改築への派手なカウントダウンのデジタル時計の数字が踊り始めた五月の歌舞伎は、恒例の團菊祭で、菊五郎と團十郎が素晴らしい舞台を見せてくれる。
これに、「毛剃」で、團十郎に、藤十郎と秀太郎が加わって東西名優の共演が実現していて、一寸、違ったニュアンスが楽しめて面白い。
冒頭から、團十郎家の十八番の内の「暫」が舞台にかかり、八反の布で縫い上げたと言う角ばらせた巨大な濃柿色の素襖を身に纏って、五本車鬢に派手な筋隈の厳つい顔で、仁王襷を背中で蝶結びにした、正に、江戸歌舞伎でしか楽しめない凄い出立ちの鎌倉権五郎の海老蔵が登場。
「暫く」と声をかけて登場し、花道で大音声で、團十郎家の故事来歴・芸の道を、歌舞伎座改築のお祝いを述べるなどのサービスを加えた長台詞「ツラネ」を滔々と捲し立てて、その場にどっかり座って威嚇する海老蔵は、やはり、今を時めく市川家の若旦那の風格十分で、江戸の絵師たちも感激するような雄姿である。
当然、親父さんの團十郎の「暫」が決定版ではあろうが、特に、心理的かつリアルな芸が求められるような役柄ではなく、見せて魅せる舞台であるから、やはり、爆発するような気迫とエネルギーの充満したスピードと迫力が命で、今の海老蔵にはぴったりであると思って見ていた。
この荒事の典型とも言うべき凄い舞台を見せた海老蔵が、夜の部の、「神田ばやし」では気の弱い朴訥でしまらない男を演じ、「おしどり」では、旧三之助の一人として水も滴るような美形の若侍として舞っているのであるから、恐れ入る。
この「暫」だが、正義の味方・鎌倉権五郎が、「暫く」と言って登場する以外は、話の筋や舞台展開も、先年團十郎が復活上演した「象引」と殆ど同じなのだが、要するに、当時の江戸の庶民は、勧善懲悪、弱きを助けて悪人を懲らしめる、正に、胸の空くような素晴らしいスーパーマンを演じてくれる團十郎を、神様のように見ていたのかも知れない。
江戸の庶民は、黒白、善悪、どちらが良いか悪いかの判断は、気風良く一挙に決めてしまうのであろうが、余談ながら、社会が文明化したのか複雑になったのか、今回の民主党代表の選挙は、どうも、邪念が入り込みすぎて、すっぱりと明朗ではなかったのが悔やまれるような気がしている。
この「暫」での鎌倉権五郎の隈取が凄い。
欧米の舞台では、仮面を使うようで、このような隈取を見たことがないので、日本や中国などアジア独特なのであろう。
團十郎の「歌舞伎案内」で、團十郎は、市川家で、この独特の化粧法を見出したとして、「人間の筋肉に沿って、その隆起をより強調してみせる」効力があると述べている。二代目團十郎が、庭の牡丹の花からぼかしのヒントを得たと言う伝説がある。
目の周りに紅を塗るのだが、本洋紅と言う顔料は、メキシコにいる小さな虫のおなかにある、ほんの少ししかない赤い物質をかき集めるので、随分高いのだと言う。
そんな訳で、紙に隈取を取る訳ではなさそうだが、名優の押し隈が残っているのが面白い。
服部幸雄氏の説明によると、東洋画の技法に、遠近や高低を表し立体感を出すために、墨や色の濃淡で境界をぼかす「くまどり」と言うのがあって、この手法を使って、肉体に生じた陰を誇張し、さらに、様式美を加味しつつ舞台の化粧法に応用したのが歌舞伎の隈取だと言う。
日本の仏像や、ミケランジェロの彫刻には、筋肉や血管の隆起がビビッドに彫られているが、平面の顔には、隈取と言う補強が必要だったと言うことであろうか。
この「暫」の舞台には、権力悪の典型と言われる公家悪の隈取の清原武衡(左團次)の白塗りに青々としたドギツイ隈取もあり、対照的で面白い。
しかし、興味深いのは、中国の京劇役者の隈取に似た「瞼譜」は、全く、歌舞伎の隈取とは違って、顔にべったり色を塗って絵を描くと言うか、仮面の代わりをしている。
お互いに影響があるのだろうが、文化の違いが出ていて興味深い。
この「暫」は、花道に座り込んで動こうとはしない鎌倉権五郎を追っ払おうと、男鯰、女鯰、四天王、奴などが、入れ替わり立ち代り試みるのだが埒が明かず尻尾を巻いて退散すると言うコミカルな演技が続き、権五郎が、権力悪の権化である清原武衡を裁くために舞台中央に躍り出て、強大な素襖を開いて元禄見得を切り、その後、向かってくる沢山の仕丁の首を、2メートル以上もある湾曲した大刀で一気に切り落とすと言った場面など面白い見せ場があり、馬鹿馬鹿しいと言えばそうだが、結構、見ていてそれなりに面白い。
最後は、勧善懲悪をなし、権五郎が、大刀を肩に、威勢の良い掛け声で花道を入って行くのだが、やはり、これは江戸の歌舞伎の舞台で、現在では有り得ないような、様式美を凝縮したようなシーンである。
これに、「毛剃」で、團十郎に、藤十郎と秀太郎が加わって東西名優の共演が実現していて、一寸、違ったニュアンスが楽しめて面白い。
冒頭から、團十郎家の十八番の内の「暫」が舞台にかかり、八反の布で縫い上げたと言う角ばらせた巨大な濃柿色の素襖を身に纏って、五本車鬢に派手な筋隈の厳つい顔で、仁王襷を背中で蝶結びにした、正に、江戸歌舞伎でしか楽しめない凄い出立ちの鎌倉権五郎の海老蔵が登場。
「暫く」と声をかけて登場し、花道で大音声で、團十郎家の故事来歴・芸の道を、歌舞伎座改築のお祝いを述べるなどのサービスを加えた長台詞「ツラネ」を滔々と捲し立てて、その場にどっかり座って威嚇する海老蔵は、やはり、今を時めく市川家の若旦那の風格十分で、江戸の絵師たちも感激するような雄姿である。
当然、親父さんの團十郎の「暫」が決定版ではあろうが、特に、心理的かつリアルな芸が求められるような役柄ではなく、見せて魅せる舞台であるから、やはり、爆発するような気迫とエネルギーの充満したスピードと迫力が命で、今の海老蔵にはぴったりであると思って見ていた。
この荒事の典型とも言うべき凄い舞台を見せた海老蔵が、夜の部の、「神田ばやし」では気の弱い朴訥でしまらない男を演じ、「おしどり」では、旧三之助の一人として水も滴るような美形の若侍として舞っているのであるから、恐れ入る。
この「暫」だが、正義の味方・鎌倉権五郎が、「暫く」と言って登場する以外は、話の筋や舞台展開も、先年團十郎が復活上演した「象引」と殆ど同じなのだが、要するに、当時の江戸の庶民は、勧善懲悪、弱きを助けて悪人を懲らしめる、正に、胸の空くような素晴らしいスーパーマンを演じてくれる團十郎を、神様のように見ていたのかも知れない。
江戸の庶民は、黒白、善悪、どちらが良いか悪いかの判断は、気風良く一挙に決めてしまうのであろうが、余談ながら、社会が文明化したのか複雑になったのか、今回の民主党代表の選挙は、どうも、邪念が入り込みすぎて、すっぱりと明朗ではなかったのが悔やまれるような気がしている。
この「暫」での鎌倉権五郎の隈取が凄い。
欧米の舞台では、仮面を使うようで、このような隈取を見たことがないので、日本や中国などアジア独特なのであろう。
團十郎の「歌舞伎案内」で、團十郎は、市川家で、この独特の化粧法を見出したとして、「人間の筋肉に沿って、その隆起をより強調してみせる」効力があると述べている。二代目團十郎が、庭の牡丹の花からぼかしのヒントを得たと言う伝説がある。
目の周りに紅を塗るのだが、本洋紅と言う顔料は、メキシコにいる小さな虫のおなかにある、ほんの少ししかない赤い物質をかき集めるので、随分高いのだと言う。
そんな訳で、紙に隈取を取る訳ではなさそうだが、名優の押し隈が残っているのが面白い。
服部幸雄氏の説明によると、東洋画の技法に、遠近や高低を表し立体感を出すために、墨や色の濃淡で境界をぼかす「くまどり」と言うのがあって、この手法を使って、肉体に生じた陰を誇張し、さらに、様式美を加味しつつ舞台の化粧法に応用したのが歌舞伎の隈取だと言う。
日本の仏像や、ミケランジェロの彫刻には、筋肉や血管の隆起がビビッドに彫られているが、平面の顔には、隈取と言う補強が必要だったと言うことであろうか。
この「暫」の舞台には、権力悪の典型と言われる公家悪の隈取の清原武衡(左團次)の白塗りに青々としたドギツイ隈取もあり、対照的で面白い。
しかし、興味深いのは、中国の京劇役者の隈取に似た「瞼譜」は、全く、歌舞伎の隈取とは違って、顔にべったり色を塗って絵を描くと言うか、仮面の代わりをしている。
お互いに影響があるのだろうが、文化の違いが出ていて興味深い。
この「暫」は、花道に座り込んで動こうとはしない鎌倉権五郎を追っ払おうと、男鯰、女鯰、四天王、奴などが、入れ替わり立ち代り試みるのだが埒が明かず尻尾を巻いて退散すると言うコミカルな演技が続き、権五郎が、権力悪の権化である清原武衡を裁くために舞台中央に躍り出て、強大な素襖を開いて元禄見得を切り、その後、向かってくる沢山の仕丁の首を、2メートル以上もある湾曲した大刀で一気に切り落とすと言った場面など面白い見せ場があり、馬鹿馬鹿しいと言えばそうだが、結構、見ていてそれなりに面白い。
最後は、勧善懲悪をなし、権五郎が、大刀を肩に、威勢の良い掛け声で花道を入って行くのだが、やはり、これは江戸の歌舞伎の舞台で、現在では有り得ないような、様式美を凝縮したようなシーンである。