梅雨が明けたと言うのだが、ハッキリしない日が続く。
しかし、本格的な夏が来た証拠に、1週間ほどまえから、庭の地中に眠っていたあぶらぜみが急に足元から飛び出しはじめた。
夏の到来が、一番良く分かるのは、入梅前くらいに、庭にアマガエルの数が増えて、庭一面にとんぼが飛び交い始めることである。
そのとんぼが、今では、少し赤みがかってきたのが居たりするので、季節感が良く分かるのだが、これも2ヶ月ほどして、少し、日が傾き始めると真っ赤に染まる。
この口絵写真のとんぼは、珍しく、ブルーベリーに止まったので撮ったのだが、とんぼは、好んで棒の先や植物の先など尖った天辺に止まる。
私の庭のブルーベリーは、少し、遅いのか、これからが収穫期である。
不思議なことに、このブルーベリーの実は、他の植物の実などと違って、殆ど小鳥たちが食べないので、私の食用になっている。
目に良いということなので、朝のパンのジャムは総てブルーベリーだし、少し薄いジャムを砂糖の変わりにコーヒーに混ぜて飲んでいるくらいだから、結構、有難く、この自然の恵みを頂いている。
庭には、色々な蝶が頻繁に訪れてくる。
紫式部の小さな花に、大きなクマンバチが飛んできて飛び回っているのが不思議で仕方がない。
百日紅にはまだ間があり、花木の花が殆ど咲いていないので、小鳥の訪れは少なくなった。
カミキリムシが、目に付き始めた。以前には、モミジを食い荒らし枯死させ、今は、庭のイチジクの木に巣食い、無残なほど食い荒らして、殆ど駄目にしてしまっているのは分かっているのだが、駄目になった枝を次々に切り取っているだけで、そのままにしてほっている。
イチジクは、袋を被せて防御したこともあったが、食べごろになる前に、必ず、賢い小鳥たちに先取りされるので、諦めており、数に入っていない。
成長が早く、縦横無尽に枝を広げるので、本来、庭木としては植えるべきではないので、秋には切ろうと思っている。
伸びるに任せてほってあった春の草花が、殆ど枯れてきたので、庭の雑草とりと花木の剪定を兼ねて、久しぶりに、庭の手入れをすることにした。
体よく言えば、球根や多年草なら翌年そのまま咲くであろうし、種なら適当に落ちて芽が出て咲くであろうし、と思って、自然に任せているのである。
あの可憐で朝だけの儚い命の鮮やかなブルーが好きで、伸び放題に広がらせている露草のお陰で、庭はジャングル状態だが、引き抜けば茎が繋がっているので、一網打尽に駆除できるので気持ちが良い。
葉が広がっていて、かなり、庭の雰囲気を悪くしているのが、牡丹と芍薬の木だが、しかし、多少、葉が変色するくらいまでは、葉や枝の処理は待たなければならない。
名前を知らないのだが、どんどん伸びて花木の上に這い上がって、その植木を覆い尽くすぶどうに似た葉のつる草が、一番邪魔なのだが、いくら抜いても、地面にゴムのように柔軟な強い根を張り巡らしているので、永遠に、庭から駆除できない。
本当は、徹底的に雑草を抜くべきなのだろうが、根気のない所為もあり、また、すぐに生えてくるのだからと、適当に地面が見えた段階で、止めるのが私の悪い癖。
長年の経験と勘で、雑草と草花や花木の芽の違いくらいは分かっているので、このように適当な草むしりをしていても、それなりに、庭らしく落ち着くのが不思議である。
花が終わった椿などの花木が、晩春から一挙に成長を始め、一回り大きくなっているので、思い切ってバサリバサリと剪定するのだが、どの程度に止めるのか、多少の思案のしどころである。
昔は、テキストを参考にして、まじめにその指示に従って剪定を行っていたが、切るべきか切らざるべきかさえ分かっておれば大差ないことが分かっているので、神経質になることもない。
自然の驚異は凄まじく、自然に任せば、庭は勿論、田や畑も、そして、壮大な大都市も、瞬時にジャングルと化して埋没する。
インカやマヤ、アズテック、それに、カンボジアの遺跡などを見れば一目瞭然である。
バラも椿も、思い切ってバサバサ切った方が、美しい花を咲かせる。
しかし、如何に、人知をもって自然を制御コントロールするのか、非常に難しい問題である。
剪定の応用であろうか、強者の理論で、過保護は駄目だ、自分のことは自分で責任を持つ自助努力だと、経済社会を徹底的に切り詰めて、ミルトン・フリードマンばりの詭弁を弄して(?)、目も当てられないような状態の格差社会を作り上げてしまった。
そんなことを考えながら、小一時間ほど、雑草と格闘するだけで汗が吹き出る。
しばらく続けて、すこし、感謝の気持ちを込めて、庭の花木たちに報いようと殊勝な気持ちを持てるのも幸せかも知れないと思っている。
しかし、本格的な夏が来た証拠に、1週間ほどまえから、庭の地中に眠っていたあぶらぜみが急に足元から飛び出しはじめた。
夏の到来が、一番良く分かるのは、入梅前くらいに、庭にアマガエルの数が増えて、庭一面にとんぼが飛び交い始めることである。
そのとんぼが、今では、少し赤みがかってきたのが居たりするので、季節感が良く分かるのだが、これも2ヶ月ほどして、少し、日が傾き始めると真っ赤に染まる。
この口絵写真のとんぼは、珍しく、ブルーベリーに止まったので撮ったのだが、とんぼは、好んで棒の先や植物の先など尖った天辺に止まる。
私の庭のブルーベリーは、少し、遅いのか、これからが収穫期である。
不思議なことに、このブルーベリーの実は、他の植物の実などと違って、殆ど小鳥たちが食べないので、私の食用になっている。
目に良いということなので、朝のパンのジャムは総てブルーベリーだし、少し薄いジャムを砂糖の変わりにコーヒーに混ぜて飲んでいるくらいだから、結構、有難く、この自然の恵みを頂いている。
庭には、色々な蝶が頻繁に訪れてくる。
紫式部の小さな花に、大きなクマンバチが飛んできて飛び回っているのが不思議で仕方がない。
百日紅にはまだ間があり、花木の花が殆ど咲いていないので、小鳥の訪れは少なくなった。
カミキリムシが、目に付き始めた。以前には、モミジを食い荒らし枯死させ、今は、庭のイチジクの木に巣食い、無残なほど食い荒らして、殆ど駄目にしてしまっているのは分かっているのだが、駄目になった枝を次々に切り取っているだけで、そのままにしてほっている。
イチジクは、袋を被せて防御したこともあったが、食べごろになる前に、必ず、賢い小鳥たちに先取りされるので、諦めており、数に入っていない。
成長が早く、縦横無尽に枝を広げるので、本来、庭木としては植えるべきではないので、秋には切ろうと思っている。
伸びるに任せてほってあった春の草花が、殆ど枯れてきたので、庭の雑草とりと花木の剪定を兼ねて、久しぶりに、庭の手入れをすることにした。
体よく言えば、球根や多年草なら翌年そのまま咲くであろうし、種なら適当に落ちて芽が出て咲くであろうし、と思って、自然に任せているのである。
あの可憐で朝だけの儚い命の鮮やかなブルーが好きで、伸び放題に広がらせている露草のお陰で、庭はジャングル状態だが、引き抜けば茎が繋がっているので、一網打尽に駆除できるので気持ちが良い。
葉が広がっていて、かなり、庭の雰囲気を悪くしているのが、牡丹と芍薬の木だが、しかし、多少、葉が変色するくらいまでは、葉や枝の処理は待たなければならない。
名前を知らないのだが、どんどん伸びて花木の上に這い上がって、その植木を覆い尽くすぶどうに似た葉のつる草が、一番邪魔なのだが、いくら抜いても、地面にゴムのように柔軟な強い根を張り巡らしているので、永遠に、庭から駆除できない。
本当は、徹底的に雑草を抜くべきなのだろうが、根気のない所為もあり、また、すぐに生えてくるのだからと、適当に地面が見えた段階で、止めるのが私の悪い癖。
長年の経験と勘で、雑草と草花や花木の芽の違いくらいは分かっているので、このように適当な草むしりをしていても、それなりに、庭らしく落ち着くのが不思議である。
花が終わった椿などの花木が、晩春から一挙に成長を始め、一回り大きくなっているので、思い切ってバサリバサリと剪定するのだが、どの程度に止めるのか、多少の思案のしどころである。
昔は、テキストを参考にして、まじめにその指示に従って剪定を行っていたが、切るべきか切らざるべきかさえ分かっておれば大差ないことが分かっているので、神経質になることもない。
自然の驚異は凄まじく、自然に任せば、庭は勿論、田や畑も、そして、壮大な大都市も、瞬時にジャングルと化して埋没する。
インカやマヤ、アズテック、それに、カンボジアの遺跡などを見れば一目瞭然である。
バラも椿も、思い切ってバサバサ切った方が、美しい花を咲かせる。
しかし、如何に、人知をもって自然を制御コントロールするのか、非常に難しい問題である。
剪定の応用であろうか、強者の理論で、過保護は駄目だ、自分のことは自分で責任を持つ自助努力だと、経済社会を徹底的に切り詰めて、ミルトン・フリードマンばりの詭弁を弄して(?)、目も当てられないような状態の格差社会を作り上げてしまった。
そんなことを考えながら、小一時間ほど、雑草と格闘するだけで汗が吹き出る。
しばらく続けて、すこし、感謝の気持ちを込めて、庭の花木たちに報いようと殊勝な気持ちを持てるのも幸せかも知れないと思っている。