アメリカは、出口がなく終わりのない世界戦争の只中にいるが、この戦争は、他でもないアメリカ人自身の内部から来ている。
現在、アメリカは、経済および文化の危機、政治の危機、軍事の危機と云う3つの危機が絡み合った脅威に晒されていているのだが、これは、アメリカに現実主義と謙虚さが欠如し、アメリカの持つ富と優越した地位のために、「自信過剰と言う最も嘆かわしい誘惑」に負けてしまい、思い上がりと信心ぶることが、アメリカの国是となってしまっているからである。
アメリカに必要なことは、アメリカに同調することを世界に強要するのではなく、正に、アメリカ人自身が自分の運命について再検討することが必要であり、海外に頼ることを止め、帝国主義的妄想を捨てさらなければならない。
アメリカが直面しているこれらの危機は、アメリカの魂とも言うべき自由にとって必要なものは何なのか、この極めて困難を伴う検証をすべく、総てのアメリカ市民に等しく責任を課している。
このような問題意識を持って、主に、軍事的な視点から、厳しくアメリカの持つ使命について、深く掘り下げながら、アメリカのあるべき姿を提言した素晴らしい本が、このアンドリュー・J・ベイセヴィッチの「アメリカ・力の限界 The Limits of the Power」である。
冷戦が終結したことによって、誰も想像もしたことがなかった超大国アメリカが出現したのだが、このアメリカが、2001年9月11日のテロ攻撃を、何故、予期し、防御し、回避することが出来なかったのか。
これは、政治エリートたちは帝国の運営管理に没頭するあまり、アメリカ合衆国自体を防衛すると言うことには、殆ど注意を向けていなかったからで、9.11以前には母国防衛の任務は存在していなかったのである。
このように、冒頭から、意表をつくような論述から始まり、アメリカの軍事関連の内幕など真の姿を開陳しながら、建国の思想から説き起こして、アメリカの文化文明が直面している力の限界を、真摯に語っていて、読んでいて、アメリカの良心を強く感じて感激さえした。
示唆に富む素晴らしい論述が展開されているのだが、私が、一番印象に残っているのは、
「ピザを作るほどのコストしかかからない簡易爆発物(IED)が、アメリカのイラクでの勝利に対して痛烈な打撃を与えている」と言う事実である。
スピードこそが最小の力で最大の効果を可能にする決め手だとして、あらぬ限りのあらゆる電子機器を駆使したITハイテク兵器と最先端の科学技術を無尽蔵に投入して戦って勝利した筈のイラクで、アメリカは、当初のアラブ世界の民主的解放という理想の実現とははるかに程遠く、何の成果も挙げえずに、いまだに、泥沼化したイラクに釘付けとなっている。
フセインの除去さえすれば決定的な成果を得られた筈のイラクで、反政府側が簡易爆発物を武器として使用しただけで、あらゆる理念が反故と化して泥沼となって、謂わば、占領、駐留を余儀なくされてしまったのである。
結局、アメリカは、貧しいヴェトナムの農民兵士たちが殆ど素手で戦ったにも拘らず負けてしまったヴェトナム戦争の教訓から、殆ど何も学ばなかったのである。
ベイセヴィッチは、
「戦争は、かってそうであったように、今でも捉えどころがなく粗雑で犠牲が大きく、コントロールし難く、驚きの連続で、さらに予想外の結果を起こすことが確実だと言うことである。戦争のこうした可能性を理解できない人は、発狂しているとしか言いようがないのである。」と述べている。
膨大な国家予算を投入して軍事技術を進化拡大させても、殆ど無意味だと言うこと、そして、ブッシュ政権がテロとの戦いを金科玉条にして推進これ努めた予防戦争など愚の骨頂だと言うことであろうか。
正義は自分が決めるのだとタイクーン化した大統領が総てを押し切る軍事帝国主義の様相を呈していたアメリカが、それこそ、経済社会の屋台骨を危うくまでして守ろうとした国是とは、一体何だったのであろうか。
ソフト・パワーの重要性を説きながらも、元軍人であったベイセヴィッチのアメリカの戦略は、ジョセフ・ナイとも違った切り口で語っていて、非常に興味深い。
(追記)写真は、我が家で一輪だけ咲いたヴェトナム椿。
現在、アメリカは、経済および文化の危機、政治の危機、軍事の危機と云う3つの危機が絡み合った脅威に晒されていているのだが、これは、アメリカに現実主義と謙虚さが欠如し、アメリカの持つ富と優越した地位のために、「自信過剰と言う最も嘆かわしい誘惑」に負けてしまい、思い上がりと信心ぶることが、アメリカの国是となってしまっているからである。
アメリカに必要なことは、アメリカに同調することを世界に強要するのではなく、正に、アメリカ人自身が自分の運命について再検討することが必要であり、海外に頼ることを止め、帝国主義的妄想を捨てさらなければならない。
アメリカが直面しているこれらの危機は、アメリカの魂とも言うべき自由にとって必要なものは何なのか、この極めて困難を伴う検証をすべく、総てのアメリカ市民に等しく責任を課している。
このような問題意識を持って、主に、軍事的な視点から、厳しくアメリカの持つ使命について、深く掘り下げながら、アメリカのあるべき姿を提言した素晴らしい本が、このアンドリュー・J・ベイセヴィッチの「アメリカ・力の限界 The Limits of the Power」である。
冷戦が終結したことによって、誰も想像もしたことがなかった超大国アメリカが出現したのだが、このアメリカが、2001年9月11日のテロ攻撃を、何故、予期し、防御し、回避することが出来なかったのか。
これは、政治エリートたちは帝国の運営管理に没頭するあまり、アメリカ合衆国自体を防衛すると言うことには、殆ど注意を向けていなかったからで、9.11以前には母国防衛の任務は存在していなかったのである。
このように、冒頭から、意表をつくような論述から始まり、アメリカの軍事関連の内幕など真の姿を開陳しながら、建国の思想から説き起こして、アメリカの文化文明が直面している力の限界を、真摯に語っていて、読んでいて、アメリカの良心を強く感じて感激さえした。
示唆に富む素晴らしい論述が展開されているのだが、私が、一番印象に残っているのは、
「ピザを作るほどのコストしかかからない簡易爆発物(IED)が、アメリカのイラクでの勝利に対して痛烈な打撃を与えている」と言う事実である。
スピードこそが最小の力で最大の効果を可能にする決め手だとして、あらぬ限りのあらゆる電子機器を駆使したITハイテク兵器と最先端の科学技術を無尽蔵に投入して戦って勝利した筈のイラクで、アメリカは、当初のアラブ世界の民主的解放という理想の実現とははるかに程遠く、何の成果も挙げえずに、いまだに、泥沼化したイラクに釘付けとなっている。
フセインの除去さえすれば決定的な成果を得られた筈のイラクで、反政府側が簡易爆発物を武器として使用しただけで、あらゆる理念が反故と化して泥沼となって、謂わば、占領、駐留を余儀なくされてしまったのである。
結局、アメリカは、貧しいヴェトナムの農民兵士たちが殆ど素手で戦ったにも拘らず負けてしまったヴェトナム戦争の教訓から、殆ど何も学ばなかったのである。
ベイセヴィッチは、
「戦争は、かってそうであったように、今でも捉えどころがなく粗雑で犠牲が大きく、コントロールし難く、驚きの連続で、さらに予想外の結果を起こすことが確実だと言うことである。戦争のこうした可能性を理解できない人は、発狂しているとしか言いようがないのである。」と述べている。
膨大な国家予算を投入して軍事技術を進化拡大させても、殆ど無意味だと言うこと、そして、ブッシュ政権がテロとの戦いを金科玉条にして推進これ努めた予防戦争など愚の骨頂だと言うことであろうか。
正義は自分が決めるのだとタイクーン化した大統領が総てを押し切る軍事帝国主義の様相を呈していたアメリカが、それこそ、経済社会の屋台骨を危うくまでして守ろうとした国是とは、一体何だったのであろうか。
ソフト・パワーの重要性を説きながらも、元軍人であったベイセヴィッチのアメリカの戦略は、ジョセフ・ナイとも違った切り口で語っていて、非常に興味深い。
(追記)写真は、我が家で一輪だけ咲いたヴェトナム椿。