経営は「量の時代」のピークを過ぎ、「質の時代」に入った。
超高齢化、高質な製品にこだわる多様な消費者の台頭、サービス産業化(経験価値の重視)、グローバルには市場の複雑・不確実な関係、貧困問題、社会的価値の重視、そして先進諸国の知識社会経済化と、企業が根本から変化せざるを得ない状況が立ち現われている。
日本企業は、多くの社会的・個人的犠牲を払いながらも、かろうじてこれまでの成長をなし得たが、果たして、質の時代、経営の知の有様が変化した時代に如何に対処して行くのか。
こんな問題意識を持って野中郁次郎教授は、紺野登氏との共著「美徳の経営」で、正にそのものずばりの今後あるべき美徳の経営のあり方について語っている。
理論分析的な米国式経営や戦略に対する、人間的な知の復権や社会的価値の再発見、そして行為・実践の重視と言う、より深い批判的視点持ち、企業倫理やCSR(企業の社会的責任)、さらには、芸術家的なリーダーやデザインへの関心などが顕在化し、新しい時代に求められる最も重要な経営の資質が美徳となった。
美徳の経営とは、本質的な価値を追求し、未来を創り、かつ実践する知的な力量を持った経営であると言うのである。
先生は、この暴走する世界において、アリストテレスの「賢慮フロネシス」を持ち出して、最高の実践的智恵の追求を賢慮リーダーの資質としており、美徳の経営を目指して、市場や組織の背後にある、より深層の変化の要因を把握し、行為の目的を実践して行くための、判断力や実践力が迫られていると言うのである。
しかし、赤福がおかしな経営をしていて毎日のように唾棄すべき真実が数限りなく暴露され続けている日本には縁遠い話であって、何処の国の経営の話をしているのか、ユートピアの話のように思えて仕方がない。国民が総内部告発者化すれば、無尽蔵に違法・不法行為が暴露されて、日本中が危機的状況に落ち込んでしまう筈である。
中国製品の品質管理の杜撰さが問題になっているが、日本の経営も程度問題であって、社会保険庁や防衛省守屋次官問題など官僚の腐敗も程度の差だけであって、全く同じ次元の話に過ぎない。
もっとも、私自身は、野中先生の説に異論はないしそうあって欲しいと願っているが、現実はあまりにもお粗末であって、経営学の目指すべき程度をもう少し落とさざるを得ないのではないかと思っている。
野中先生が持ち上げている松下幸之助翁だが、流石に見上げたもので、もう何十年も前の社員への講話で、
「利益は無意味に使うわけではなく、より良き再生産のために資金を使い、従業員の生活の向上のため、設備の為、また、社会に還元して色々寄与する。社会生活が国民全体、社会全体として増進して行くために、会社は大きな役割を受け持っている。そういう尊い使命があるために利益を求めることが許されている。」と語っている。
その幸之助翁が、うちにはソニーと言う研究所がおまんねん。と言ってマネシタ電器の元を開き、イノベーションの追求を削いでしまっていた。それはそれなりの戦略として機能したが、何が正しいか、何が美徳なのかは、時代の流れによって変わってくるということも事実であろう。
何れにしろ、野中・紺野両氏は、リーダーを美徳の経営の実践者でなければならないと言った新しい視点から捉えた新リーダー像を提示したことには大きな意義がると思った。
超高齢化、高質な製品にこだわる多様な消費者の台頭、サービス産業化(経験価値の重視)、グローバルには市場の複雑・不確実な関係、貧困問題、社会的価値の重視、そして先進諸国の知識社会経済化と、企業が根本から変化せざるを得ない状況が立ち現われている。
日本企業は、多くの社会的・個人的犠牲を払いながらも、かろうじてこれまでの成長をなし得たが、果たして、質の時代、経営の知の有様が変化した時代に如何に対処して行くのか。
こんな問題意識を持って野中郁次郎教授は、紺野登氏との共著「美徳の経営」で、正にそのものずばりの今後あるべき美徳の経営のあり方について語っている。
理論分析的な米国式経営や戦略に対する、人間的な知の復権や社会的価値の再発見、そして行為・実践の重視と言う、より深い批判的視点持ち、企業倫理やCSR(企業の社会的責任)、さらには、芸術家的なリーダーやデザインへの関心などが顕在化し、新しい時代に求められる最も重要な経営の資質が美徳となった。
美徳の経営とは、本質的な価値を追求し、未来を創り、かつ実践する知的な力量を持った経営であると言うのである。
先生は、この暴走する世界において、アリストテレスの「賢慮フロネシス」を持ち出して、最高の実践的智恵の追求を賢慮リーダーの資質としており、美徳の経営を目指して、市場や組織の背後にある、より深層の変化の要因を把握し、行為の目的を実践して行くための、判断力や実践力が迫られていると言うのである。
しかし、赤福がおかしな経営をしていて毎日のように唾棄すべき真実が数限りなく暴露され続けている日本には縁遠い話であって、何処の国の経営の話をしているのか、ユートピアの話のように思えて仕方がない。国民が総内部告発者化すれば、無尽蔵に違法・不法行為が暴露されて、日本中が危機的状況に落ち込んでしまう筈である。
中国製品の品質管理の杜撰さが問題になっているが、日本の経営も程度問題であって、社会保険庁や防衛省守屋次官問題など官僚の腐敗も程度の差だけであって、全く同じ次元の話に過ぎない。
もっとも、私自身は、野中先生の説に異論はないしそうあって欲しいと願っているが、現実はあまりにもお粗末であって、経営学の目指すべき程度をもう少し落とさざるを得ないのではないかと思っている。
野中先生が持ち上げている松下幸之助翁だが、流石に見上げたもので、もう何十年も前の社員への講話で、
「利益は無意味に使うわけではなく、より良き再生産のために資金を使い、従業員の生活の向上のため、設備の為、また、社会に還元して色々寄与する。社会生活が国民全体、社会全体として増進して行くために、会社は大きな役割を受け持っている。そういう尊い使命があるために利益を求めることが許されている。」と語っている。
その幸之助翁が、うちにはソニーと言う研究所がおまんねん。と言ってマネシタ電器の元を開き、イノベーションの追求を削いでしまっていた。それはそれなりの戦略として機能したが、何が正しいか、何が美徳なのかは、時代の流れによって変わってくるということも事実であろう。
何れにしろ、野中・紺野両氏は、リーダーを美徳の経営の実践者でなければならないと言った新しい視点から捉えた新リーダー像を提示したことには大きな意義がると思った。