槌屋の抱え女郎梅川(時蔵)に恋をした飛脚屋亀屋の養子忠兵衛(藤十郎)が恋敵の丹波屋八右衛門(三津五郎)に侮辱され煽られて、ご法度の公金の封印を切ってしまい、死罪で追われる身となり、梅川と、雪の激しく降り頻る故郷大和の新口村へ落ちて行く近松門左衛門の悲劇「冥土の飛脚」の歌舞伎版「恋飛脚大和往来」の切なくも悲しい舞台が、歌舞伎座の昼の舞台の目玉である。
大金を扱うがその金は総て他人の金で運ぶだけ、財力も甲斐性もない忠兵衛が、梅川に恋をしたのが悲劇の始まりだが、身請けの金など準備できる訳がなく行く先・結末がが分かっていても、追い詰められて切羽詰るまで恋にうつつをぬかして奈落の底へ突き進んで行く。
近松は、何故、こんなにがしんたれで後先を考えずに他人を不幸に巻き込んで死に急ぐ阿呆な大坂男を主人公にした心中ものばかり書いたのであろうか。
しかし、今、世界中を経済危機の渦中に巻き込んでしまったサブプライム問題だが、先の奈落が分かっていながら突き進んでしまったと言うのは忠兵衛と全く同じで、社会性を伴っている分、ある意味では忠兵衛よりももっと悪質である。
実際には家を買えるような能力のない人に、家の値上がりによる資産価値のアップのみを頼りに金を貸し込んで、銀行自身は証券化してリスクを他人に転化してしまい、さらにその証券を債務担保証券として投資家に販売して世界中に行き渡ってしまったが、損害がどうなっているのかさえ定かではない。
何年も住宅ブームを謳歌し、アメリカ経済好況の支柱であった住宅価格の高騰が永遠に続く訳がなく、いつかは暴落して経済危機が起こるのが必定でありながら、皆で渡れば怖くない赤信号で、花見酒の経済に酔ってきたが、とうとう、つけを払わざるを得なくなった。
住宅ローンを返せなくなって差し押さえられた住宅が激増して市場に氾濫すると目も当てられない状態になるが、どうするのか、世界最高水準だと言われたアメリカの金融システムも、とどのつまりは、誰でも先のパニックを予測できるような略奪的貸付を助長する、その程度のものだったのである。
赤福のモラル欠如の経営など言語道断だが、忠兵衛の場合には、まだ、梅川と言う女人を心底愛したバカさゆえ救いがある。
ところで、肝心の舞台の方だが、藤十郎は、父親の鴈治郎が舞台に立っていた頃は梅川を演じていたが、最近ではずっと忠兵衛を演じている。
上方和事は、おかしみが身上だと言うが、身請けの金も用意できないのに、のこのこと大店気取りで梅川に会いに来る忠兵衛そのものからして能天気であり喜劇である。藤十郎が演じると、ことの深刻さより、茶室での梅川とのじゃらじゃらしたいちゃつきは勿論、八右衛門に挑発されながら少しづついらつきながらも、どこか惚けた受け答えをして、徐々に上り詰めて行く悲劇も非常に人間臭さを増してきて味が出ている。
八右衛門の悪口雑言に、堪忍袋の尾が切れて二階から飛び出す仕草にしても、切羽詰って封印を切るまでの心の葛藤にしても、理詰めで展開されてゆく舞台ではなく、何処か、運命の糸に操られているような舞台展開、そんな気がして仕方がなかった。
それだけに、封印を切ってしまった後の絶望感が途轍もなく大きくて深い。
分かっているけれど、とうとうやってしまったと言う結末になってしまうのだが、抵抗しても逆らえずに身を持ち崩して奈落の底に落ちてしまう。藤十郎の芸を見ていて、関西人にはそんな人生への諦観があるような気がするのである。
梅川の時蔵だが、控え目のしっとりとした雰囲気が実に良い。
文楽の方の梅川は、簔助が遣う所為かも知れないが、見世女郎ながら健気でしっかりとした女の自負を強く感じさせるのだが、時蔵の場合は、その強さをやや抑え目にしながらバカな忠兵衛でも恋しさ一途で寄り添っていると言う感じが印象的で私には新鮮な驚きであった。
大坂男のがしんたれさに比べて、しっかりして、勝気で、さっぱりして、逞しくて大胆奔放で、男を引っ張って死さえ恐れない、そんな大坂女を近松は描いたが、それだけではない大坂女がいた筈である。
忠兵衛の父親孫右衛門の我當だが、恐らく父の仁左衛門の孫右衛門もあのような味のある何との言えない自愛に満ちた舞台を努めたのであろう、雪の新口村の風情と逃避行に旅立つ二人とのこの世の最後の名残を惜しむ姿がダブって叙情を誘って胸を打つ。
忠兵衛ビイキで気風の良い情に厚い井筒屋おえんの秀太郎は正に打って付けの役柄で、八右衛門を徹底的に痛めつける心意気や忠兵衛と梅川を見つめる視線の優しさなど心の機微が垣間見えて実に上手い。
親分肌の槌屋治右衛門の歌六も、正に適役で、一寸江戸風だがどすの利いた貫禄が舞台を引き締めている。
今回、なんと言っても上出来は、三津五郎の八右衛門だが、殆ど訛りを感じさせない達者な大阪弁で、忠兵衛との丁々発止の漫談口調の会話をポンポンと実に器用に操りながら、憎々しげに忠兵衛を挑発して追い詰めて行く。
これまでは仁左衛門の忠兵衛の舞台が2回と染五郎が1回だが、藤十郎の芸はやはり決定版なのであろう、素晴らしい近松の舞台であった。
梅川は、玉三郎が1回、孝太郎が2回。
何故か、私にとっては、文楽の舞台の方が強烈な印象が残っているのが不思議である。
大金を扱うがその金は総て他人の金で運ぶだけ、財力も甲斐性もない忠兵衛が、梅川に恋をしたのが悲劇の始まりだが、身請けの金など準備できる訳がなく行く先・結末がが分かっていても、追い詰められて切羽詰るまで恋にうつつをぬかして奈落の底へ突き進んで行く。
近松は、何故、こんなにがしんたれで後先を考えずに他人を不幸に巻き込んで死に急ぐ阿呆な大坂男を主人公にした心中ものばかり書いたのであろうか。
しかし、今、世界中を経済危機の渦中に巻き込んでしまったサブプライム問題だが、先の奈落が分かっていながら突き進んでしまったと言うのは忠兵衛と全く同じで、社会性を伴っている分、ある意味では忠兵衛よりももっと悪質である。
実際には家を買えるような能力のない人に、家の値上がりによる資産価値のアップのみを頼りに金を貸し込んで、銀行自身は証券化してリスクを他人に転化してしまい、さらにその証券を債務担保証券として投資家に販売して世界中に行き渡ってしまったが、損害がどうなっているのかさえ定かではない。
何年も住宅ブームを謳歌し、アメリカ経済好況の支柱であった住宅価格の高騰が永遠に続く訳がなく、いつかは暴落して経済危機が起こるのが必定でありながら、皆で渡れば怖くない赤信号で、花見酒の経済に酔ってきたが、とうとう、つけを払わざるを得なくなった。
住宅ローンを返せなくなって差し押さえられた住宅が激増して市場に氾濫すると目も当てられない状態になるが、どうするのか、世界最高水準だと言われたアメリカの金融システムも、とどのつまりは、誰でも先のパニックを予測できるような略奪的貸付を助長する、その程度のものだったのである。
赤福のモラル欠如の経営など言語道断だが、忠兵衛の場合には、まだ、梅川と言う女人を心底愛したバカさゆえ救いがある。
ところで、肝心の舞台の方だが、藤十郎は、父親の鴈治郎が舞台に立っていた頃は梅川を演じていたが、最近ではずっと忠兵衛を演じている。
上方和事は、おかしみが身上だと言うが、身請けの金も用意できないのに、のこのこと大店気取りで梅川に会いに来る忠兵衛そのものからして能天気であり喜劇である。藤十郎が演じると、ことの深刻さより、茶室での梅川とのじゃらじゃらしたいちゃつきは勿論、八右衛門に挑発されながら少しづついらつきながらも、どこか惚けた受け答えをして、徐々に上り詰めて行く悲劇も非常に人間臭さを増してきて味が出ている。
八右衛門の悪口雑言に、堪忍袋の尾が切れて二階から飛び出す仕草にしても、切羽詰って封印を切るまでの心の葛藤にしても、理詰めで展開されてゆく舞台ではなく、何処か、運命の糸に操られているような舞台展開、そんな気がして仕方がなかった。
それだけに、封印を切ってしまった後の絶望感が途轍もなく大きくて深い。
分かっているけれど、とうとうやってしまったと言う結末になってしまうのだが、抵抗しても逆らえずに身を持ち崩して奈落の底に落ちてしまう。藤十郎の芸を見ていて、関西人にはそんな人生への諦観があるような気がするのである。
梅川の時蔵だが、控え目のしっとりとした雰囲気が実に良い。
文楽の方の梅川は、簔助が遣う所為かも知れないが、見世女郎ながら健気でしっかりとした女の自負を強く感じさせるのだが、時蔵の場合は、その強さをやや抑え目にしながらバカな忠兵衛でも恋しさ一途で寄り添っていると言う感じが印象的で私には新鮮な驚きであった。
大坂男のがしんたれさに比べて、しっかりして、勝気で、さっぱりして、逞しくて大胆奔放で、男を引っ張って死さえ恐れない、そんな大坂女を近松は描いたが、それだけではない大坂女がいた筈である。
忠兵衛の父親孫右衛門の我當だが、恐らく父の仁左衛門の孫右衛門もあのような味のある何との言えない自愛に満ちた舞台を努めたのであろう、雪の新口村の風情と逃避行に旅立つ二人とのこの世の最後の名残を惜しむ姿がダブって叙情を誘って胸を打つ。
忠兵衛ビイキで気風の良い情に厚い井筒屋おえんの秀太郎は正に打って付けの役柄で、八右衛門を徹底的に痛めつける心意気や忠兵衛と梅川を見つめる視線の優しさなど心の機微が垣間見えて実に上手い。
親分肌の槌屋治右衛門の歌六も、正に適役で、一寸江戸風だがどすの利いた貫禄が舞台を引き締めている。
今回、なんと言っても上出来は、三津五郎の八右衛門だが、殆ど訛りを感じさせない達者な大阪弁で、忠兵衛との丁々発止の漫談口調の会話をポンポンと実に器用に操りながら、憎々しげに忠兵衛を挑発して追い詰めて行く。
これまでは仁左衛門の忠兵衛の舞台が2回と染五郎が1回だが、藤十郎の芸はやはり決定版なのであろう、素晴らしい近松の舞台であった。
梅川は、玉三郎が1回、孝太郎が2回。
何故か、私にとっては、文楽の舞台の方が強烈な印象が残っているのが不思議である。