとは一寸違っている。Shakespeare in Loveの「恋に落ちたシェイクスピア」は中々上手いと思った。
   今回の原題は、「Copying Beethoven」で、ベートーヴェンの作曲した原作の楽譜をまともな楽譜に写譜することである。 

   初演4日前だと言うのに、第九の第4楽章の合唱パートが出来上がっていないので、慌てた出版社シュレンマーが音楽学校で最高の学生写譜師を依頼するが送られてきたのは女子学生アンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)。
   しかし、ベートーヴェンが、彼女が楽譜の一部を長調から短調に変えて写譜したのを詰問すると、「貴方ならこうする筈」と反論されて、彼女が只者ではないことを知って写譜師として認め、二人の奇妙な二人三脚の作曲活動が始まるのである。
   ベートーヴェンを尊敬し作曲をしたい一心の彼女にはこのコピイストの仕事は、正に千載一遇のチャンスで献身的に尽くすので、耳が聞えなくなって荒んで狂気寸前、正気を失っていたベートーヴェンが少しづつ人間らしくなって行く。

   感動的なのは、第九の初演で、指揮に自信のないベートーヴェンを助ける為に、シュレンマーに頼まれて、客席にいたアンナが舞台に上がって、楽団員の一番後ろの床に跪いてベートーヴェンにテンポと入りの合図を送るシーンで、ベートーヴェンは、彼女の手の動きを確かめながら指揮をして感動的な演奏を完遂する。
   耳の聞えないベートーヴェンには、総立ちになって感極まった観衆の熱狂的な歓声や拍手は聞えない。アンナが近づいてベートーヴェンを振り向かせて熱狂する観客の姿を見せると、無音だった画面が割れるような歓声に変わる。
   
   もみくちゃになったベートーヴェンがアンナを振り返って、二人でやったと狂喜する。
   素晴らしい第九を演奏したのは、字幕によると彼の地で私が通いつめたロンドン交響楽団。この10分程だが、こじんまりした何処かヨーロッパのオペラハウスであろうが、舞台背景も音楽も素晴らしい「交響曲第9番合唱つき」の映画シーンであった。
   後日、ベートーヴェンは、読みながら彼を導いた第九の総譜に献辞を書き込んでアンナに感謝を込めて渡す。

   ベートーヴェンには謎が多くて、この若い女性のコピイストも創作ではあろうが、ベートーヴェンを限りなく尊敬し献身的に尽くしたこのような素晴らしい人がいても当然だと言う気もしている。
   トロイのヘレンを演じたダイアン・クルーガーは、実にチャーミングな女優である。

   
   ベートーヴェンを演じたエド・ハリスも、私の印象から言えば遥かに人間的で優しいとは思ったが、素晴らしいベートーヴェン像を作り出していて、楽想が止めどもなく湧いて来て爆発しそうな雰囲気を良く出していた。
   当時の人には理解されずに総スカンを食った大フーガの演奏の後で倒れて不帰の人となるが、駄作を殆ど作らなかったベートーヴェンの偉大さを誰も凌駕し得ていない。

   この偉大なベートーヴェンは、ハイドンやモーツアルトのようにパトロンに仕えることなく正にプロフェッショナルな音楽家として、民衆のために壮大な音楽を作曲し続けた。
   窓のない隣の部屋に住む夫人が、誰よりも早くベートーヴェンの音楽を聞ける喜びを語りながら、最初の曲が交響曲第7番だと言って口ずさんでいたが、これも、ラッパの様な耳栓を詰めて音を増幅しながら作曲に奮闘する隣人ベートーヴェンの一面かも知れない。
   何故か、急に、もう一度アマデウスの映画も見たくなってしまった。
   ウィーンには面影が残っていないのでプラハで撮ったと言うモーツアルト映画だがやはりあの当時のヨーロッパの雰囲気が良い。
コメント
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