熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

本の古典ルネサンス時代の到来・・・東大姜尚中教授

2009年07月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   東京国際ブックフェアでの、姜尚中教授の基調講演『「悩む力」で”現在の古典”を発掘する』を聴講したのだが、本に対する見方が私自身と大分違っていたので面白く聞いていた。
   あまり、ベストセラー本には興味がないので知らなかったが、姜教授の「悩む力」は80万部売れているようで、実質コア読者は10万人くらいの筈で、5年前なら、2~3万程度しか売れなかったであろうと、時代が人を作るように、時代が本を作り、本が時代を作るのだと言う。
   他の出版社から、○○の力だとか、××の力だとか、「力」を冠した本を書いてくれと注文が殺到しているが、二番煎じの「力」本を書くつもりはないし、日本の出版社の編集長たちは、こんなに切羽詰るほど、売れる本を出せなくて困っているのだろうと語る。

   80年代初めに、最初の本を出版した時には、初版が500部で3版で絶版、持ち出しだったと語りながら、今現在、姜教授の本が、こんなに売れるのは、TVに出演しているからだと説明しながら、今の出版不況は、湾岸戦争を境にして、メディアの世界が、急速に、文字から映像に移ってしまったことに起因すると説く。
   したがって、これから、文字と映像の両メディアに両股をかけながら、シナジー効果を狙って書くのが、物書きの成功の秘訣だと言う。

   現下の出版不況を、TBS現象だと言う。
   いくら、苦心惨憺して新しい企画を追及して番組を作っても、努力すればするほど視聴率が落ちて行く、丁度、出版界も、これと同じだと言うのである。
   メディアの世界に、湾岸戦争の与えた影響は、冷戦の崩壊よりも大きいと言うのだが、どうであろうか。

   もう一つの姜教授の主要な論点は、近代が終わってしまって、出るものは総て出尽くしてしまった、もう、新しいものは生まれてこない、と言う認識である。
   近代とは、アメリカではエルビス・プレスリーの50年代であり、日本は石原裕次郎の60年代だと言うのだが、姜教授が何を持って近代と言うのか、あるいは、近代とはどう言う意味合いのものなのかが良く分からないので、私には、このあたりの論点は意味不明である。
   いずれにしろ、何も価値ある新しいものが生まれなくなったのであるから、価値ある古典、クラシック・ブックの再生・復興が、姜教授の、今回の講演の主要テーマとなるのである。

   出版界、ひいては、書物・本の復活・復興に対する将来と言うか今後の傾向と見通しとして、姜教授は、4点指摘した。
   ① 古典の復興、クラシック・ルネサンス
   ② ハウツーもの
   ③ アカデミックな水準の高い学術本
   ④ 読み捨てられる本
   
   近代が終わって総てが出尽くしてしまった時代の後には、凡庸の時代が到来し、人々は瞬間的刹那的な対応に明け暮れ、目前の利益ばかりを追求し、コンテンツ不在に陥って、この負の連鎖反応が社会を閉塞状態に追い込む。
   この病んだ時代において、人に希望と勇気を与え、夢と指針を指し示すのが古典であり、その傾向か流れか、今日、書店の店頭に、忘れ去られていた筈の古典が並べられるようになっていると言う。
   私には、他のジャンルの本は分からないが、確かに、マルクスの「資本論」やケインズの「一般理論」が、堂々と経済学書コーナーで主要位置を占めており、新古典とも言うべきピーター・ドラッカーの本など、最も重要な経営学書コーナーを支配していると言っても間違いない。

   マックス・ウエーバーの書物を、漱石との関連で捉え直した新しい試みが受けたと言うことで、古典を、現代的な視点・感覚から、現在人に分かり易く翻訳し直して出版すれば、おお化けする可能性がある。
   不安に悩む現在の人間には、先を照らし生きる知恵を蘇らせる古典の啓示が必須であり、それも、ハードカバーではなく、文庫型の廉価版での出版が望ましいと言うのである。

   私たちの年代の人間には、昔、貧しいながらも、世界や日本の古典文学全集などが結構重要視されていたし、それに、今ほど本が豊かではなく、他の勉強の手段や娯楽がなかったので、古典が、かなり、生活の中で生きていたような気がしている。

   古典と言っても、ジャンルによって、その価値に大きく差が出る。
   哲学や文学、宗教や思想などと言った普遍的な要素の強い分野なら、古典の価値は古くなればなるほど価値が高まるかもしれないが、科学や工学と言った知の集積・蓄積によって進化する学問、あるいは、私の比較的理解の行く経済学や経営学にしても、賞味期限があったり、その期限が短いような分野だと、古典の価値は、著しく毀損されてしまう。
   私自身の経験でも、あまりにも時代の潮流の激変が激しく、一部の本を除いて、時代に耐える本は極めて少なく、どんどん、読み飛ばして読み進む以外にない場合が多い。

   もう一つは、クラシックを現在的な感覚・感性で読み解くことが、本当に正しい受け止め方であろうかと言う疑問である。
   尤も、後の時代において、その時代感覚で古典を読むと言うことには全く疑問の余地はないのだが、読み解き方、ないし、解釈の仕方によっては、害の方が大きくなるのではないかと言う懸念である。
   現に、ドラッカーの経営学などにおける誤解や誤解釈などについては、あまりにも多く経験しているし、時には、一部の引用文章などが一人歩きして、似ても似つかないような展開をしているケースが結構多い。
   要するに、私の言いたいのは、ルターではないけれど、古典は古典として、直接自分自身で真摯に対峙すべきものであること。そして、むやみに古典を現代風に翻訳すれば良いのではなく、それを翻訳しなおす著者には、それ相応の技量と知識教養、そして、品格と覚悟が要求されると言うことなのである。

   姜教授が指摘した他の論点、
   不安一杯で無力感になった現代人が、もっぱら関心が自分自身に行き、セルフケア、自活を目指して、最速で手っ取り早く生きる技を習得するために、ハウツーものに興味が行く。勝間和代現象の出現。
   東大に希望学の出現。知の集積と融合によって生まれ出でるアカデミックな学術書を社会に分かり易く伝播、文化センター的アプローチの普及。
   冠婚葬祭、社会のしきたり、エチケットと言った生活の知恵を与えるような読み捨て本の必要性。
   等々、1時間半で駆け抜けた、質疑応答も含めての短い講演だったが、結構、面白かった。
   

コメント (1)
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