これまでに、ブラジルは、貧しい人々や下層階級には厳しい階級社会だと言うことにふれたが、ローターは、英語には、第二人称にはyouしかないが、ブラジルには、比較的インフォーマルなtuと、同等間で使うvoce、そして、もっとフォーマルなo senorとdoutorの使い分けがあると語っている。
勿論、ドイツ語でも、二通りの呼称があり、日本語などでは、数えきれないほど種類があるので、異常だとは思えないが、ブラジルの場合には、この使い分けが、はっきりと身分を示していることは間違いない。
この最後のdoutorだが、例のドトール・コーヒーのドトールで、これは、創業者がブラジルに住んでいた時の住居がドトール○○○通りにあったので借用したと言うことだが、英語で言うdoctorである。
面白いのは、実際に博士号を持っている人を差すのではなくて、大卒やそれ相応の豊かな人に使う敬語のようなもので、名前の前に着けて呼ぶのである。
私などは恥ずかしくて困ったので、博士ではなく修士だからと秘書に釘を刺したのだが、立派な米国製MBAであり社長なのだから当然ですと言って譲らず、外部への対応で、ドトール・ナカムラで押し通していた。
ところで、ブラジルの宗教は、カソリックで、人口の85%がそうだと言う。
しかし、沢山の移民が混在しており、特に、アフリカ移民の土俗宗教と結びついたマクンバ、カンドンブレ、ウンバンバと言ったアフロ・ブラジリアン信仰の影響も色濃くブラジル文化文明に息づいていると言う。
私は、宗教的な知識が乏しいので、本件への深入りは避けて、ローターが、カルビニズムと比較しながら論じているので、この点にだけ触れてみたい。
カソリック教とマクンバ、そして、その影響の強い考え方が支配的なので、ブラジル人には、カルビニズムやその価値観や心情は皆無である。
したがって、ブラジル人は、カルビニズムのように禁欲的なモラリストではないので、利益や富は、暴利と利己心のダブル罪業の成果であって、徳行でも奉仕や犠牲的行為への報酬でもないと考えている。
あらゆる罪は、祈りを捧げたりお供え物をしたりして悔恨の情を示し、聖職者に告白さえすれば許される。
こう言う意識だから、罪を犯しては赦罪、罪を犯しては赦罪の繰り返しで、ブラジルで、チコ・バルクの歌「Sin Doesn't Exist Below the Equator」がカーニバルで歌われ続けるのも当然であろう。
これが、この章のタイトルでもあり、ブラジル人の典型的な罪業と赦しの哲学であり人生観だと言うのである。
謝罪や赦しと言う感覚は、ブラジル人が、自分たちの国民性の中でも最もポジティブな特質だとする寛容性toleranceと密接に関係している。
この考え方は、他人の欠点や特異体質に対してではなく、法律に対する違反や妨害に向けた寛容だと言うである。
ポップスターやサッカー選手が、スピード違反を犯して、スポーツカーで道の露天商や子供を轢き殺しても、すぐに釈放されて、ジェイル入りなどあり得ないし、政治家が汚職をしても、そんなことはすぐに忘れられて次の選挙で返り咲くと言うのである。
これは、仮定の話ではなく真実で、ニクソンの場合には永久に政治生命を断たれたが、1992年に弾劾されたフェルナンド・コロール・デ・メーロ Fernando Collor de Mello大統領などは、2006年には、国会議員に復活したが、ブラジルには、こんな汚職国会議員は他にもいると言う。
アメリカには、第二章はなく一回限りだと、ローターは言うのだが、徹頭徹尾アングロサクソン流の思想の持ち主である著者の視点から見れば、このブラジル流の罪と赦しの考え方は、全く相容れないであろうし、コモンローで培われたヨーロッパの成熟社会の価値観から言っても、遅れた社会だと言う烙印は、免れないであろう。
しかし、このラテン的な思想や哲学、或いは、人生観と言うのは、形を多少変えながら何らかの形で、南欧のラテン諸国にも残っており、現在、支配的な文化文明の価値観を基準にして判断して黒白をつけることが正しいのかどうか、大きな長い人類の歴史の潮流に照らして考えた場合には、公平を欠くのではないかと言う気がしなくもない。
例えば、中国の外交政策について、ならず者国家との積極的なアプローチについて批判があるが、これは、ある意味では、アメリカが覇権を握って築き上げた支配的な世界観・価値観を基準として論じているので、そうなるのだが、果たしてアメリカの外交なり国際政治が正しかったのかどうかは、今、北アフリカや中東の動乱で危機と試練に立っているように、大いに?マークを付けて考えなければならない問題なのである。
何となく、この章では、ローター説に引っ張られてブラジル社会の後進性(?)を強調してしまった印象だが、ある意味では、そんな自由奔放で楽天的なラテン気質であるが故に素晴らしい音楽や芸術、ファッション、文化などの素晴らしい遺産が生まれ出るのだと言えるのではなかろうかとも思っている。
勿論、ドイツ語でも、二通りの呼称があり、日本語などでは、数えきれないほど種類があるので、異常だとは思えないが、ブラジルの場合には、この使い分けが、はっきりと身分を示していることは間違いない。
この最後のdoutorだが、例のドトール・コーヒーのドトールで、これは、創業者がブラジルに住んでいた時の住居がドトール○○○通りにあったので借用したと言うことだが、英語で言うdoctorである。
面白いのは、実際に博士号を持っている人を差すのではなくて、大卒やそれ相応の豊かな人に使う敬語のようなもので、名前の前に着けて呼ぶのである。
私などは恥ずかしくて困ったので、博士ではなく修士だからと秘書に釘を刺したのだが、立派な米国製MBAであり社長なのだから当然ですと言って譲らず、外部への対応で、ドトール・ナカムラで押し通していた。
ところで、ブラジルの宗教は、カソリックで、人口の85%がそうだと言う。
しかし、沢山の移民が混在しており、特に、アフリカ移民の土俗宗教と結びついたマクンバ、カンドンブレ、ウンバンバと言ったアフロ・ブラジリアン信仰の影響も色濃くブラジル文化文明に息づいていると言う。
私は、宗教的な知識が乏しいので、本件への深入りは避けて、ローターが、カルビニズムと比較しながら論じているので、この点にだけ触れてみたい。
カソリック教とマクンバ、そして、その影響の強い考え方が支配的なので、ブラジル人には、カルビニズムやその価値観や心情は皆無である。
したがって、ブラジル人は、カルビニズムのように禁欲的なモラリストではないので、利益や富は、暴利と利己心のダブル罪業の成果であって、徳行でも奉仕や犠牲的行為への報酬でもないと考えている。
あらゆる罪は、祈りを捧げたりお供え物をしたりして悔恨の情を示し、聖職者に告白さえすれば許される。
こう言う意識だから、罪を犯しては赦罪、罪を犯しては赦罪の繰り返しで、ブラジルで、チコ・バルクの歌「Sin Doesn't Exist Below the Equator」がカーニバルで歌われ続けるのも当然であろう。
これが、この章のタイトルでもあり、ブラジル人の典型的な罪業と赦しの哲学であり人生観だと言うのである。
謝罪や赦しと言う感覚は、ブラジル人が、自分たちの国民性の中でも最もポジティブな特質だとする寛容性toleranceと密接に関係している。
この考え方は、他人の欠点や特異体質に対してではなく、法律に対する違反や妨害に向けた寛容だと言うである。
ポップスターやサッカー選手が、スピード違反を犯して、スポーツカーで道の露天商や子供を轢き殺しても、すぐに釈放されて、ジェイル入りなどあり得ないし、政治家が汚職をしても、そんなことはすぐに忘れられて次の選挙で返り咲くと言うのである。
これは、仮定の話ではなく真実で、ニクソンの場合には永久に政治生命を断たれたが、1992年に弾劾されたフェルナンド・コロール・デ・メーロ Fernando Collor de Mello大統領などは、2006年には、国会議員に復活したが、ブラジルには、こんな汚職国会議員は他にもいると言う。
アメリカには、第二章はなく一回限りだと、ローターは言うのだが、徹頭徹尾アングロサクソン流の思想の持ち主である著者の視点から見れば、このブラジル流の罪と赦しの考え方は、全く相容れないであろうし、コモンローで培われたヨーロッパの成熟社会の価値観から言っても、遅れた社会だと言う烙印は、免れないであろう。
しかし、このラテン的な思想や哲学、或いは、人生観と言うのは、形を多少変えながら何らかの形で、南欧のラテン諸国にも残っており、現在、支配的な文化文明の価値観を基準にして判断して黒白をつけることが正しいのかどうか、大きな長い人類の歴史の潮流に照らして考えた場合には、公平を欠くのではないかと言う気がしなくもない。
例えば、中国の外交政策について、ならず者国家との積極的なアプローチについて批判があるが、これは、ある意味では、アメリカが覇権を握って築き上げた支配的な世界観・価値観を基準として論じているので、そうなるのだが、果たしてアメリカの外交なり国際政治が正しかったのかどうかは、今、北アフリカや中東の動乱で危機と試練に立っているように、大いに?マークを付けて考えなければならない問題なのである。
何となく、この章では、ローター説に引っ張られてブラジル社会の後進性(?)を強調してしまった印象だが、ある意味では、そんな自由奔放で楽天的なラテン気質であるが故に素晴らしい音楽や芸術、ファッション、文化などの素晴らしい遺産が生まれ出るのだと言えるのではなかろうかとも思っている。