先週のニューズウイーク日本版の特集記事は、「日本の経済は生き残れるか」。
”景気底打ちの兆しと根強い悲観論 矛盾に満ちた漂流経済の不確かな行方”と言う観察コメントだが、輸出立国であった日本は、かって有望な輸出市場であった国々も、終身雇用を担ってきた輸出企業も、もはや頼りにならない 新たな成長パラダイムが必要だと言ったありきたりの日本経済論を展開している。
興味深いのは、この本文記事よりも、初めて日本を訪れたと言うニューズウイークの経済担当記者ダニエル・グロス自身の「取材ノート ディスカバー不思議ニッポン」の方で、一流誌の経済担当記者が、日本に来たことがなく世界経済を論じてきたこと自体が驚きだが、それだけに、カルチュア・ショック気味のレポートが、実に本質を突いていて面白い。
クールビズ運動で、「エアコン機能不全」に陥って灼熱地獄化(?)してしまった東京に驚いて、謎のキャンペーンと揶揄しながら、Tokyo is Burningとタイトル付けて、これが、経済不振と少子化の原因ではないかと宣っている。
こんなに暑くては、良い考えも浮かばないであろうし、勤勉さと生殖能力を同時に失い、日本経済の回復も望み薄で深刻な人口問題に苦悩するのも当然だと言うのである。
笑ってはおれないが、低炭素社会実現を目指す日本の対応に対する痛烈な皮肉と考えると面白い。
アメリカの冷房の効きすぎ方は異常だと思えるほどだが、確かに、最近は、東京の冷房も温度の調節が過度にゆるくなった感じで、涼を求めて地下街に入れど一向に涼しくなくなっているのに驚く。
次に興味深いのは、Japan:Automation Nation? として、効率性と非効率性が同居する日本の アンビバレントなオートマ国家に疑問を呈していることである。
映画「ターミネーター」のように、沢山のロボットが腕を伸ばして溶接しているトヨタの最新鋭無人工場や大阪のIT技術を駆使する中小企業を紹介しながら、その一方では、少人数の昼食会に多くのウエイターが給仕したり、ボタンを押す為だけに居る百貨店のエレベーター・ガールや駐車場での制服を着た多くの係員の存在の無意味さ馬鹿らしさ加減に触れ、その落差の激しさに呆れ返っている。
この日本の非効率性こそが、完全雇用を望む社会と密接に関係していて、日本の失業率の低さは当然で、その原因はここにあると言わんばかりに、全く働かないよりはマシと言うのが日本の考え方だと説いている。
グロスは、このような人的効率の悪さは、日本人が礼儀正しさやマナーを重んじることと関係あるのだろうと言っているが、これなどは、合理性や効率一辺倒で割り切れない、凭れ合い社会的な要素の強い日本の特質だと思うのだが、このような摩擦的存在とも言うべき重複や無駄が日本の経済社会には、五萬と存在しており、逆に、それが日本の経済社会の支えともなっている。
例えば、ドライになり過ぎたと言っても、企業連合や一企業内においても家父長的な要素が色濃く残っているし、外資や外国企業にアウトソーシングする方がコスト削減にもなり合理的だと分かっていても、内部で仕事を回しあって共存共生する道を選んでいる。
これは、競争に関する考え方に典型的に現れており、競争は、善であり市場主義経済の根幹をなすとするのがアングロサクソン的発想だが、競争は、共倒れに通じると考えて話し合い・談合で治めようとするのが日本。
IT化と機械化だが、日本人は、人とのインターフェイスが重要で、関係ないところでは徹底的に合理化するが、人との関わりのあるところでは中々オートメ化は出来ない。
グロスは、アメリカでは、企業や政府機関で資料や主要データなどはMSやCD-ROMで渡されるが、日本では大量の書類と印刷物であり、パスポートを紛失して交番に行ったら一枚の書類を作成するのに30分かかったとしてパソコンさえないのかと、IT化の遅れを揶揄っている。
これは確かに、日本では何でも紙で、これだけ、ICT化が進んでいるのに、どうして合理化できないのか、あらゆる場面で、私自身そう感じている。
ところで、どうしたことか、日本は、外食産業に対しては、驚くほど開放的で、アメリカの街角と殆ど雰囲気が変わらないとびっくりしている。
私の経験では、日本人ほど外国食に弱い国民はないと思っていたのだが、思いのほか、東京の街は外食、特に、アメリカ系のファーストフードに占拠されてしまっていると言うことなのである。
日本の経済については、日銀の西村清彦副総裁と同志社大浜矩子教授とのインタビューを引用しているが、今回のアメリカの大不況が日本の不況に似ていると言うのではなく西村副総裁の説を取って韻を踏むと表現しているのが面白い。
時代の潮流を反映して、そのサイクルはドッグイヤーでスピードが違うのだと言っているのだが、日本がそうであったように、たとえ回復しても、アメリカの経済も徹底的に疲弊して見る影もなくなってしまう筈だということを理解していないのが、やはり、アメリカ人である。
”景気底打ちの兆しと根強い悲観論 矛盾に満ちた漂流経済の不確かな行方”と言う観察コメントだが、輸出立国であった日本は、かって有望な輸出市場であった国々も、終身雇用を担ってきた輸出企業も、もはや頼りにならない 新たな成長パラダイムが必要だと言ったありきたりの日本経済論を展開している。
興味深いのは、この本文記事よりも、初めて日本を訪れたと言うニューズウイークの経済担当記者ダニエル・グロス自身の「取材ノート ディスカバー不思議ニッポン」の方で、一流誌の経済担当記者が、日本に来たことがなく世界経済を論じてきたこと自体が驚きだが、それだけに、カルチュア・ショック気味のレポートが、実に本質を突いていて面白い。
クールビズ運動で、「エアコン機能不全」に陥って灼熱地獄化(?)してしまった東京に驚いて、謎のキャンペーンと揶揄しながら、Tokyo is Burningとタイトル付けて、これが、経済不振と少子化の原因ではないかと宣っている。
こんなに暑くては、良い考えも浮かばないであろうし、勤勉さと生殖能力を同時に失い、日本経済の回復も望み薄で深刻な人口問題に苦悩するのも当然だと言うのである。
笑ってはおれないが、低炭素社会実現を目指す日本の対応に対する痛烈な皮肉と考えると面白い。
アメリカの冷房の効きすぎ方は異常だと思えるほどだが、確かに、最近は、東京の冷房も温度の調節が過度にゆるくなった感じで、涼を求めて地下街に入れど一向に涼しくなくなっているのに驚く。
次に興味深いのは、Japan:Automation Nation? として、効率性と非効率性が同居する日本の アンビバレントなオートマ国家に疑問を呈していることである。
映画「ターミネーター」のように、沢山のロボットが腕を伸ばして溶接しているトヨタの最新鋭無人工場や大阪のIT技術を駆使する中小企業を紹介しながら、その一方では、少人数の昼食会に多くのウエイターが給仕したり、ボタンを押す為だけに居る百貨店のエレベーター・ガールや駐車場での制服を着た多くの係員の存在の無意味さ馬鹿らしさ加減に触れ、その落差の激しさに呆れ返っている。
この日本の非効率性こそが、完全雇用を望む社会と密接に関係していて、日本の失業率の低さは当然で、その原因はここにあると言わんばかりに、全く働かないよりはマシと言うのが日本の考え方だと説いている。
グロスは、このような人的効率の悪さは、日本人が礼儀正しさやマナーを重んじることと関係あるのだろうと言っているが、これなどは、合理性や効率一辺倒で割り切れない、凭れ合い社会的な要素の強い日本の特質だと思うのだが、このような摩擦的存在とも言うべき重複や無駄が日本の経済社会には、五萬と存在しており、逆に、それが日本の経済社会の支えともなっている。
例えば、ドライになり過ぎたと言っても、企業連合や一企業内においても家父長的な要素が色濃く残っているし、外資や外国企業にアウトソーシングする方がコスト削減にもなり合理的だと分かっていても、内部で仕事を回しあって共存共生する道を選んでいる。
これは、競争に関する考え方に典型的に現れており、競争は、善であり市場主義経済の根幹をなすとするのがアングロサクソン的発想だが、競争は、共倒れに通じると考えて話し合い・談合で治めようとするのが日本。
IT化と機械化だが、日本人は、人とのインターフェイスが重要で、関係ないところでは徹底的に合理化するが、人との関わりのあるところでは中々オートメ化は出来ない。
グロスは、アメリカでは、企業や政府機関で資料や主要データなどはMSやCD-ROMで渡されるが、日本では大量の書類と印刷物であり、パスポートを紛失して交番に行ったら一枚の書類を作成するのに30分かかったとしてパソコンさえないのかと、IT化の遅れを揶揄っている。
これは確かに、日本では何でも紙で、これだけ、ICT化が進んでいるのに、どうして合理化できないのか、あらゆる場面で、私自身そう感じている。
ところで、どうしたことか、日本は、外食産業に対しては、驚くほど開放的で、アメリカの街角と殆ど雰囲気が変わらないとびっくりしている。
私の経験では、日本人ほど外国食に弱い国民はないと思っていたのだが、思いのほか、東京の街は外食、特に、アメリカ系のファーストフードに占拠されてしまっていると言うことなのである。
日本の経済については、日銀の西村清彦副総裁と同志社大浜矩子教授とのインタビューを引用しているが、今回のアメリカの大不況が日本の不況に似ていると言うのではなく西村副総裁の説を取って韻を踏むと表現しているのが面白い。
時代の潮流を反映して、そのサイクルはドッグイヤーでスピードが違うのだと言っているのだが、日本がそうであったように、たとえ回復しても、アメリカの経済も徹底的に疲弊して見る影もなくなってしまう筈だということを理解していないのが、やはり、アメリカ人である。