再放送のようだが、見過ごしたので、今夜、BSで放映された標記番組を見て、久しぶりに、ブラジルの風景を見て懐かしくなった。
私は、4年以上もブラジルのサンパウロに住んでいたのだが、それも、もう、40年近く前の、かってのブラジルの奇跡と言われた大ブラジル・ブームの時である。
しかし、真っ赤な鳥居や大阪橋のあるガルボン・ブエノ街の雰囲気などは、殆ど当時そのままで、当時あった宝石店や土産物店も健在のようだし、今では、QBハウスに駆逐されて全く町から消えてしまった昔懐かしい散髪屋も、昔の姿で残っていた。
尤も、この日本人街と言われていたガルボン・ブエノも、今では、日本人の影が薄くなって、東洋人街になってしまったと、日本に来ているブラジル日系人の知人が言っていた。
桂三枝は、”自らの笑い”をもう一度見直そうとブラジルへと向かったと言う。
サンパウロには数多くの日系人が暮らし、かつての日本同様のコミュニティーがあり、それは、まさに三枝が育った大阪市大正区と同じ。そこを旅することで“自らの笑い”の原点を探ろうと言うのである。
確かに、ガルボン・ブエノの土産物店に、招き猫の人形が飾ってあったように、私の居た頃にも、古い日本が、そのまま、化石のようにフリーズして、ブラジルの日系人の家庭にあったのを覚えている。
勿論、天皇皇后両陛下の御影写真が飾られている家もあった。
昨秋、女子大学の国際コミュニケーション学部で、ブラジル学について、3回講義をすることとなったので、丁度、1年前からBRIC’sの大国ブラジルの視点を皮切りに、ブラジル全般について、改めて勉強し直したのであるが、ブラジルについての日本語の良書は、極めて少ないことに気付いた。
BRIC’sの大国と騒がれ、オリンピックやサッカー・ワールド・カップの開催が予定されていて、正に、脚光を浴びているブラジルの筈なのだが、日本人の関心はかなり薄くて、一般の人も、ブラジルについては、アマゾンやコーヒー、今盛りのリオのカーニバル、サッカーなどと言った断片的な知識しか持っていない。
結局、私のブラジル学の勉強の大半は、英語で書かれた専門書やメディアや政府関連の資料に頼らなければならなかったのだが、講義の資料をも兼ねて、ニューヨーク・タイムズの記者ラリー・ローターの著書「BRAZIL ON THE RISE」を種本にして、このブログで「BRIC’sの大国:ブラジル」と言うカテゴリーで、20数編記事を書いて残した。
大学の講義では、大航海時代以前のポルトガルから説き起して、ラテン国家のモノ・カルチュア経済から、レアル・プラン成功による超インフレ克服、そして、今日の工業農業食料大国としての超大国への道へのブラジルの軌跡を軸に、サンバやカーニバル、アミーゴ社会等々、自分自身、結構楽しみながら、ブラジルの魅力を語って来た。
私は、ブラジルと言ったラテン系の国よりも、欧米での在住の方が長くて、米国製MBAでもあり、どちらかと言えば、アングロ・サクソン文化の方に傾斜しているのだが、全く対照的な、両極端の文化や政治経済を、浮き彫りにしながら俯瞰できるのも、幸せかも知れないと思っている。
尤も、講義の重要な課題の一つは、日本人のブラジル移民とブラジルの日系社会、そして、日伯間の切っても切れない重要な経済関係など、正に、日本のブラジルとの関係である。
その準備を兼ねて、私は、NHKで放映された橋田壽賀子の「ハルとナツ 届かなかった手紙」を録画してあったので、見始めたのであるが、不覚にも、最後まで5回あるのだが、あまりにも、胸が詰まって、とうとう、2回目の途中で、その先が見られなくなってしまった。
今回、桂三枝の番組で、50年の風雪に耐えて成功した迫田農園の人々の大家族の今日を放映していたが、未来を信じて新天地を求めて雄飛した13万人の日本人たちが、如何に、過酷な試練と闘って生き抜いて来たか、随分、色々な人から話を聞いて来たが、筆舌に尽くし難い苦難の連続の筈だったのである。
しかし、それ故に、日本に対する望郷の念は冷めやらず、そのような多くの日系ブラジル人が居たからこそ、桂三枝が感じたような、どこか、昔の大阪の下町にあったような、懐かしくて暖かい、どこか、タイムスリップしたような古き良き日本の温もり・雰囲気が、ブラジルには残っているのである。
ところで、桂三枝の「ブラジルは夢の中」と言う新作落語を、是非、聴いてみたいと思っている。
私は、4年以上もブラジルのサンパウロに住んでいたのだが、それも、もう、40年近く前の、かってのブラジルの奇跡と言われた大ブラジル・ブームの時である。
しかし、真っ赤な鳥居や大阪橋のあるガルボン・ブエノ街の雰囲気などは、殆ど当時そのままで、当時あった宝石店や土産物店も健在のようだし、今では、QBハウスに駆逐されて全く町から消えてしまった昔懐かしい散髪屋も、昔の姿で残っていた。
尤も、この日本人街と言われていたガルボン・ブエノも、今では、日本人の影が薄くなって、東洋人街になってしまったと、日本に来ているブラジル日系人の知人が言っていた。
桂三枝は、”自らの笑い”をもう一度見直そうとブラジルへと向かったと言う。
サンパウロには数多くの日系人が暮らし、かつての日本同様のコミュニティーがあり、それは、まさに三枝が育った大阪市大正区と同じ。そこを旅することで“自らの笑い”の原点を探ろうと言うのである。
確かに、ガルボン・ブエノの土産物店に、招き猫の人形が飾ってあったように、私の居た頃にも、古い日本が、そのまま、化石のようにフリーズして、ブラジルの日系人の家庭にあったのを覚えている。
勿論、天皇皇后両陛下の御影写真が飾られている家もあった。
昨秋、女子大学の国際コミュニケーション学部で、ブラジル学について、3回講義をすることとなったので、丁度、1年前からBRIC’sの大国ブラジルの視点を皮切りに、ブラジル全般について、改めて勉強し直したのであるが、ブラジルについての日本語の良書は、極めて少ないことに気付いた。
BRIC’sの大国と騒がれ、オリンピックやサッカー・ワールド・カップの開催が予定されていて、正に、脚光を浴びているブラジルの筈なのだが、日本人の関心はかなり薄くて、一般の人も、ブラジルについては、アマゾンやコーヒー、今盛りのリオのカーニバル、サッカーなどと言った断片的な知識しか持っていない。
結局、私のブラジル学の勉強の大半は、英語で書かれた専門書やメディアや政府関連の資料に頼らなければならなかったのだが、講義の資料をも兼ねて、ニューヨーク・タイムズの記者ラリー・ローターの著書「BRAZIL ON THE RISE」を種本にして、このブログで「BRIC’sの大国:ブラジル」と言うカテゴリーで、20数編記事を書いて残した。
大学の講義では、大航海時代以前のポルトガルから説き起して、ラテン国家のモノ・カルチュア経済から、レアル・プラン成功による超インフレ克服、そして、今日の工業農業食料大国としての超大国への道へのブラジルの軌跡を軸に、サンバやカーニバル、アミーゴ社会等々、自分自身、結構楽しみながら、ブラジルの魅力を語って来た。
私は、ブラジルと言ったラテン系の国よりも、欧米での在住の方が長くて、米国製MBAでもあり、どちらかと言えば、アングロ・サクソン文化の方に傾斜しているのだが、全く対照的な、両極端の文化や政治経済を、浮き彫りにしながら俯瞰できるのも、幸せかも知れないと思っている。
尤も、講義の重要な課題の一つは、日本人のブラジル移民とブラジルの日系社会、そして、日伯間の切っても切れない重要な経済関係など、正に、日本のブラジルとの関係である。
その準備を兼ねて、私は、NHKで放映された橋田壽賀子の「ハルとナツ 届かなかった手紙」を録画してあったので、見始めたのであるが、不覚にも、最後まで5回あるのだが、あまりにも、胸が詰まって、とうとう、2回目の途中で、その先が見られなくなってしまった。
今回、桂三枝の番組で、50年の風雪に耐えて成功した迫田農園の人々の大家族の今日を放映していたが、未来を信じて新天地を求めて雄飛した13万人の日本人たちが、如何に、過酷な試練と闘って生き抜いて来たか、随分、色々な人から話を聞いて来たが、筆舌に尽くし難い苦難の連続の筈だったのである。
しかし、それ故に、日本に対する望郷の念は冷めやらず、そのような多くの日系ブラジル人が居たからこそ、桂三枝が感じたような、どこか、昔の大阪の下町にあったような、懐かしくて暖かい、どこか、タイムスリップしたような古き良き日本の温もり・雰囲気が、ブラジルには残っているのである。
ところで、桂三枝の「ブラジルは夢の中」と言う新作落語を、是非、聴いてみたいと思っている。