この口絵写真は、わが庭の小磯の落ち椿である。
小磯は、やや小輪の一重筒咲きの清楚な凛とした花で、深い深紅の優雅な佇まいは非常に魅力的である。
ただ問題は、潔いと言うか、すぐに花弁が落ちることで、この写真のように、元気な最盛期に散るので、落ち椿が、それなりに鑑賞に堪えるのである。
加茂本阿弥や曙のように、蕾が大きくて品があれば、咲く寸前の花を茶花として生けて楽しめるのだが、小磯の場合には、蕾が小さくてふくよかではないので、茶花には向かない。
正に、咲いている時の素晴らしい花姿を鑑賞すべきであるが、沢山花をつけると、木陰を真っ赤に染める落ち椿の風情も、中々捨てたものではない。
庭植えして、もう、10年以上にもなるが、まだ、2メートル少しの背丈だが、隣に植えててあるピンクの八重の抱え咲き大輪の花富貴とは良い対照で、同じ椿と言っても、これ程差があるのかと思えて面白い。
私は、学生の頃に、古社寺を散策しながら京都の庭園や建築、仏像などの鑑賞を趣味としていたのだが、びっしりと張りつめた優雅に波打つ苔の上に真っ赤にちりばめられた落ち椿を見て、何度か感激したことがあるのだが、椿は咲き誇った姿だけが美しいのではないと、気付いたのもこの時であった。
尤も、椿に入れ込み始めたのは、まだ、20年足らずで、一番最初に庭植えした椿は、ピンクの八重で、ポンポンダリアのように形の乙女で、30年近く経つが、長い間、私の庭に咲く唯一の椿であった。
したがって、この20年弱の間に、小さな庭に30種類近くの椿を植えてしまって、鉢の椿を入れると、祐に60種類くらいの椿の花が、私の庭にあることになる。
椿は、早ければ、9月頃から咲く椿もあり、秋から冬にかけて、そして、厳寒の真冬から春にかけても咲き続けて、四月頃に一気に百花繚乱となる。
正に、漢字の字の通り、春の木、春の花木である。
崑崙黒など、やっと、蕾の先が、花色に変ってきたように、遅れて咲く花もあるが、もう、殆どの椿は、最盛期を迎えて光り輝いている。
とにかく、一日見ないうちに急速に、あっちこっちで椿が開花しているので、ビックリする。
一寸、気がかりなのは、玉の浦の深紅の白覆輪が、何故か、今年は、殆ど白が消えてしまって、普通の藪椿風になって咲いていることである。
里帰り椿のタマ・グリッターズも、同じように白い覆輪が、心なしか消えて咲いているのだが、この白覆輪が、玉のタマたる所以であるから、少しさびしい。
もう少し拘ると、白い縁取りだが、これが深くても浅くても駄目で、微妙な覆輪具合が命とも言うべきで、装う艶やかさと風情が大きく違って来る。
椿は、庭植えにすると、かなり大きくなるまでは、花も疎らであったり、咲かないこともあるが、2メートルくらいになると、沢山花をつけて見事である。
この小磯なども、そうだが、木が大きくなると、花期が長くなって、かなり長い間、入れ代わり立ち代わり花が咲き続ける。
勿論、すべての椿がそうだと言う訳ではなく、私の庭では、紅妙蓮寺などは、随分、長い間咲き続けている。
孔雀椿も今最盛期で、黒いブラックオパールも咲き始めた。
羽衣もいま盛りで、特に、白羽衣の優雅さは格別である。
小さな花の椿は、匂い椿が多いのだが、歪な花形に特徴のあるピンクの港の曙などは、びっしりと花をつけるので、ヒヨドリやメジロが絶えず訪れて来ては、花弁をつついている。
さて、私の住んでいる千葉の郊外の住宅街では、どちらかと言えば、庭先などに春の草花を植えたり、鉢花やプランターを並べている家が多く、パンジーやスミレ類、水仙、チューリップ、桜草系統の洋花など、綺麗に整えられたカラフルな花が咲き乱れている。
私も、昔は、春の草花を鉢植えにして、門先や階段などに置いていたのだが、これは手入れが大変で、横着になってからは、椿やバラ、紅葉と言った形で、殆ど花木に変えてしまった。
これだと、草花のプランターや鉢植えなど違って、かなり手入れが楽なのである。
草花は、もっぱら、庭の花壇への直植えで、それも植えっぱなしにしており、季節毎に、思いついては、追加で、空いたところに球根を地面に押し込んでいると言った調子である。
ところが、スノードロップの中からチューリップが飛び出したり、水仙の陰からムスカリが顔を覗かせたり、とにかく、無茶苦茶だが、この無秩序とも言うべき草花花壇でも、見方によっては、イングリッシュ・ガーデンの雰囲気が出て来て、それなりに見られるのであるから不思議である。
街路樹は、こぶしと桜の花盛りで、下草は、水仙の群落であったり、放射線状に咲き乱れる真っ白な雪柳であったり、春は、無粋な自動車道もカラフルになって面白い。
田舎の春は、正に、花盛りである。
小磯は、やや小輪の一重筒咲きの清楚な凛とした花で、深い深紅の優雅な佇まいは非常に魅力的である。
ただ問題は、潔いと言うか、すぐに花弁が落ちることで、この写真のように、元気な最盛期に散るので、落ち椿が、それなりに鑑賞に堪えるのである。
加茂本阿弥や曙のように、蕾が大きくて品があれば、咲く寸前の花を茶花として生けて楽しめるのだが、小磯の場合には、蕾が小さくてふくよかではないので、茶花には向かない。
正に、咲いている時の素晴らしい花姿を鑑賞すべきであるが、沢山花をつけると、木陰を真っ赤に染める落ち椿の風情も、中々捨てたものではない。
庭植えして、もう、10年以上にもなるが、まだ、2メートル少しの背丈だが、隣に植えててあるピンクの八重の抱え咲き大輪の花富貴とは良い対照で、同じ椿と言っても、これ程差があるのかと思えて面白い。
私は、学生の頃に、古社寺を散策しながら京都の庭園や建築、仏像などの鑑賞を趣味としていたのだが、びっしりと張りつめた優雅に波打つ苔の上に真っ赤にちりばめられた落ち椿を見て、何度か感激したことがあるのだが、椿は咲き誇った姿だけが美しいのではないと、気付いたのもこの時であった。
尤も、椿に入れ込み始めたのは、まだ、20年足らずで、一番最初に庭植えした椿は、ピンクの八重で、ポンポンダリアのように形の乙女で、30年近く経つが、長い間、私の庭に咲く唯一の椿であった。
したがって、この20年弱の間に、小さな庭に30種類近くの椿を植えてしまって、鉢の椿を入れると、祐に60種類くらいの椿の花が、私の庭にあることになる。
椿は、早ければ、9月頃から咲く椿もあり、秋から冬にかけて、そして、厳寒の真冬から春にかけても咲き続けて、四月頃に一気に百花繚乱となる。
正に、漢字の字の通り、春の木、春の花木である。
崑崙黒など、やっと、蕾の先が、花色に変ってきたように、遅れて咲く花もあるが、もう、殆どの椿は、最盛期を迎えて光り輝いている。
とにかく、一日見ないうちに急速に、あっちこっちで椿が開花しているので、ビックリする。
一寸、気がかりなのは、玉の浦の深紅の白覆輪が、何故か、今年は、殆ど白が消えてしまって、普通の藪椿風になって咲いていることである。
里帰り椿のタマ・グリッターズも、同じように白い覆輪が、心なしか消えて咲いているのだが、この白覆輪が、玉のタマたる所以であるから、少しさびしい。
もう少し拘ると、白い縁取りだが、これが深くても浅くても駄目で、微妙な覆輪具合が命とも言うべきで、装う艶やかさと風情が大きく違って来る。
椿は、庭植えにすると、かなり大きくなるまでは、花も疎らであったり、咲かないこともあるが、2メートルくらいになると、沢山花をつけて見事である。
この小磯なども、そうだが、木が大きくなると、花期が長くなって、かなり長い間、入れ代わり立ち代わり花が咲き続ける。
勿論、すべての椿がそうだと言う訳ではなく、私の庭では、紅妙蓮寺などは、随分、長い間咲き続けている。
孔雀椿も今最盛期で、黒いブラックオパールも咲き始めた。
羽衣もいま盛りで、特に、白羽衣の優雅さは格別である。
小さな花の椿は、匂い椿が多いのだが、歪な花形に特徴のあるピンクの港の曙などは、びっしりと花をつけるので、ヒヨドリやメジロが絶えず訪れて来ては、花弁をつついている。
さて、私の住んでいる千葉の郊外の住宅街では、どちらかと言えば、庭先などに春の草花を植えたり、鉢花やプランターを並べている家が多く、パンジーやスミレ類、水仙、チューリップ、桜草系統の洋花など、綺麗に整えられたカラフルな花が咲き乱れている。
私も、昔は、春の草花を鉢植えにして、門先や階段などに置いていたのだが、これは手入れが大変で、横着になってからは、椿やバラ、紅葉と言った形で、殆ど花木に変えてしまった。
これだと、草花のプランターや鉢植えなど違って、かなり手入れが楽なのである。
草花は、もっぱら、庭の花壇への直植えで、それも植えっぱなしにしており、季節毎に、思いついては、追加で、空いたところに球根を地面に押し込んでいると言った調子である。
ところが、スノードロップの中からチューリップが飛び出したり、水仙の陰からムスカリが顔を覗かせたり、とにかく、無茶苦茶だが、この無秩序とも言うべき草花花壇でも、見方によっては、イングリッシュ・ガーデンの雰囲気が出て来て、それなりに見られるのであるから不思議である。
街路樹は、こぶしと桜の花盛りで、下草は、水仙の群落であったり、放射線状に咲き乱れる真っ白な雪柳であったり、春は、無粋な自動車道もカラフルになって面白い。
田舎の春は、正に、花盛りである。