先日、讀賣新聞に次のような記事が載った。
【ニューヨーク=柳沢亨之】日本文学研究の第一人者で、日本文化を欧米へ広く紹介してきたドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授(88)が22日、ニューヨーク市内の自宅で読売新聞のインタビューに応じ、東日本大震災の発生から日本国籍取得と永住を決意するまでの心境を吐露した。
キーン氏は「災難を前に、『日本国民と共に何かをしたい』と思った。自分が日本人と同じように感じていることを行動で示したかった」と決意へ至る思いを強調。「日本は震災後、さらに立派な国になると信じる。明るい気持ちで日本へ移る」と語った。9月までに東京・北区の住まいに移るという。
キーン氏は、太平洋戦争で日本語通訳として沖縄戦を経験。以後、長く日本と交わってきた。被災地の東北地方は「松尾芭蕉の『奥の細道』(の研究)で度々訪れた」。そして、日本留学時代は「無名の私を助けてくれる人たちに囲まれた」。日本国籍取得で「これまで示せなかった日本への感謝を伝えたい」という
私は、昨年、初めてキーン先生の「世界の文化と日本の文化」と言う演題の講演を聴いて、その会場で買ったキーン先生の私の履歴書とも言うべき「私と20世紀クロニクル」を読んで感激して、このブログでも書いた。
先生を、歌舞伎座やグローブ座のシェイクスピア劇の会場などで、お見かけしたことがあるが、アメリカ人としては小柄な、正に、真面目実直そのもののような雰囲気の紳士であった。
今日、ニューヨークタイムズ電子版に次のような記事が出た。Columbia Professor’s Retirement Is Big News in Japan
日本のTVでも、キーン先生のコロンビア大学での最後の講義の様子が放映されて、生徒から花束を受け取って喜ぶキーン先生を大写しにしていた。(口絵写真)
ゼミなので、かなり、小さな部屋で、アメリカ人の生徒数も少ない感じだったが、教室の後方には、多くの日本人ジャーナリストやカメラマンが詰めかけていたのであろう。
最後の大学院の講義は、能講座で「松風」について語った。He quoted the final lines of “Matsukaze,” a play by the writer Kannami, the last line of which says “all that is left is the wind in the pines. "松風ばかりや残るらん"である。
1938年に入学して、学士、修士、博士号すべてをコロンビア大学で取り、57年間教職について、トータル73年間をコロンビア大学とともに過ごしたと言う。
結婚もせず、子供もなく、日本文学と日本文化一筋に研鑽を積み重ね、多くの本を書き、翻訳し、編纂編集をし続けて、その素晴らしい功績によって、日本で多くの受賞や名誉に輝いた。
コロンビア大学の日本学部の超重鎮であるばかりではなく、世界屈指の日本文学者であり、アマゾンでキーン先生の本を検索するだけでも、その膨大な書籍群に舌を巻く。
そのキーン先生が、「多くの外人が、日本を離れて行くが、この時こそ、自分の余生を日本で過ごすべきだと考えて、日本に永住して日本国籍を取ることにした。アメリカより、日本の方が友人が多いし、多くの賞も日本で貰った。日本の人たちに感謝の気持ちを伝えたいし、私には、大悲劇の時であればこそ、貴方たち日本人と一緒にいたいと言うこと以外に選ぶべき道はない。」と、学生たちに、さよなら講義をしたと言う。
あのピーター・ドラッカーも、日本びいきで、日本の絵画などについて非常に造詣が深ったと言うのだが、世界的な大学者が、日本の文化や日本の国そのものに惚れ込んで認めてくれると言うことは、非常に嬉しい。
キーン先生の日本帰化は、驚きではあるが、国をもっともっとオープンにすれば、世界中の叡智を魅了することも可能であろうと思う。
古書店で見つけて49セントで買った「源氏物語2巻本」が、キーン先生の日本文学への傾斜の切っ掛けだというから、チャンスは、いくらでもあると思うし、それだけ、日本そのものが素晴らしい宝物を持っていると言うことである。
He said he wanted to show his appreciation to the Japanese people, and that, “I could think of no other way than to say I’d be with them” despite the disastrous events.
【ニューヨーク=柳沢亨之】日本文学研究の第一人者で、日本文化を欧米へ広く紹介してきたドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授(88)が22日、ニューヨーク市内の自宅で読売新聞のインタビューに応じ、東日本大震災の発生から日本国籍取得と永住を決意するまでの心境を吐露した。
キーン氏は「災難を前に、『日本国民と共に何かをしたい』と思った。自分が日本人と同じように感じていることを行動で示したかった」と決意へ至る思いを強調。「日本は震災後、さらに立派な国になると信じる。明るい気持ちで日本へ移る」と語った。9月までに東京・北区の住まいに移るという。
キーン氏は、太平洋戦争で日本語通訳として沖縄戦を経験。以後、長く日本と交わってきた。被災地の東北地方は「松尾芭蕉の『奥の細道』(の研究)で度々訪れた」。そして、日本留学時代は「無名の私を助けてくれる人たちに囲まれた」。日本国籍取得で「これまで示せなかった日本への感謝を伝えたい」という
私は、昨年、初めてキーン先生の「世界の文化と日本の文化」と言う演題の講演を聴いて、その会場で買ったキーン先生の私の履歴書とも言うべき「私と20世紀クロニクル」を読んで感激して、このブログでも書いた。
先生を、歌舞伎座やグローブ座のシェイクスピア劇の会場などで、お見かけしたことがあるが、アメリカ人としては小柄な、正に、真面目実直そのもののような雰囲気の紳士であった。
今日、ニューヨークタイムズ電子版に次のような記事が出た。Columbia Professor’s Retirement Is Big News in Japan
日本のTVでも、キーン先生のコロンビア大学での最後の講義の様子が放映されて、生徒から花束を受け取って喜ぶキーン先生を大写しにしていた。(口絵写真)
ゼミなので、かなり、小さな部屋で、アメリカ人の生徒数も少ない感じだったが、教室の後方には、多くの日本人ジャーナリストやカメラマンが詰めかけていたのであろう。
最後の大学院の講義は、能講座で「松風」について語った。He quoted the final lines of “Matsukaze,” a play by the writer Kannami, the last line of which says “all that is left is the wind in the pines. "松風ばかりや残るらん"である。
1938年に入学して、学士、修士、博士号すべてをコロンビア大学で取り、57年間教職について、トータル73年間をコロンビア大学とともに過ごしたと言う。
結婚もせず、子供もなく、日本文学と日本文化一筋に研鑽を積み重ね、多くの本を書き、翻訳し、編纂編集をし続けて、その素晴らしい功績によって、日本で多くの受賞や名誉に輝いた。
コロンビア大学の日本学部の超重鎮であるばかりではなく、世界屈指の日本文学者であり、アマゾンでキーン先生の本を検索するだけでも、その膨大な書籍群に舌を巻く。
そのキーン先生が、「多くの外人が、日本を離れて行くが、この時こそ、自分の余生を日本で過ごすべきだと考えて、日本に永住して日本国籍を取ることにした。アメリカより、日本の方が友人が多いし、多くの賞も日本で貰った。日本の人たちに感謝の気持ちを伝えたいし、私には、大悲劇の時であればこそ、貴方たち日本人と一緒にいたいと言うこと以外に選ぶべき道はない。」と、学生たちに、さよなら講義をしたと言う。
あのピーター・ドラッカーも、日本びいきで、日本の絵画などについて非常に造詣が深ったと言うのだが、世界的な大学者が、日本の文化や日本の国そのものに惚れ込んで認めてくれると言うことは、非常に嬉しい。
キーン先生の日本帰化は、驚きではあるが、国をもっともっとオープンにすれば、世界中の叡智を魅了することも可能であろうと思う。
古書店で見つけて49セントで買った「源氏物語2巻本」が、キーン先生の日本文学への傾斜の切っ掛けだというから、チャンスは、いくらでもあると思うし、それだけ、日本そのものが素晴らしい宝物を持っていると言うことである。
He said he wanted to show his appreciation to the Japanese people, and that, “I could think of no other way than to say I’d be with them” despite the disastrous events.