今、千葉の田舎は、春の真っ盛りである。
今日、少し風は強かったが、花曇りと言った感じの穏やかな日であったので、四六時中、余震に大地が揺れ続けている憂さ晴らしのために、郊外を車で走った。
どこへ行っても、淡いピンクのソメイヨシノが満開で、白い綿帽子が、濃い霞のように野山に張り付いた感じで、穏やかな春である。
ところが、桜はソメイヨシノばかりで、全く変わり映えがしないのに気が付いた。
色と雰囲気が違った花と言えば、モモやモクレンなのだが、桜と比べてスケールが小さいので、あまり、パッとしない。
夕方近くになって、佐倉城址公園に出かけたが、ソメイヨシノは、散り始めて最盛期は過ぎており、まだ、八重桜は時期が早いので、かなり人出があったが、あまり、趣がある風ではなかったので、歴博の駐車場サークルでUターンしてすぐに出て来てしまった。
この公園には、かなりの種類の桜の木が植わっていて、少し時期をずらしながら咲くのだが、八重桜が美しく咲くのは、10日くらい後のことであろうか。
今日は、歴博の事務所入り口のピンクの枝垂れ桜は満開で、まだ、小さいが、中々、情趣があって綺麗であった。
関東地方の桜は、京都や奈良など関西と違って、殆どソメイヨシノばかりで、至って単調なのだが、この公園は、ソメイヨシノが散って観光客があまり来なくなった時期の桜見物の方が面白いのである。
開花宣言などもそうだが、花見をソメイヨシノの開花時期に合わせて人々が動くけれど、学生時代に、京都で、遅咲きの桜を静かな古社寺などで楽しんでいたので、多少、天邪鬼かも知れないが、この方が楽しめると思っている。
ついでに、印旛沼畔に出て、オランダ風車のあるチューリップ公園の傍に出てみた。
私は、このチューリップ畑より、湖畔の桜並木の方が趣があって良いと思うのだが、丁度、チューリップ祭りと同じ時期なので、日中は、観光客で一杯になる。
夕方で、大分、お客さんも少なくなっていたが、ものものしい交通整理が興ざめなので、傍を通り抜けただけだが、それほど大きくないが、整然と一列に並んで白く霞んだソメイヨシノ並木の遠望は、印旛沼のほとりの鄙びた農家の長閑な雰囲気と調和していて、趣があって良い。
その傍に、オランダ風車がゆっくりと回っていて、足元には、極彩色のチューリップ畑が張り付いている。
歳の所為か、私は、人ごみや花見客で雑踏するようなところでの、春の花の鑑賞は苦手で、花のクローズアップ写真を撮る目的以外には、行かないようにしており、たとえ1本の花木でも、田舎や路傍にひっそりと咲いているのを見る方が、はるかに好きである。
この印旛沼からすぐのところに、樹齢400年と言う吉高の大桜があり、真っ黄色の菜の花畑にすっくと立つ鮮やかな円弧を描いて咲く素晴らしい山桜があるのだが、ぼつぼつ、見ごろであろうから、週末には、満開かも知れない。
昔は、人も少なくて、綺麗な写真が撮れたが、今では、人の切れ間がなく、人物の入らない写真など撮れないし、それに、まず、近くまでの車でのアクセスさえ至難の業であろう。
さて、この口絵写真であるが、わが庭に咲く天賜椿である。
この頃、桜を求めて花見に出かけるのが、少々苦手になってきたと言うか、それよりも、自分の育てた椿やバラなどを、その日々の成長を眺めながら楽しむことの方が多くなった。
醍醐の桜、東福寺の桜、宇治河畔の桜、仁和寺の桜、大原の桜、嵐山・嵯峨野、伊賀上野や奈良のあっちこっちの古寺の桜、宝塚の桜、思い出せば、走馬灯のように、沢山の桜のイメージが、脳裏を駆け巡るのだが、ヨーロッパや世界の各地で眺めた桜の思い出も懐かしく、すべて、今は夢の中である。
花はさくら、山は富士というのだが、私は、どちらかと言うと、春の花は、桜より梅、そして、椿の方が好きである。
穏やかで爽やかな日には、庭に出て、椿に囲まれて、紅茶かコーヒーを片手に、小鳥たちのさえずりを聞きながら、蝶やミツバチの草花との対話を眺めることが多くなった。
もう少しすると、八重桜に遅れて、ほんのりと色づき始めた牡丹が咲きだし、芍薬が、バラと妍を競って咲き乱れる。
朝顔の種を蒔き、トマトを植える好機である。
余震に平静を乱されながら、被災地の春を思うと、無性に悲しくなる。
今日、少し風は強かったが、花曇りと言った感じの穏やかな日であったので、四六時中、余震に大地が揺れ続けている憂さ晴らしのために、郊外を車で走った。
どこへ行っても、淡いピンクのソメイヨシノが満開で、白い綿帽子が、濃い霞のように野山に張り付いた感じで、穏やかな春である。
ところが、桜はソメイヨシノばかりで、全く変わり映えがしないのに気が付いた。
色と雰囲気が違った花と言えば、モモやモクレンなのだが、桜と比べてスケールが小さいので、あまり、パッとしない。
夕方近くになって、佐倉城址公園に出かけたが、ソメイヨシノは、散り始めて最盛期は過ぎており、まだ、八重桜は時期が早いので、かなり人出があったが、あまり、趣がある風ではなかったので、歴博の駐車場サークルでUターンしてすぐに出て来てしまった。
この公園には、かなりの種類の桜の木が植わっていて、少し時期をずらしながら咲くのだが、八重桜が美しく咲くのは、10日くらい後のことであろうか。
今日は、歴博の事務所入り口のピンクの枝垂れ桜は満開で、まだ、小さいが、中々、情趣があって綺麗であった。
関東地方の桜は、京都や奈良など関西と違って、殆どソメイヨシノばかりで、至って単調なのだが、この公園は、ソメイヨシノが散って観光客があまり来なくなった時期の桜見物の方が面白いのである。
開花宣言などもそうだが、花見をソメイヨシノの開花時期に合わせて人々が動くけれど、学生時代に、京都で、遅咲きの桜を静かな古社寺などで楽しんでいたので、多少、天邪鬼かも知れないが、この方が楽しめると思っている。
ついでに、印旛沼畔に出て、オランダ風車のあるチューリップ公園の傍に出てみた。
私は、このチューリップ畑より、湖畔の桜並木の方が趣があって良いと思うのだが、丁度、チューリップ祭りと同じ時期なので、日中は、観光客で一杯になる。
夕方で、大分、お客さんも少なくなっていたが、ものものしい交通整理が興ざめなので、傍を通り抜けただけだが、それほど大きくないが、整然と一列に並んで白く霞んだソメイヨシノ並木の遠望は、印旛沼のほとりの鄙びた農家の長閑な雰囲気と調和していて、趣があって良い。
その傍に、オランダ風車がゆっくりと回っていて、足元には、極彩色のチューリップ畑が張り付いている。
歳の所為か、私は、人ごみや花見客で雑踏するようなところでの、春の花の鑑賞は苦手で、花のクローズアップ写真を撮る目的以外には、行かないようにしており、たとえ1本の花木でも、田舎や路傍にひっそりと咲いているのを見る方が、はるかに好きである。
この印旛沼からすぐのところに、樹齢400年と言う吉高の大桜があり、真っ黄色の菜の花畑にすっくと立つ鮮やかな円弧を描いて咲く素晴らしい山桜があるのだが、ぼつぼつ、見ごろであろうから、週末には、満開かも知れない。
昔は、人も少なくて、綺麗な写真が撮れたが、今では、人の切れ間がなく、人物の入らない写真など撮れないし、それに、まず、近くまでの車でのアクセスさえ至難の業であろう。
さて、この口絵写真であるが、わが庭に咲く天賜椿である。
この頃、桜を求めて花見に出かけるのが、少々苦手になってきたと言うか、それよりも、自分の育てた椿やバラなどを、その日々の成長を眺めながら楽しむことの方が多くなった。
醍醐の桜、東福寺の桜、宇治河畔の桜、仁和寺の桜、大原の桜、嵐山・嵯峨野、伊賀上野や奈良のあっちこっちの古寺の桜、宝塚の桜、思い出せば、走馬灯のように、沢山の桜のイメージが、脳裏を駆け巡るのだが、ヨーロッパや世界の各地で眺めた桜の思い出も懐かしく、すべて、今は夢の中である。
花はさくら、山は富士というのだが、私は、どちらかと言うと、春の花は、桜より梅、そして、椿の方が好きである。
穏やかで爽やかな日には、庭に出て、椿に囲まれて、紅茶かコーヒーを片手に、小鳥たちのさえずりを聞きながら、蝶やミツバチの草花との対話を眺めることが多くなった。
もう少しすると、八重桜に遅れて、ほんのりと色づき始めた牡丹が咲きだし、芍薬が、バラと妍を競って咲き乱れる。
朝顔の種を蒔き、トマトを植える好機である。
余震に平静を乱されながら、被災地の春を思うと、無性に悲しくなる。