丁度、総選挙前のタイミング良い時期に、大前研一氏が、「平成維新」から20年を置いて、「ザ・ブレイン・ジャパン建白」と銘打った「最強国 ニッポンの設計図」を出版した。
民主党、自民党ともマニフェスト論争に明け暮れているが、哲学と思想性に欠ける意味不明の小冊子と違って、大前氏は、正に、渾身の力を振り絞って、持論を展開し、明日の日本が、如何にあるべきかを、国民に問うている。
私自身は、大前氏の提言に対しては、殆ど賛成で異論はないのだが、ここでは、それでも、どうしても、すんなりと同調できない点が、いくらかあるので、その点に限って私見を述べてみたい。
大前氏の思想の根底には、マーケットメカニズムに対する強い確信があり、所謂小泉・竹中路線の市場原理主義よりもっと強烈である。
弱肉強食の市場に打ち勝ってこそ、成長があり、セイフティ・ネットとしての弱者救済も本人の益にはならず、徹底的に自力で立ち上がってこそ、発展と成長があるのだと言う考え方で、強烈なミルトン・フリードマン張りの迫力である。
正に成長期の戦後の日本や、現在の中国やインドの経済社会を髣髴とさせて、スカッとしているのだが、私自身は、確かにそうかも知れないが、そこまでして経済成長を図ることが、唯一の道なのかどうかと言う疑問を感じている。
大前氏から見れば、小泉竹中の構造改革など、弱肉強食の社会を作ったのではなく、中途半端に終わったのみならず、どうやって産業を伸ばすかではなく、どうやって産業や企業を規制するかと言う視点に立って嫌がらせの限りを尽くして、良循環を圧殺して、企業活動を鈍化させ、国民の消費マインドを収縮させたと言うことになる。
サッチャー以前の「格差是正」「正規雇用確保」を叫んだイギリスの「平等社会」思想が、如何に、かって大帝国であった国を駄目にしていたかを熱っぽく説きながら、サッチャーが復活を成し遂げた軌跡を、明日の日本再生のために検証すべきだと言う。
確かに、イギリス病と揶揄された頃のロンドン市内の惨状は目を覆うばかりで、収集されずに山積みされた都市ゴミが散乱し宙を舞っていたし、ヒースロー空港に入れば必ず荷物がこじ開けられて盗難に会った。そして、その後、私は、サッチャー時代を、オランダとイギリスに居たので、具にイギリス経済の再生とビッグバンを実感しているので、大前氏の論点は肝に銘じている。
麻生総理さえも、小泉政治の根本思想であった筈の「市場原理主義」との決別宣言を唱え、自民党も民主党も、益々、大前説の強者を一層強者となす「市場原理」に基づく経済成長戦略から遠ざかって行くことになるのだが、しからば、日本は、益々沈んで行くのであろうか。
元々日本人は、非情になれない国民性であり、生きとし生きるもの、森羅万象総てを神と崇めて共生を旨とする優しい国民であるから、窮地に落ち込めば落ち込むほど、他者を慮る。
私自身は、大前氏の成長戦略論を、市場原理に固守しなくても、日本人、乃至、日本人魂にマッチした形で、発露実現して行ける道があるような気がしており、この第三の道こそ、日本が目指すべき道だと思っている。
それ以前に、私自身は、もう、地球のエコシステムの限界まで食いつぶしてしまった宇宙船地球号を、これ以上追い詰めて、経済社会を成長発展させる必要があるのかどうか疑問に感じている。
人類が営々と築き上げ創造し、かつ、守り続けて来た多くの世界遺産を破壊し続ける人間社会よりも、これを大切に維持しながら、人間らしく生きるために、歴史の針を、多少、逆回りさせた方が幸せだと思っている。
もう一つ、大前説で、どうしても納得できないのは、「答えのない世界」を生き抜くための教育改革の断行をと言う教育手法である。
21世紀の教育の目的は、どんなに新興経済国や途上国が追い上げてきても日本がメシを食べていける人材、言い換えれば、答えがない世界で果敢にチャレンジして世界のどこに放り出しても生き残っていける人材を生み出すことで、義務教育は「社会人」を、大学は「メシを食える人」を作れと言う考え方である。
特に、大学の役目は、「メシを食べて行く手段を身につけさせる」ことで、職業訓練学校だと割り切るべきだとまで言う。
この教育論だが、このブログで何度か触れたように、大学教育については、小林陽太郎氏のリベラル・アーツ教育を重視した全人教育こそ、日本の目指すべき教育だと思っているので、職業訓練学校説などはもっての外だと思っている。
プロとしての専門教育は、その上の修士課程のプロフェッショナル・スクールで行えば良いのである。
スペアパーツばかり育成してきた日本の画一教育が、今日の日本を如何に窮地に追い詰めてしまったのかは、自明の筈で、エコノミック・アニマルと揶揄し続けられてきた日本人の未来を背負う人材に、更に、金儲けだけを教えてどうするのか。
「逃げ出す総理大臣」は、リーダーシップを否定した戦後「悪平等教育」の負の遺産だと大見得を切りながら、「メシを食べて行く手段」は、「英語」「ファイナンス」「IT」が必須項目で大学時代にピカピカに磨けと言う。これで、第二の盛田昭夫や松下幸之助や本田宗一郎が生まれ出るとと言うのであろうか。
あのルネサンス華やかなりし頃、人類最高の歴史を生み出したフィレンツェは、世界中から最高の人材を糾合して、異文化異文明が交差し衝突する十字路を提供することによって、メディチ・イフェクトを生み出し、知と美の創造と爆発を現出した。
これこそ、人類の英知がなせるわざであり、真の値打ちだと思っている。
大前氏の説には、殆ど納得だが、人類が幾世代にも亘って営々と築き上げてきた崇高なる英知や壮大な文化文明、そして、何ものにも変え難い掛け替えのない偉大な遺産など、人類の人類たる値打ちに対する慮りが、あまりにも希薄である。 その所為か、殺伐としていて、息苦しいと言うのが、私自身の正直な感想で、日本人がこれまでに創造してきた偉大な価値を軽視してまで、経済成長を目指しても、あまり意味があるとは思えないと感じている。
民主党、自民党ともマニフェスト論争に明け暮れているが、哲学と思想性に欠ける意味不明の小冊子と違って、大前氏は、正に、渾身の力を振り絞って、持論を展開し、明日の日本が、如何にあるべきかを、国民に問うている。
私自身は、大前氏の提言に対しては、殆ど賛成で異論はないのだが、ここでは、それでも、どうしても、すんなりと同調できない点が、いくらかあるので、その点に限って私見を述べてみたい。
大前氏の思想の根底には、マーケットメカニズムに対する強い確信があり、所謂小泉・竹中路線の市場原理主義よりもっと強烈である。
弱肉強食の市場に打ち勝ってこそ、成長があり、セイフティ・ネットとしての弱者救済も本人の益にはならず、徹底的に自力で立ち上がってこそ、発展と成長があるのだと言う考え方で、強烈なミルトン・フリードマン張りの迫力である。
正に成長期の戦後の日本や、現在の中国やインドの経済社会を髣髴とさせて、スカッとしているのだが、私自身は、確かにそうかも知れないが、そこまでして経済成長を図ることが、唯一の道なのかどうかと言う疑問を感じている。
大前氏から見れば、小泉竹中の構造改革など、弱肉強食の社会を作ったのではなく、中途半端に終わったのみならず、どうやって産業を伸ばすかではなく、どうやって産業や企業を規制するかと言う視点に立って嫌がらせの限りを尽くして、良循環を圧殺して、企業活動を鈍化させ、国民の消費マインドを収縮させたと言うことになる。
サッチャー以前の「格差是正」「正規雇用確保」を叫んだイギリスの「平等社会」思想が、如何に、かって大帝国であった国を駄目にしていたかを熱っぽく説きながら、サッチャーが復活を成し遂げた軌跡を、明日の日本再生のために検証すべきだと言う。
確かに、イギリス病と揶揄された頃のロンドン市内の惨状は目を覆うばかりで、収集されずに山積みされた都市ゴミが散乱し宙を舞っていたし、ヒースロー空港に入れば必ず荷物がこじ開けられて盗難に会った。そして、その後、私は、サッチャー時代を、オランダとイギリスに居たので、具にイギリス経済の再生とビッグバンを実感しているので、大前氏の論点は肝に銘じている。
麻生総理さえも、小泉政治の根本思想であった筈の「市場原理主義」との決別宣言を唱え、自民党も民主党も、益々、大前説の強者を一層強者となす「市場原理」に基づく経済成長戦略から遠ざかって行くことになるのだが、しからば、日本は、益々沈んで行くのであろうか。
元々日本人は、非情になれない国民性であり、生きとし生きるもの、森羅万象総てを神と崇めて共生を旨とする優しい国民であるから、窮地に落ち込めば落ち込むほど、他者を慮る。
私自身は、大前氏の成長戦略論を、市場原理に固守しなくても、日本人、乃至、日本人魂にマッチした形で、発露実現して行ける道があるような気がしており、この第三の道こそ、日本が目指すべき道だと思っている。
それ以前に、私自身は、もう、地球のエコシステムの限界まで食いつぶしてしまった宇宙船地球号を、これ以上追い詰めて、経済社会を成長発展させる必要があるのかどうか疑問に感じている。
人類が営々と築き上げ創造し、かつ、守り続けて来た多くの世界遺産を破壊し続ける人間社会よりも、これを大切に維持しながら、人間らしく生きるために、歴史の針を、多少、逆回りさせた方が幸せだと思っている。
もう一つ、大前説で、どうしても納得できないのは、「答えのない世界」を生き抜くための教育改革の断行をと言う教育手法である。
21世紀の教育の目的は、どんなに新興経済国や途上国が追い上げてきても日本がメシを食べていける人材、言い換えれば、答えがない世界で果敢にチャレンジして世界のどこに放り出しても生き残っていける人材を生み出すことで、義務教育は「社会人」を、大学は「メシを食える人」を作れと言う考え方である。
特に、大学の役目は、「メシを食べて行く手段を身につけさせる」ことで、職業訓練学校だと割り切るべきだとまで言う。
この教育論だが、このブログで何度か触れたように、大学教育については、小林陽太郎氏のリベラル・アーツ教育を重視した全人教育こそ、日本の目指すべき教育だと思っているので、職業訓練学校説などはもっての外だと思っている。
プロとしての専門教育は、その上の修士課程のプロフェッショナル・スクールで行えば良いのである。
スペアパーツばかり育成してきた日本の画一教育が、今日の日本を如何に窮地に追い詰めてしまったのかは、自明の筈で、エコノミック・アニマルと揶揄し続けられてきた日本人の未来を背負う人材に、更に、金儲けだけを教えてどうするのか。
「逃げ出す総理大臣」は、リーダーシップを否定した戦後「悪平等教育」の負の遺産だと大見得を切りながら、「メシを食べて行く手段」は、「英語」「ファイナンス」「IT」が必須項目で大学時代にピカピカに磨けと言う。これで、第二の盛田昭夫や松下幸之助や本田宗一郎が生まれ出るとと言うのであろうか。
あのルネサンス華やかなりし頃、人類最高の歴史を生み出したフィレンツェは、世界中から最高の人材を糾合して、異文化異文明が交差し衝突する十字路を提供することによって、メディチ・イフェクトを生み出し、知と美の創造と爆発を現出した。
これこそ、人類の英知がなせるわざであり、真の値打ちだと思っている。
大前氏の説には、殆ど納得だが、人類が幾世代にも亘って営々と築き上げてきた崇高なる英知や壮大な文化文明、そして、何ものにも変え難い掛け替えのない偉大な遺産など、人類の人類たる値打ちに対する慮りが、あまりにも希薄である。 その所為か、殺伐としていて、息苦しいと言うのが、私自身の正直な感想で、日本人がこれまでに創造してきた偉大な価値を軽視してまで、経済成長を目指しても、あまり意味があるとは思えないと感じている。