ジャック・アタリの「21世紀の歴史 未来の人類から見た世界」を手に取ってみたのだが、原本はフランス語でタイトルの意味が不明なので、米国アマゾンを開いたら、「A Brief History of the Future: A Brave and Controversial Look at the Twenty-First Century」。これなら、アタリの意図が良く分かる。
アタリは、有史以来の人類の歴史を紐解きながら、市場資本主義が如何にして生まれ出でて今日の文明社会を築き上げてきたか、資本主義の発展に焦点を当てて克明に分析し、現在のアメリカ帝国の時代が終焉し、その後、どのようにして21世紀の人類の未来が推移して行くのかを、非常に大胆な仮説を交えながら展望する。
人類の歴史を動かして来たのは、世界の「中心都市」だとして、アタリは、13世紀のブルージュから、ヴェネチア、アントワープ、ジェノヴァ、アムステルダム、ロンドン、ボストン、ニューヨーク、ロサンゼルスを中心として推移しながら展開されてきた資本主義の歴史を、実に色彩豊かな万華鏡のように展望していて、これを読むだけでも、生きた人類の経済産業史が理解出来て興味深い。
現在は、シリコンバレーに象徴されるICT革命下のロサンゼルス時代だが、その後の第9番目の中心都市がどうなるのかと言うところから、アタリの人類の歴史の未来構想が展開される。
資本主義が行き着く所まで行って「超帝国」状態に到達し、更に、第二波の戦争・紛争を超える「超紛争」の時代に突入し、最後には、使命に目覚めた人類が、民主主義を超えるユートピアたる「超民主主義」に至ると言うのである。
2035年頃に、市場民主主義のグローバル化が頂点に達してアメリカ帝国が没落して、その後、国家の弱体化が進み超帝国段階に突入し、人類の破滅の危機たる超紛争の時代を経て、2060年頃に、愛他主義者、ユニバーサリズムの信者が世界的な力を掌握して、「超民主主義」の時代が到来すると言うのである。
ところで、アタリは、中心都市が形成されるのは、世界各地からクリエイティブで才能溢れる「クリエーター階級」が集まり、そこには新しさや発見に対する情熱が溢れ、知が結集し、革新と発展が爆発するからだと考えており、いわゆる、メディチ・エフェクトが資本主義社会の発展の原動力だと認識している。
すなわち、クリエーター階級によって活況を呈する中心都市は、経済社会の発展の中心であると同時に、そこには、学問・音楽・芸術・イノベーションなど文化・文明の華が開花し、素晴らしい都市空間と都市文化が生まれるのである。
しかし、クリエーター階級は、中心都市の栄枯盛衰には敏感で、為政者が追放したり、都市の没落の兆候を察知すると、すぐに中心都市から離れてしまう超ノマドなので、その後、その支配的な中心都市は没落して文明の中心が移動してしまう。
アタリの論点で興味深いのは、直近の問題として、現在の資本主義社会が、市場からの要求が増加し、新しいテクノロジーの利用によって、世界の秩序は、地球規模となった市場の周辺に、国家を超えて統一される「超帝国」となってしまって、公共サービスを、次に、民主主義を、最後には、政府や国家さえも破壊すると言う考え方である。
市場の拡大によって中産階級が形成され、独裁政治を打ち崩し、地球規模の民主主義が確立されると、民族・宗教・国民はグループ毎にバラバラになり国家が消滅し多角化する。
一方、市場民主主義によって活力を得て強力になった私企業を中心とした市場が、国家が担っている軍事・教育・医療・環境・統治権と言った公共サービスにまで蚕食して大量生産される製品に置き換えてしまうなど、国家機能を代替してしまう。マネーの論理が総てを支配する危険な状態に、人類社会が追い込まれてしまうと言うのである。
実際は、ともかく、イラク戦争の現場でも私企業が兵士まがいの技術者を送り込んでおり、環境保全での排出権取引など、マネー取引に変わってしまっているし、確かに、公共サービスの過度な民営化進行の兆候はある。
市場民主主義の勝利によって、マネーに突き動かされた市場が傍若無人の振る舞いをして経済社会秩序を破壊してしまい、地球を戦争と紛争の混乱に陥れるのだが、最後に、人類は自らのアイデンティティが破壊される前に、生きる喜び、人種を超えた愛、他社への配慮に目覚めて、新たな文明を目指して超民主主義の社会を築き上げる。
これが、アタリの期待する21世紀の展望だが、実際に読み終わって、本当に、アタリ自身が、そんなことを信じているのか、疑問なしとはしない。
私自身は、マルサスではないけれど、この地球が、人類の住処として生命を維持できるのかどうか、大いに疑問を感じているので、2060年頃に、地球上がユートピアになるなどとそんな悠長な想像などできる筈がない。
しかし、結論や推論はとにかく、アタリの文化・文明に対する博学多識は驚嘆すべきで、ここで論じられている多くの貴重な問題提起や提言などは、夫々傾聴に値するのみならず、すぐに、教訓や政策としても活用可能である。
日本語版の序文で、アタリが、何故、日本が、何度もチャンスがありながら、中心都市になり得なかったのかを述べているが、極めて貴重な提起であり、肝に銘じるべきだと思っている。
並外れた技術的ダイナミズムを持ちながら、既存の産業・不動産から生じる超過利得、官僚周辺の利益を過剰に保護して、将来ある産業、企業の収益・利益・機動力・イノベーション、人間工学に関する産業を犠牲にしてきたこと。
日本は、十分な「クリエーター階級」を育成してこなかった。ナビゲーター、技術者、研究者、起業家、商人、産業人の育成を怠ってきたと同時に、科学者、金融関係者、企業クリエーターなどを外国から呼び込むことも迎え入れることもせず、アイディア、投資、人材を世界から幅広く糾合することを怠ったと言うのだが、アタリ文明論から言えば、当然の指摘であろう。
アタリは、有史以来の人類の歴史を紐解きながら、市場資本主義が如何にして生まれ出でて今日の文明社会を築き上げてきたか、資本主義の発展に焦点を当てて克明に分析し、現在のアメリカ帝国の時代が終焉し、その後、どのようにして21世紀の人類の未来が推移して行くのかを、非常に大胆な仮説を交えながら展望する。
人類の歴史を動かして来たのは、世界の「中心都市」だとして、アタリは、13世紀のブルージュから、ヴェネチア、アントワープ、ジェノヴァ、アムステルダム、ロンドン、ボストン、ニューヨーク、ロサンゼルスを中心として推移しながら展開されてきた資本主義の歴史を、実に色彩豊かな万華鏡のように展望していて、これを読むだけでも、生きた人類の経済産業史が理解出来て興味深い。
現在は、シリコンバレーに象徴されるICT革命下のロサンゼルス時代だが、その後の第9番目の中心都市がどうなるのかと言うところから、アタリの人類の歴史の未来構想が展開される。
資本主義が行き着く所まで行って「超帝国」状態に到達し、更に、第二波の戦争・紛争を超える「超紛争」の時代に突入し、最後には、使命に目覚めた人類が、民主主義を超えるユートピアたる「超民主主義」に至ると言うのである。
2035年頃に、市場民主主義のグローバル化が頂点に達してアメリカ帝国が没落して、その後、国家の弱体化が進み超帝国段階に突入し、人類の破滅の危機たる超紛争の時代を経て、2060年頃に、愛他主義者、ユニバーサリズムの信者が世界的な力を掌握して、「超民主主義」の時代が到来すると言うのである。
ところで、アタリは、中心都市が形成されるのは、世界各地からクリエイティブで才能溢れる「クリエーター階級」が集まり、そこには新しさや発見に対する情熱が溢れ、知が結集し、革新と発展が爆発するからだと考えており、いわゆる、メディチ・エフェクトが資本主義社会の発展の原動力だと認識している。
すなわち、クリエーター階級によって活況を呈する中心都市は、経済社会の発展の中心であると同時に、そこには、学問・音楽・芸術・イノベーションなど文化・文明の華が開花し、素晴らしい都市空間と都市文化が生まれるのである。
しかし、クリエーター階級は、中心都市の栄枯盛衰には敏感で、為政者が追放したり、都市の没落の兆候を察知すると、すぐに中心都市から離れてしまう超ノマドなので、その後、その支配的な中心都市は没落して文明の中心が移動してしまう。
アタリの論点で興味深いのは、直近の問題として、現在の資本主義社会が、市場からの要求が増加し、新しいテクノロジーの利用によって、世界の秩序は、地球規模となった市場の周辺に、国家を超えて統一される「超帝国」となってしまって、公共サービスを、次に、民主主義を、最後には、政府や国家さえも破壊すると言う考え方である。
市場の拡大によって中産階級が形成され、独裁政治を打ち崩し、地球規模の民主主義が確立されると、民族・宗教・国民はグループ毎にバラバラになり国家が消滅し多角化する。
一方、市場民主主義によって活力を得て強力になった私企業を中心とした市場が、国家が担っている軍事・教育・医療・環境・統治権と言った公共サービスにまで蚕食して大量生産される製品に置き換えてしまうなど、国家機能を代替してしまう。マネーの論理が総てを支配する危険な状態に、人類社会が追い込まれてしまうと言うのである。
実際は、ともかく、イラク戦争の現場でも私企業が兵士まがいの技術者を送り込んでおり、環境保全での排出権取引など、マネー取引に変わってしまっているし、確かに、公共サービスの過度な民営化進行の兆候はある。
市場民主主義の勝利によって、マネーに突き動かされた市場が傍若無人の振る舞いをして経済社会秩序を破壊してしまい、地球を戦争と紛争の混乱に陥れるのだが、最後に、人類は自らのアイデンティティが破壊される前に、生きる喜び、人種を超えた愛、他社への配慮に目覚めて、新たな文明を目指して超民主主義の社会を築き上げる。
これが、アタリの期待する21世紀の展望だが、実際に読み終わって、本当に、アタリ自身が、そんなことを信じているのか、疑問なしとはしない。
私自身は、マルサスではないけれど、この地球が、人類の住処として生命を維持できるのかどうか、大いに疑問を感じているので、2060年頃に、地球上がユートピアになるなどとそんな悠長な想像などできる筈がない。
しかし、結論や推論はとにかく、アタリの文化・文明に対する博学多識は驚嘆すべきで、ここで論じられている多くの貴重な問題提起や提言などは、夫々傾聴に値するのみならず、すぐに、教訓や政策としても活用可能である。
日本語版の序文で、アタリが、何故、日本が、何度もチャンスがありながら、中心都市になり得なかったのかを述べているが、極めて貴重な提起であり、肝に銘じるべきだと思っている。
並外れた技術的ダイナミズムを持ちながら、既存の産業・不動産から生じる超過利得、官僚周辺の利益を過剰に保護して、将来ある産業、企業の収益・利益・機動力・イノベーション、人間工学に関する産業を犠牲にしてきたこと。
日本は、十分な「クリエーター階級」を育成してこなかった。ナビゲーター、技術者、研究者、起業家、商人、産業人の育成を怠ってきたと同時に、科学者、金融関係者、企業クリエーターなどを外国から呼び込むことも迎え入れることもせず、アイディア、投資、人材を世界から幅広く糾合することを怠ったと言うのだが、アタリ文明論から言えば、当然の指摘であろう。