萬斎と逸平と言う東西の人気絶頂の狂言師のトークで始まる楽しい狂言の会が、新宿で開かれた。
会場は、多目的文化ホールなので、簡単に設えられた仮設能舞台だが、バックのスクリーンで雰囲気を盛り上げる等工夫がされていたが、若い女性ファンが詰めかけていて、華やいでいた。
西の茂山千五郎家の「千鳥」、野村万作の「鬼瓦」、最後は、萬斎の「弓矢太郎」と言う曲そろえで、非常に密度の高い興味深い舞台を見せてくれた。
冒頭、逸平が「千鳥」の、萬斎が「弓矢太郎」の解説を行っていたが、面白かったのは、大蔵流と和泉流、それに、京都と江戸と言うルーツの違いによる狂言の差異で、千鳥の舞を、謡が殆ど同じなので、二人で謡いながら、同時に舞っていたのだが、非常に違っていたし、夫々、他にも違いがあって、話術の達者な二人のユーモアあふれるトークを楽しませて貰った。
最初の「千鳥」は、いかにも、上方の話と言うか、私の子供の頃は普通の商習慣で、今でも、関西には多少は残っているようだが、ツケの話で、主人(逸平)の命令で、太郎冠者(千五郎)が、ツケがたまっている酒屋(正邦)に、一銭も持たずに出かけて、話好きの酒屋に津島祭の話にかこつけて、酒樽をマンマとせしめて帰ると言う話である。
当然、狂言は、逸平がトークで突っ込まないでくれと言っていたように、物語に仕立ててあるので、話の筋には無理があるのだが、取ってつけた様なウイットに富んだ挿話が面白い。
主人が理屈をこねてしぶる太郎冠者を酒屋に行かせるのもそうだが、目の前に出された酒樽(口絵の櫃)を、浜辺で千鳥を捕える真似をして持って帰ろうとしたり、山鉾を引き回す仕種で持ち去ろうとするのだが、酒屋に抵抗され、最後に、流鏑馬の話をして、馬に乗る真似をしながら走り回り隙を見て酒樽を持って逃げると言う話なのだが、いかにも世間離れしたおう様な駆け引きが面白く、それに、長年で磨き上げられた津島祭を引き合いに出した芸の豊かさなども、この千鳥を名曲としている要因であろうか。
狂言歌謡「宇治の晒」の一節「浜千鳥の友呼ぶ声は、ちりちりやちりちり、ちりちりやちりちりと、友呼ぶところに島陰よりも・・・」の、ちりちりやちりちりを取って太郎冠者が千鳥を真似て踊り出すところから面白いのだが、とにかく、愛知の津島だと言う津島祭がどんな祭か知らないが、建前上は、無い知恵を絞って必死になって酒樽を持ち帰ろうとする太郎冠者の涙ぐましい努力を多とすべきであろうか。
とにかく、千五郎の微に入り細をうがった熱演が素晴らしく、長男の正邦が、それを対等に受けて、それに、飄々とした逸平の何とも言えないおかしみが楽しかった。
次の人間国宝万作が大名を演じ、深田博治が太郎冠者を演じる「鬼瓦」は、非常に短いが、因幡堂の鬼瓦が国元の妻に似ていると言って泣くと言う人情味あふれる曲である。
訴訟が終わって国元へ帰る事になった大名が、信仰している五条の因幡堂を国元へ勧進しようと思い、因幡堂へ検分を兼ねてお礼参りに来る。お堂の様子を見ていると、屋根の上の鬼瓦に目が行き、目元や口元が国元に残してきた妻に生き写しだと感じて早く帰りたいと大泣きして故郷を懐かしむと言う話である。
訴訟も一段落して国へ帰れる開放感も手伝って、国に建てる因幡堂の参考に、細部までしっかりと見ておけと太郎冠者に指図して御堂を念入りに見ていた大名が、急に、屋根の上に黒いものがあると言って見あげたのが鬼瓦。
私は、万作の至芸を見たくて、双眼鏡でじっと万作の顔を凝視していたが、今まで、陽気に楽しみながらお堂を見ていた大名が、鬼瓦を見て、びっくりしたような表情で真顔になってから、オイオイ大泣きするまで、そして、太郎冠者にもうすぐに会えると言われてから、気を取り直して平常心に戻るまでの顔の表情の微妙な変化と心の揺れを間近に感じて感激した。
しばらく見ない妻が恋しいと言う直な思いと、妻が象徴して沸き起こる故郷の総てへの懐かしさ愛しさが、一気に脳裏を去来して、胸にどっと込み上げてくる万感の思いを、この瞬時の表情に凝縮するのが如何に難しいか、これこそ、人間国宝の人間国宝たる所以だと思って見ていた。
もう一つ感じたのは、一昨日、観世銕之丞のところで書いた能における能面の重要さとの関連だが、能は、瞬間的に昇華し凝結した一切姿形を変えない木の面をつけて、(或いは、直面でも表情を現さずに、)喜怒哀楽等一切の人間の表情を演者が表現しなければならないのだが、劇的要素の強い狂言は、その喜怒哀楽等総てを、役者である狂言師が、自分自身の表情と演技で演じなければならないと言う大きな表現の違いである。
このことは、木偶である人形が遣われる文楽と歌舞伎にも言えることで、パーフォーマンス・アートとしての劇を演じる役者に課された宿命と言うことであろうか。
極端に言えば、同じ題材を扱った作品が、能にも狂言にも文楽にも歌舞伎にもある(?)と思うのだが、そう思って見ると、日本の古典藝術の奥深さが分かって来るのではないかと思っている。
最後の「弓矢太郎」は、正に、萬斎の独壇場の舞台で、萬斎の芸の良さ面白さが凝縮したような感じの狂言だと思った。
臆病のくせに、何時も弓矢を持ち歩いて、猪でも狐でも何でも射てやると大見得を切っている太郎(萬斎)を、脅かして懲らしめてやろうと思って、当屋(石田幸雄)や立衆たちが、恐ろしい妖狐の話をしたり天神の森に鬼が出ると言う話をして太郎に目を回させる。しかし、それでも、強がるので、太郎に、肝試しに天神の森の老松に扇をかけさせることにする。
用心のため太郎は、鬼の面をつけて出かけ、偵察に来た当屋も鬼の面をつけてきたので出くわした二人は、仰天して気絶する。帰りを心配してやってきた立衆たちが、当屋を助け起こして、当屋が鬼が出た話をしたので、先に気絶から蘇った太郎が隠れて聞いていて、再び、面をつけて当屋や立衆を追い散らすと言う話。
要するに、強がる太郎も弱虫なら、皆も同じ弱虫で、大同小異だと言う話なのだが、怖い話を聞いて気絶した太郎が、まだ、性懲りもなく腕自慢をすると言う話にしろ、最後に、鬼が出る話を、当屋たちが本気にし出したのを知って、わが意を得たりと悪戯小僧のようにほくそ笑んで、鬼の面を被って出てびっくりさせるなどと言うのは、やはり、萬斎は実に上手いし、現代に通じるコミカル感やスピード感があって面白かった。
気になったのは、面をつけた萬斎のくぐもった発声だが、この点では、能役者は一枚も二枚も上手で、このあたりは、やはり、狂言は能の足元にも及ばないと言うことであろうか。
(追記)口絵写真は、茂山千五郎家otofukyougenのページから借用。
会場は、多目的文化ホールなので、簡単に設えられた仮設能舞台だが、バックのスクリーンで雰囲気を盛り上げる等工夫がされていたが、若い女性ファンが詰めかけていて、華やいでいた。
西の茂山千五郎家の「千鳥」、野村万作の「鬼瓦」、最後は、萬斎の「弓矢太郎」と言う曲そろえで、非常に密度の高い興味深い舞台を見せてくれた。
冒頭、逸平が「千鳥」の、萬斎が「弓矢太郎」の解説を行っていたが、面白かったのは、大蔵流と和泉流、それに、京都と江戸と言うルーツの違いによる狂言の差異で、千鳥の舞を、謡が殆ど同じなので、二人で謡いながら、同時に舞っていたのだが、非常に違っていたし、夫々、他にも違いがあって、話術の達者な二人のユーモアあふれるトークを楽しませて貰った。
最初の「千鳥」は、いかにも、上方の話と言うか、私の子供の頃は普通の商習慣で、今でも、関西には多少は残っているようだが、ツケの話で、主人(逸平)の命令で、太郎冠者(千五郎)が、ツケがたまっている酒屋(正邦)に、一銭も持たずに出かけて、話好きの酒屋に津島祭の話にかこつけて、酒樽をマンマとせしめて帰ると言う話である。
当然、狂言は、逸平がトークで突っ込まないでくれと言っていたように、物語に仕立ててあるので、話の筋には無理があるのだが、取ってつけた様なウイットに富んだ挿話が面白い。
主人が理屈をこねてしぶる太郎冠者を酒屋に行かせるのもそうだが、目の前に出された酒樽(口絵の櫃)を、浜辺で千鳥を捕える真似をして持って帰ろうとしたり、山鉾を引き回す仕種で持ち去ろうとするのだが、酒屋に抵抗され、最後に、流鏑馬の話をして、馬に乗る真似をしながら走り回り隙を見て酒樽を持って逃げると言う話なのだが、いかにも世間離れしたおう様な駆け引きが面白く、それに、長年で磨き上げられた津島祭を引き合いに出した芸の豊かさなども、この千鳥を名曲としている要因であろうか。
狂言歌謡「宇治の晒」の一節「浜千鳥の友呼ぶ声は、ちりちりやちりちり、ちりちりやちりちりと、友呼ぶところに島陰よりも・・・」の、ちりちりやちりちりを取って太郎冠者が千鳥を真似て踊り出すところから面白いのだが、とにかく、愛知の津島だと言う津島祭がどんな祭か知らないが、建前上は、無い知恵を絞って必死になって酒樽を持ち帰ろうとする太郎冠者の涙ぐましい努力を多とすべきであろうか。
とにかく、千五郎の微に入り細をうがった熱演が素晴らしく、長男の正邦が、それを対等に受けて、それに、飄々とした逸平の何とも言えないおかしみが楽しかった。
次の人間国宝万作が大名を演じ、深田博治が太郎冠者を演じる「鬼瓦」は、非常に短いが、因幡堂の鬼瓦が国元の妻に似ていると言って泣くと言う人情味あふれる曲である。
訴訟が終わって国元へ帰る事になった大名が、信仰している五条の因幡堂を国元へ勧進しようと思い、因幡堂へ検分を兼ねてお礼参りに来る。お堂の様子を見ていると、屋根の上の鬼瓦に目が行き、目元や口元が国元に残してきた妻に生き写しだと感じて早く帰りたいと大泣きして故郷を懐かしむと言う話である。
訴訟も一段落して国へ帰れる開放感も手伝って、国に建てる因幡堂の参考に、細部までしっかりと見ておけと太郎冠者に指図して御堂を念入りに見ていた大名が、急に、屋根の上に黒いものがあると言って見あげたのが鬼瓦。
私は、万作の至芸を見たくて、双眼鏡でじっと万作の顔を凝視していたが、今まで、陽気に楽しみながらお堂を見ていた大名が、鬼瓦を見て、びっくりしたような表情で真顔になってから、オイオイ大泣きするまで、そして、太郎冠者にもうすぐに会えると言われてから、気を取り直して平常心に戻るまでの顔の表情の微妙な変化と心の揺れを間近に感じて感激した。
しばらく見ない妻が恋しいと言う直な思いと、妻が象徴して沸き起こる故郷の総てへの懐かしさ愛しさが、一気に脳裏を去来して、胸にどっと込み上げてくる万感の思いを、この瞬時の表情に凝縮するのが如何に難しいか、これこそ、人間国宝の人間国宝たる所以だと思って見ていた。
もう一つ感じたのは、一昨日、観世銕之丞のところで書いた能における能面の重要さとの関連だが、能は、瞬間的に昇華し凝結した一切姿形を変えない木の面をつけて、(或いは、直面でも表情を現さずに、)喜怒哀楽等一切の人間の表情を演者が表現しなければならないのだが、劇的要素の強い狂言は、その喜怒哀楽等総てを、役者である狂言師が、自分自身の表情と演技で演じなければならないと言う大きな表現の違いである。
このことは、木偶である人形が遣われる文楽と歌舞伎にも言えることで、パーフォーマンス・アートとしての劇を演じる役者に課された宿命と言うことであろうか。
極端に言えば、同じ題材を扱った作品が、能にも狂言にも文楽にも歌舞伎にもある(?)と思うのだが、そう思って見ると、日本の古典藝術の奥深さが分かって来るのではないかと思っている。
最後の「弓矢太郎」は、正に、萬斎の独壇場の舞台で、萬斎の芸の良さ面白さが凝縮したような感じの狂言だと思った。
臆病のくせに、何時も弓矢を持ち歩いて、猪でも狐でも何でも射てやると大見得を切っている太郎(萬斎)を、脅かして懲らしめてやろうと思って、当屋(石田幸雄)や立衆たちが、恐ろしい妖狐の話をしたり天神の森に鬼が出ると言う話をして太郎に目を回させる。しかし、それでも、強がるので、太郎に、肝試しに天神の森の老松に扇をかけさせることにする。
用心のため太郎は、鬼の面をつけて出かけ、偵察に来た当屋も鬼の面をつけてきたので出くわした二人は、仰天して気絶する。帰りを心配してやってきた立衆たちが、当屋を助け起こして、当屋が鬼が出た話をしたので、先に気絶から蘇った太郎が隠れて聞いていて、再び、面をつけて当屋や立衆を追い散らすと言う話。
要するに、強がる太郎も弱虫なら、皆も同じ弱虫で、大同小異だと言う話なのだが、怖い話を聞いて気絶した太郎が、まだ、性懲りもなく腕自慢をすると言う話にしろ、最後に、鬼が出る話を、当屋たちが本気にし出したのを知って、わが意を得たりと悪戯小僧のようにほくそ笑んで、鬼の面を被って出てびっくりさせるなどと言うのは、やはり、萬斎は実に上手いし、現代に通じるコミカル感やスピード感があって面白かった。
気になったのは、面をつけた萬斎のくぐもった発声だが、この点では、能役者は一枚も二枚も上手で、このあたりは、やはり、狂言は能の足元にも及ばないと言うことであろうか。
(追記)口絵写真は、茂山千五郎家otofukyougenのページから借用。