熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

日本の大学教育の抜本的改革が必須・・・小林陽太郎氏

2009年07月10日 | 政治・経済・社会
   平城遷都1300年記念として、「2010年からの経済社会」と言う「日本と東アジアの未来を考える」をテーマにしたフォーラムが開かれて、小林陽太郎氏が、演題「東アジアの未来と日本の役割」で、非常に興味深い話をした。
   先々月、ウォートン・スクールの年次総会の立ち話で、私に「これからの日本は、抜本的な大学教育改革だ」と熱っぽく語っていたのだが、殆ど同じ趣旨のことを形を変えて説いていたので、私なりに咀嚼して考えて見たいと思う。
   余談だが、その時、大学教育のためには、何十年かかるか分からないが、遣り遂げなければ日本は駄目になると語ったので、それまで地球が持ちますかねえと畳み掛けたら、私は大丈夫だと思いますと答えてくれたので、地球温暖化については、比較的楽観視しているのを感じた。

   テーマが、東アジアの未来なので、当然、今後、世界中から益々の発展を期待されている中国などを包含したこの地域で、日本が、どのような役割を果たすのかが問題である。
   小林氏は、サーバント・リーダーシップと言う言葉を引いて、これだけの卓越した技術と経済力を備えた日本であるから、その役割は、如何に、奉仕しながらリーダーシップを発揮して地域経済社会の発展に貢献出来るかに掛かっていると言う。
   そのためには、日本人自身が、謙虚さを備え持ちながら確固たる自信を持ってリーダーシップを発揮することが必須であり、これこそは正に人間の問題であり、日本の教育の問題だと言うのである。
   
   三極委員会などで長年欧米のトップと付き合ってきた小林氏が、先日私との会話で、アメリカ人は、中国がどんな国なのか、中国人がどんな国民なのか分からないので不安に感じていると語っていたが、逆に言うと、日本に対する欧米人の理解は、殆どクリアーで、未知の世界は殆どなくなっており、日本との付合いについては何の不安も感じていない言うことであろう。
   そうであればあるほど、欧米との架け橋としても、アジアでの日本のリーダーシップへの期待と役割が大きくなるのは必然である。

   何故大学教育なのかと言うことだが、初等中等教育も重要だが、その方面では遅れを取るアメリカが、何故、世界のリーダーを輩出し続けているのかは、その大学以降の高等教育の卓越さにあるのだと指摘し、特に、目も当てられないほど劣化している日本の大学教育を根本的に改革して、世界に通用するリーダーを育成出来るシステムに構築し直すことが緊急事である。
   真の価値、理念、真善美等人間として生きてゆくために大切なものを教える本当の人間教育を志向しない限り、将来の日本を託せる人材は育たないと言う危機意識を強調する。

   これは、小林氏の持論だが、これまで何度も、日本のリーダーないしエリート教育の欠陥は、リベラル・アーツ教育の軽視にあると語っている。世界のリーダーと対等に対峙する為には、あまりにも、リベラル・アーツの教養・知識が欠如していると言うのである。
   そのため、アメリカのアスペン・クラブに倣って、自ら日本アスペン・クラブを創設して、毎年、経営者やその道のリーダーを糾合して、先哲を招き古典を読みながら研鑽を積んでいる。

   今は知らないが、何十年か前、京大の2年間の教養部の時、人文科学、自然科学、社会科学を、各3科目ずつ履修すると言う、言わば、簡便なリーベラル・アーツの真似事を学んだ記憶がある。
   幸いにも、学部の看板教授などが講義をするなど恵まれた環境にあったし、それに、人文科学研究所など大学の付属機関が、講演会や学術発表の機会を持ち、この時に、湯川秀樹教授や桑原武夫教授など知を代表するトップクラスの学者たちの講義などを聞く機会も多くあったし、それなりに勉強出来た。
   それに、当時東大や京大の受験科目数が多くて、受験勉強のために、英数国は勿論のこと、理科2科目、社会2科目と多岐に亘ったことが幸いして、幅広く勉強したことが役に立っている。
   古典には、結構、親しむ機会が多かったのだが、もう少し、哲学の勉強をしておくべきだったと、これは後悔している。

   日本の場合には、大学が最終学歴と言う認識が強かった所為か、大学では、教養教育が付け足しのような感じで軽視され、学部での専門教育が重視された。
   ところが、欧米、特に、アメリカでは、大学は、リベラル・アーツ教育が主体で、専門的な教育は、その上の大学院修士コース以上のプロフェッショナル・スクールで教えると言う二階建て構造で、大学では、幅広いリベラル・アーツ教育が、かなり、重要な位置を占めており、更に、その後の実社会においても、日本よりはるかに多く、一般教養教育の機会が用意されている。

   人間の価値の創造力は、集積された知識の新たな組み合わせによって発揮されると言われており、言わば、異文化・異文明の遭遇たるメディチ・インパクトを自家で生み出す源となるのが、リベラル・アーツで習得した知であるから、その意味でも、価値ある社会の創造のためにも、リベラル・アーツ教育の重要さは強調しすぎることはない。
   イギリスのトップ・リーダーたちには、オックスブリッジの出身者が多いが、哲学やギリシャ文学、歴史学、宗教学などと言った実利とは程遠い学問を専攻した人が沢山いてびっくりすることがあるのだが、これが、成熟した文明社会のリーダー教育かもしれないと思うことがあった。

   欧米のトップクラスの高等教育機関(殆どが高度な学術研究機関などを併設した大学院大学だが)の水準は、桁違いに高く、エリート教育を拒否して、大衆化して平準化してしまった日本の大学とは違うのだが、このあたりにも、リーダー教育に差が出てくるのかも知れない。
   いずれにしろ、例えば、世界のトップクラスのビジネス・スクールで、MBAを取得するためには、少なくとも、2~3000万円を必要とすると言われており、このような高額な教育費をどうするのかと言った卑近な問題も多く、大学教育システムの抜本的改革と言っても、気の遠くなるような多くの問題を解決せねばならないと思われる。
   
   
コメント
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