熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

自由の女神像・9・11後初の王冠展望台オープンで求婚

2009年07月05日 | 政治・経済・社会
   ニューヨーク・タイムズの電子版を開いたら、真っ先に飛び込んできたのが、この口絵写真。
   よく見たら、写真中央の男性が跪いて、嬉しそうに微笑む女性を見上げている。
   2001年9月11日のアルカイダのニューヨーク・テロ以来閉鎖されていた自由の女神像の天辺の「王冠展望所」が、8年ぶりに7月4日の独立記念日に、リオープンされたのだが、真っ先に上った30人の内の2人の男女のプロポーズの瞬間なのである。

   新聞によると、2人は、カリフォルニアのウォルナット クリークからで、3年間の付き合いだが、アーロン・ワイシンガー氏(26)が、恋の成就を願って「自由の女神像クラブ」に手紙を書いてお願いし、申し込み期限は過ぎていたが、同クラブのブライアン・スナイダー副会長の特別の計らいでチケットが手に入ったらしい。
   問題は、相手のブレダー嬢(25)に気付かれずに、ダイヤモンドの婚約指輪を、徹底的に厳しい検査網を突破して、どのようにして持ち込むかと言うことであったと言う。
   検査機を潜る前に、ポケットから出して友人のカメラバッグの中に滑り込ませて難なきを得たようだが、男と言うものはこう言うものなのである。

   ワイシンガーの祖父母は、ハンガリーとロシアからの移民のようだが、夫々、この自由の女神像を見ながらエリス島に着き、新世界への第1歩を記したのであろう。ブレダー嬢の父君ピーターは、チェコスロバキアからだと言う。
   ブレダー嬢は、「驚いたのなんのって! 私たちにとって完璧な場所でした。」と言ったと言うから、無事、婚約が成立したのであろう。

   ところで、このクラウン、すなわち、王冠の展望台だが、狭い上に暑くてじめじめしていて呼吸困難になるような状態の階段を354段も上らなければならないらしく、閉所恐怖症をピラミッドの地下墳墓で経験済みのエジプト学者のマサッチオ教授が、途轍もなく恐ろしいところだと言うのだから、難行苦行の恋路であったのであろう。
   因みに、台座の展望台の方は、既に、2004年にオープンしていたらしい。

   この自由の女神像は、アメリカ独立100周年記念に、フランスから贈られたもので、このミニチュア像が、セーヌ川畔に立っている。
   このセーヌの方は見ているが、何度もニューヨークに行きながら、自由の女神を見たことがない。

   アメリカは、まだ、独立してから200数十年しか経っていない新しい国だが、世界中から集まって来た移民たちの努力によって、今のような世界一の大国になった。
   未曾有の大経済不況の為に、中国での上海万博のアメリカ館の建設費用の目途が立たない状態らしいし、独立記念日に、隣国のミサイル打ち上げの挑発を受けるなど、多少がたつき始めてはいるようだが、やはり、桁違いの偉大な大国である。

   しかし、私が、初めてフィラデルフィアで、木造の小さなインディペンデンス・ホールを見た時には、その素朴さに驚いた。
   尤も、狭くて貧相な議場を眺めながらも、ここで独立宣言が起草されたのかと思った時には、身が引き締まるような感激を覚えた。
   あの中央の椅子にジョージ・ワシントンが座り、そして、わが母校の創立者ベンジャミン・フランクリンが、あの席に座って、高邁な人間の尊厳と独立を高らかに謳いあげて滔々と論じていたのか思うと、たまらなく感激したのである。

   日本人の私でさえこうであるから、色々な思いを込めて、故国を離れて、ヨーロッパ大陸から渡って来た移民たちには、自由の女神像は、格別の存在なのであろうと思う。
   自由の女神像を見ながらギリシャから来た、あのマリア・カラスの親たちも、カゲロプーロスとか何か長くて難しい名前であったのが、エリス島の入国係官が、カラスにしろと、勝手に名前を変えたと言うのだから、悲喜劇は交々ながら、とにかく、希望に胸を膨らませて、ここから新世界アメリカでの生活が始まったのである。
コメント
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