熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

中村邦夫著「これからのリーダーに知っておいてほしいこと」

2012年02月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、「創業者と同行二人」の思いで、破壊と創造の経営改革を実践した経営者がはじめて語り明かすリーダー論!と、帯に書かれたパナソニック中村邦夫会長の経営論である。
   中村会長のインタビューを中心に、松下幸之助の著作と哲学思想を絡ませて進めているので、非常に興味深いのだが、口絵写真で示したように、5年前に出版されたフランシス・マキナニー著「松下ウェイ」の中に、瀕死の状態であった松下電器を起死回生に導いた中村改革の実像が良く分かり、参考になる。

   「松下ウェイ」については、このブログで3回に亘って記事を書いたし、他にも、松下経営については書いたので、所々引用するが、
   危機前の松下電器は、”復興と高度成長のかっての経済社会環境では、松下幸之助が築き上げたシステムと会社体制で十分に機能していたのだが、松下が古い残滓を背負ったまま事業を行っていた間に、世界は急速にIT革命の進行に伴うデジタル化とグローバル化の進行によって様変わりを遂げてしまって、完全に時代の波に乗れずに取り残されてしまった。
   20世紀末には、創業者・松下幸之助が築いたシステムは破綻しており、松下そのものが経営危機に直面して幸之助経営の継承は不可能となっていたにも拘わらず、歴代の経営者たちは、不世出のイノベーターであり経営者であった松下幸之助の卓越した経営哲学と信条を、アップツーデイトにリッシャフル出来ずに惰眠を貪り続けてきた結果、経営管理体制は惨憺たる状態であった。”と言うことだが、このことについては、控え目ながら中村会長が、このままでは潰れると言う表現で語っている。

   これが中村会長の危機意識を刺激した。
   中村改革は、見方によっては、松下幸之助が軌道を敷いた幸之助経営学と経営路線を否定し根本的に変えてしまったと思えなくはないが、幸之助路線の継承であり、幸之助経営学の実践であると言う。
   中村会長は、松下危機を回避し再生するに際して、幸之助の「正しい経営理念を持つと同時に、それに基づく具体的な方針・方策はその時に相応しい日に新たなものでなくてはならない」と言う言葉に勇気付けられ、現実に経営を取り巻いている経済社会を真正面から見据えて、幸之助が生涯を通じて追求した哲学・行動を読み解き、幸之助なら決断から逃げなかった筈で、実際、ほぼ似たような決断を下したであろうと言う確信を得て改革を進めたという。

   幸之助は膨大な量の経営哲学に関する文献を残して逝ったのだが、実際には人生訓に近い人の生きる道を説いた思想なり世界観であったから、幸之助の信条や経営哲学は、言うならば如何ようにも解釈できるのであって、私は、中村会長の「破壊と創造」は、幸之助およびその後継者たちが築き上げた松下電器の経営方針およびシステムの破壊であり、新しい松下グループへの改革であったと思っている。
   キャッシュフロー経営やセル生産方式など、キヤノンの御手洗会長に薫陶を受けたと言うが、マキナリーなりドラッカーなどの米国型経営手法の積極的導入であろうが、それにしても、デジタル革命の影響を最も受けている筈の電気機器メーカーの松下が、社長自らeメール通信を普及させたり、IT対応の遅れが目立ったのが驚きであったが、とにかく、近代経営の体をなしていなかったのである。

   経営とはイノベーションだと説くドラッカーを引用して、中村会長はイノベーションの重要性を説いているが、中村改革は、「まねした電器」から決別して、「V製品戦略とユニーバーサルデザインの追及」への独自製品の開発を目指して、新境地を開いたのだが、何故か、中村会長が、例として挙げたのは、ノンフロン冷蔵庫とななめドラム乾燥機程度で、いまだに、競合他社と似たり寄ったりのコモディティ紛いの製品ばかりを作って、差別化出来ずにコスト競争に明け暮れている。
   悲惨なのは、「プラズマはわれわれの顔だ」と大見得を切ったプラズマ・テレビの惨状で、投資額2100億円もの巨大工場「尼崎第3工場」を、10年1月に稼働しながら、結果的に約1年半で生産停止を決めたことだが、既に、液晶テレビに主導権が移っていたにも拘わらず、そして、コモディティ化の極であったテレビで、韓台中企業の追い上げの足音を聞いていたら完全に避け得た選択で、潮流を読む経営感覚なり経営戦略の不在を露呈している。
   オープン・ビジネス、オープン・イノベーションの時代に、技術のブラック・ボックス化を後生大事に進めているのも解せないが、蛇足だから止める。

   私は、パナソニックは、骨の髄まで染みついた「まねした電器」戦略、「うちには、東京にソニーと言う研究所がありましてな。ソニーさんが何か新しいものを作って、これエエなあと思ったら、それから作ったらエエのや。」と言うあの幸之助の戦略・戦術が災いしているように思って仕方がない。
   これは、北康利著「同行二人 松下幸之助と歩む旅」で得た知識だが、井植兄弟が松下から独立して三洋電機を立ち上げて、イギリス式の噴流式洗濯機で、松下を凌駕した時に、幸之助は頭にきて井植薫を呼んで「電気洗濯機を普及させたのは誰やと思てんねん」と怒ったところ、井植薫は、松下は先発メーカーと攪拌式電気洗濯機を普及させたのは事実だが、噴流式を普及させたのは三洋で、それを皆がまねしたまでだと切り替えしたと言う。幸之助は、この時点で、イノベーションとは何か、経営戦略として如何に大切かが分かっていなかったとしか思えない。

   もう一つは、後発の松下が、先進技術を導入する為に、一方的な片務契約で膨大な金を払ったフィリップスとの提携契約で、幸之助の苦衷の決断の背中を押したのは、「あのフィリップスの研究所をつくるのには何十億円もかかるやないか。2億円でフィリップスと言う大会社を「番頭」に雇ったと思ったらええんや。」と言う考え方で、真空管、ブラウン管、蛍光灯とフィリップの技術を駆使して松下の快進撃が始まったのだが、この時の成功体験が、ソニー研究所説の淵源となり、膨大な開発費と市場開拓費をショートカットして経費を浮かして、新製品の市場が成熟した段階で一挙に市場に出てマーケットシェアを奪うまねした電器戦術の導入となった、と言う気がして仕方がない。
   勉強不足で、知らないのは私だけかもしれないが、パナソニックには、ソニーやアップルのように、一世を風靡したブルー・オーシャン市場を開拓した破壊的イノベーションの製品やサービスが、一つとして生まれなかったのではないかと思っている。

   もう一つ気になったのは、中村会長が、パナソニックのDNAは、ものづくりだと言っていたが、製造会社であったIBMが、ソフトに大変身して大成功を収めているし、アップルなどは、ファブレスの最たるメーカーであるし、この価値創造のクリエイティブ時代に、いつまでも、スマイルカーブの底辺の電気機器メーカーを通し続けるのか、ICT革命後の新時代へ打って出る明確な経営戦略ビジョンが見えないことである。

   ところで、最近、東洋経済に、『パナソニック・中村邦夫という聖域、プラズマ敗戦の「必然」』と言う記事で、天皇”、そして“雲上人”と呼ばれる中村会長への批判記事が出ていた。
   そんなことを気にせずに、この本をじっくり読んで、中村会長が、何をどう考えて苦境に立った大企業を蘇生させるべく悪戦苦闘してきたか、そして、読者に何を伝え何を訴えたかったのかを考えてみることは、非常に意義深いことだと思っている。
   日本の超有名企業が呻吟する姿に思いを馳せて、必死になって復興を目指した経営者の述懐に耳を傾ければ、日本の失われた20年の実像が、垣間見えて来る筈である。
   
コメント
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