日本橋高島屋で、華道の228流派1100人の作家達の華麗な「日本いけばな展」が開かれている。
観客の大半は華道関係の人と思しき婦人達だが、その所為もあって中々熱心で個々の作品について詳しく批評しあっている人たちもいる。
花が好きだけの素人の私には殆ど分からなかったが、とにかく、228流派と言うからこの数字だけでも驚きだが、同じ生け花でも、色々なアプローチの仕方があり、そのバリエーションの豊かさにはびっくりしてしまった。
今回、こんなに多くの作品がありながら、花以外の鉄や木を使ったアブストラクトなものが殆どなく、オーソドックスな作品が多いような気がした。
私には、芸術性や作品のモチーフなど一切分からないので、夫々の作品を見ながら、自分の感性だけで、それも、アッと感動するような、心を引いてくれる作品が何処にあるのかと言った気持ちで見せて貰っている。
おそらく、個々の作品がしかるべき所に活けられてディスプレィされておれば、夫々の感激は一入なのであろうが、このように、これでもかこれでもかと、素晴らしい作品がふんだんに並べて展示されてしまうと、違いだけが目に付いて値打ちが半減してしまうのが残念である。
私の独善と偏見だが、いけばなと言うのは、生け花とも書くようで、切ってしまえば死も同然であるから、その花を生きているように、或いは、より生きるように配置すると言うのが本来の趣旨であろうか。
樹木希林のコマーシャルではないが、美しい花は、より美しく生きているようにアレンジすると言うことだろうから、正に、花にとっては白鳥の歌である。
活けられた花が、人を感動させるような素晴らしい花となって造形されれば本懐であろう。日本のいけばなには、花の最も重要な属性・生きると言うことを旨としている所が、欧米のフラワーアレンジメントの世界と大きく違っている。
欧米の花のデコレーションは、美しく、時には、豪華絢爛たる輝きを示すが、それは既に昇天した花の美しさで、別の世界に行ってしまった異次元の造形に過ぎないと言うことであろう。
私は、学生時代に京都や奈良の古寺散策に明け暮れていたので、どうしても、思索を誘うような古寺の佇まいにフィットする茶花の雰囲気や日本庭園の清楚でひっそりとした季節の花のイメージに惹かれるのだが、逆に、欧米で見続けた豪華で極彩色のデコレーションの世界も捨てがたく、複雑な思いで見ている。
デジカメを向ける所為か、いけばなの全体像より部分的な美しさにどうしても惹かれてしまうのだが、細部にも繊細な心遣いを感じさせる作品が多くて楽しませてくれる。
秋と言う季節の為か、色々な木の実や石榴や柿などが彩を添えていて面白いが、何処から調達してくるのか、ビックリするような花材をあしらった作品も多く発想の豊かさを感じて興味が尽きない。
作品については、別な場所で製作して会場に持ち込むということは考えられないので、開場前には、この狭い会場で、作者達は入り乱れて戦場のような中で作品を仕上げたのであろうと思うと、静かにひっそりとして客を迎えているくれている作品が、何となく愛しくなる。
観客の大半は華道関係の人と思しき婦人達だが、その所為もあって中々熱心で個々の作品について詳しく批評しあっている人たちもいる。
花が好きだけの素人の私には殆ど分からなかったが、とにかく、228流派と言うからこの数字だけでも驚きだが、同じ生け花でも、色々なアプローチの仕方があり、そのバリエーションの豊かさにはびっくりしてしまった。
今回、こんなに多くの作品がありながら、花以外の鉄や木を使ったアブストラクトなものが殆どなく、オーソドックスな作品が多いような気がした。
私には、芸術性や作品のモチーフなど一切分からないので、夫々の作品を見ながら、自分の感性だけで、それも、アッと感動するような、心を引いてくれる作品が何処にあるのかと言った気持ちで見せて貰っている。
おそらく、個々の作品がしかるべき所に活けられてディスプレィされておれば、夫々の感激は一入なのであろうが、このように、これでもかこれでもかと、素晴らしい作品がふんだんに並べて展示されてしまうと、違いだけが目に付いて値打ちが半減してしまうのが残念である。
私の独善と偏見だが、いけばなと言うのは、生け花とも書くようで、切ってしまえば死も同然であるから、その花を生きているように、或いは、より生きるように配置すると言うのが本来の趣旨であろうか。
樹木希林のコマーシャルではないが、美しい花は、より美しく生きているようにアレンジすると言うことだろうから、正に、花にとっては白鳥の歌である。
活けられた花が、人を感動させるような素晴らしい花となって造形されれば本懐であろう。日本のいけばなには、花の最も重要な属性・生きると言うことを旨としている所が、欧米のフラワーアレンジメントの世界と大きく違っている。
欧米の花のデコレーションは、美しく、時には、豪華絢爛たる輝きを示すが、それは既に昇天した花の美しさで、別の世界に行ってしまった異次元の造形に過ぎないと言うことであろう。
私は、学生時代に京都や奈良の古寺散策に明け暮れていたので、どうしても、思索を誘うような古寺の佇まいにフィットする茶花の雰囲気や日本庭園の清楚でひっそりとした季節の花のイメージに惹かれるのだが、逆に、欧米で見続けた豪華で極彩色のデコレーションの世界も捨てがたく、複雑な思いで見ている。
デジカメを向ける所為か、いけばなの全体像より部分的な美しさにどうしても惹かれてしまうのだが、細部にも繊細な心遣いを感じさせる作品が多くて楽しませてくれる。
秋と言う季節の為か、色々な木の実や石榴や柿などが彩を添えていて面白いが、何処から調達してくるのか、ビックリするような花材をあしらった作品も多く発想の豊かさを感じて興味が尽きない。
作品については、別な場所で製作して会場に持ち込むということは考えられないので、開場前には、この狭い会場で、作者達は入り乱れて戦場のような中で作品を仕上げたのであろうと思うと、静かにひっそりとして客を迎えているくれている作品が、何となく愛しくなる。