ゲイツの創造的主本主義論に対して、反対、乃至、懐疑的で、ネガティブな発想の賢者たちの見解や意見が、結構面白いので、今回は、これらについて検討してみたいと思っている。
福祉国家的な傾向の強いヨーロッパと違って、さすがに、自由主義の徹底した市場主義的な競争原理を高く評価しているアメリカだけあって、弱者救済という極めてヒューマニスティックな理念であっても、資本主義経済システムに手を加えようとすることには、根強い反発があるのである。
ミルトン・フリードマン流の「企業経営者には、企業収益を最大化する義務がある」とする”受託者義務”を前面に出して、
慈善寄付を行う企業は、株主との約束を破るばかりではなく、利潤の最大化のみを追求する企業との競争力を殺ぐことになるので、市場を奪われるのを阻止するために、利益至上主義企業にも慈善プロジェクトを行わせるよう政府に圧力をかける危険がある。
企業は、利益最大化の掟に従って行動しているからこそ能率的なのであって、有効に働いている資本主義社会には、創造的資本主義など無益である 。
アフリカなどへの対外支援は、改革を求める力を弱めるために、貧しい国の政府の質を益々悪化させるだけである。
と最も強烈なタカ派的な議論をするのが、第七巡回控訴裁判所R.ポズナー判事。
フリードマンの弟子だが、ポズナーほどではないとして、ゲイツなどの姿勢に理解を示しながらも、利益外の目標を持つ利他的な企業が、果たして、利潤動機のみの企業と競争すべき市場環境で、生きて行けるのかが問題だとして疑問を呈するのは、ノーベル賞のシカゴ大G.ベッカー教授。
利潤以外の動機、すなわち、消費者本位のサービス、雇用における人種差別、環境への配慮などで一部の利益を諦めて他の目標を追求する企業は、利潤最大化を目指す企業と競争して行くのは難しいと言う学術調査の結果が出ているのだという。
誰もが、無数の人々の破滅よりも自分の小さな不幸に関心があるのであって、いくら、良くても、豊かな国の多くの企業に、第三世界の病気を治そうとか、CO2の削減を目指すと言ったインセンティブを持たせるのは難しい。貧しい国に競争を奨励し、市場との調和を重視した政策を採らせるとか、企業の慈善活動よりはるかに効果的な方法がいくらでもある筈だ、とゲイツ説には極めて冷たい。
マイクロソフトのイメージは、世界の変革者、見事に富を築き上げた企業、無慈悲な商売敵、と言った”良き企業市民”ではなかったが、それ故に、創造的でない昔ながらの資本家であったゲイツが、今度は逆に、世界を変革し驚くほど寛大な、そして著しく創造的な慈善家になる富を蓄積することが出来た。
「ゲイツは昔の彼ならず」だが、マイクロソフトが、慈善事業をしなかったとしても、その経済活動を通して世界に貢献した度合いは、ゲイツ財団などの貢献よりはるかに大きい。
ゲイツが推進しようとしている企業の社会的責任と言う理念は、たとえ何らかの成果をあげたのしても、利益を追求する意欲を減退させ、妨げる可能性が高い。
要するに、企業は企業であるべきであって、社会的責任や創造的資本主義などと言って脇目を振らずに、ロックフェラーのように、どんな手段を使ってでも富を築くことが先で、利潤を最大化した者が、税金を支払って残りの財産を慈善事業に費やせば良いのである、と冷然と説くのが、ファイナンシャル・タイムズのC.クルック・コラミニスト。
面白いのは、リベラルで「暴走する資本主義」の著者で元労働長官のロバート・ライシュ教授で、資本主義に人間らしさを与えて公益のために利用しようとするゲイツの試みには敬服するが、このプロジェクトが、公益のために資本家の利益を犠牲にしなければならないものである限り、民主主義社会では成功しないから無意味であると言う。
民主主義が、社会のニーズに応えるものだと言う信頼が崩れてきたことが問題だが、これは、総て企業のロビイストがあまりにも大きな影響力を持ちすぎてしまったことによる。環境保護関連の法的措置を妨害し、国民皆保険制度案を叩き潰してきた企業が、果たして、創造的な社会的責任など果たせるのか。企業が言う社会的貢献事業などは、すべからくコスト削減とか利益アップのための手段や方便であって、社会的責任であるはずがないと言うのである。
もう一つ興味深いのは、元財務長官のR.サマーズ議長の見解で、持ち家制度を一般化するためにと設立された「ファニーメイ」や「フレディマック」を例に挙げて、いくら素晴らしい創造的資本主義的な発想であっても、企業の負債を政府が保証すると言う一般認識があった故に、危険な賭けに出て、市場規律も作用せず、利益は私物化し、損失は社会化して、財政破綻への道をまっしぐらに進んでしまったが、これに、似ていないかと言う。
複数の目的を創造的資本家に課すと言うことは、業績に関する説明責任の消失を暗に示唆しており、まして、問題の企業が道義に叶った使命を持ち社会的責任を担っているのなら、市場の効率性を損なってでも、競争に勝てるように支援しなければならないと言う考えにならないか、と疑問を呈する。
良く考えてみれば、今、アメリカ政府などが必死になって行っている金融機関やビッグスリーの救済なども、この類ではないであろうか、と勘繰りたくなるような理論展開で面白い。
このサマーズの見解に、ノーベル賞学者のチャップマン大V.スミス教授が賛意を表している。
その他にも、加州大G.クラーク教授、NY大W.イースタリー教授、P.オーメロッド社長、ロチェスター大S.ランズバーグ教授、マット・ミラー氏など、批判的な意見を展開する賢者が多く、夫々の見解が、実に示唆に富んでいて興味深い。
資本主義そのものが最良の経済システムであり、それ以上に、弱者をも利する創造的資本主義はないと言う考え方、利益追求のみが企業の使命であって経営者はそれ以外の目的に脇目を振ってはならないと言う考え方、経営者などは自分の利益のみしか考えていないので慈善などと言う哲学があるはずもなく全く信用できないと言う考え方など、まちまちだが、
現在の資本主義を、このままの野放し状態では、社会の経済秩序や安心安寧、公正平等など人類の理想は実現できないと言うことだけは、どうも、真実のような気がする。
私自身の意見が書けなかったが、次に譲りたい。
福祉国家的な傾向の強いヨーロッパと違って、さすがに、自由主義の徹底した市場主義的な競争原理を高く評価しているアメリカだけあって、弱者救済という極めてヒューマニスティックな理念であっても、資本主義経済システムに手を加えようとすることには、根強い反発があるのである。
ミルトン・フリードマン流の「企業経営者には、企業収益を最大化する義務がある」とする”受託者義務”を前面に出して、
慈善寄付を行う企業は、株主との約束を破るばかりではなく、利潤の最大化のみを追求する企業との競争力を殺ぐことになるので、市場を奪われるのを阻止するために、利益至上主義企業にも慈善プロジェクトを行わせるよう政府に圧力をかける危険がある。
企業は、利益最大化の掟に従って行動しているからこそ能率的なのであって、有効に働いている資本主義社会には、創造的資本主義など無益である 。
アフリカなどへの対外支援は、改革を求める力を弱めるために、貧しい国の政府の質を益々悪化させるだけである。
と最も強烈なタカ派的な議論をするのが、第七巡回控訴裁判所R.ポズナー判事。
フリードマンの弟子だが、ポズナーほどではないとして、ゲイツなどの姿勢に理解を示しながらも、利益外の目標を持つ利他的な企業が、果たして、利潤動機のみの企業と競争すべき市場環境で、生きて行けるのかが問題だとして疑問を呈するのは、ノーベル賞のシカゴ大G.ベッカー教授。
利潤以外の動機、すなわち、消費者本位のサービス、雇用における人種差別、環境への配慮などで一部の利益を諦めて他の目標を追求する企業は、利潤最大化を目指す企業と競争して行くのは難しいと言う学術調査の結果が出ているのだという。
誰もが、無数の人々の破滅よりも自分の小さな不幸に関心があるのであって、いくら、良くても、豊かな国の多くの企業に、第三世界の病気を治そうとか、CO2の削減を目指すと言ったインセンティブを持たせるのは難しい。貧しい国に競争を奨励し、市場との調和を重視した政策を採らせるとか、企業の慈善活動よりはるかに効果的な方法がいくらでもある筈だ、とゲイツ説には極めて冷たい。
マイクロソフトのイメージは、世界の変革者、見事に富を築き上げた企業、無慈悲な商売敵、と言った”良き企業市民”ではなかったが、それ故に、創造的でない昔ながらの資本家であったゲイツが、今度は逆に、世界を変革し驚くほど寛大な、そして著しく創造的な慈善家になる富を蓄積することが出来た。
「ゲイツは昔の彼ならず」だが、マイクロソフトが、慈善事業をしなかったとしても、その経済活動を通して世界に貢献した度合いは、ゲイツ財団などの貢献よりはるかに大きい。
ゲイツが推進しようとしている企業の社会的責任と言う理念は、たとえ何らかの成果をあげたのしても、利益を追求する意欲を減退させ、妨げる可能性が高い。
要するに、企業は企業であるべきであって、社会的責任や創造的資本主義などと言って脇目を振らずに、ロックフェラーのように、どんな手段を使ってでも富を築くことが先で、利潤を最大化した者が、税金を支払って残りの財産を慈善事業に費やせば良いのである、と冷然と説くのが、ファイナンシャル・タイムズのC.クルック・コラミニスト。
面白いのは、リベラルで「暴走する資本主義」の著者で元労働長官のロバート・ライシュ教授で、資本主義に人間らしさを与えて公益のために利用しようとするゲイツの試みには敬服するが、このプロジェクトが、公益のために資本家の利益を犠牲にしなければならないものである限り、民主主義社会では成功しないから無意味であると言う。
民主主義が、社会のニーズに応えるものだと言う信頼が崩れてきたことが問題だが、これは、総て企業のロビイストがあまりにも大きな影響力を持ちすぎてしまったことによる。環境保護関連の法的措置を妨害し、国民皆保険制度案を叩き潰してきた企業が、果たして、創造的な社会的責任など果たせるのか。企業が言う社会的貢献事業などは、すべからくコスト削減とか利益アップのための手段や方便であって、社会的責任であるはずがないと言うのである。
もう一つ興味深いのは、元財務長官のR.サマーズ議長の見解で、持ち家制度を一般化するためにと設立された「ファニーメイ」や「フレディマック」を例に挙げて、いくら素晴らしい創造的資本主義的な発想であっても、企業の負債を政府が保証すると言う一般認識があった故に、危険な賭けに出て、市場規律も作用せず、利益は私物化し、損失は社会化して、財政破綻への道をまっしぐらに進んでしまったが、これに、似ていないかと言う。
複数の目的を創造的資本家に課すと言うことは、業績に関する説明責任の消失を暗に示唆しており、まして、問題の企業が道義に叶った使命を持ち社会的責任を担っているのなら、市場の効率性を損なってでも、競争に勝てるように支援しなければならないと言う考えにならないか、と疑問を呈する。
良く考えてみれば、今、アメリカ政府などが必死になって行っている金融機関やビッグスリーの救済なども、この類ではないであろうか、と勘繰りたくなるような理論展開で面白い。
このサマーズの見解に、ノーベル賞学者のチャップマン大V.スミス教授が賛意を表している。
その他にも、加州大G.クラーク教授、NY大W.イースタリー教授、P.オーメロッド社長、ロチェスター大S.ランズバーグ教授、マット・ミラー氏など、批判的な意見を展開する賢者が多く、夫々の見解が、実に示唆に富んでいて興味深い。
資本主義そのものが最良の経済システムであり、それ以上に、弱者をも利する創造的資本主義はないと言う考え方、利益追求のみが企業の使命であって経営者はそれ以外の目的に脇目を振ってはならないと言う考え方、経営者などは自分の利益のみしか考えていないので慈善などと言う哲学があるはずもなく全く信用できないと言う考え方など、まちまちだが、
現在の資本主義を、このままの野放し状態では、社会の経済秩序や安心安寧、公正平等など人類の理想は実現できないと言うことだけは、どうも、真実のような気がする。
私自身の意見が書けなかったが、次に譲りたい。