昨年5月に創設されたと言うケインズ学会の出版で、その前に開催されたケインズ学を通して世界や日本の経済の行く末や資本主義を展望したケインズ・パイロット・シンポジウムの記録を皮切りに、ケインズ学派と思しき経済学者たちが、ケインズをとらえる視座からケインズ論を展開していて、統一性はないが、多岐に亘ってのケインズ学(?)が非常に示唆に富んでいて面白い。
私が経済学部の学生であった頃は、恐らく、近代経済学ではケインズ経済学が最も幅を利かせていた頃ではないかと思うのだが、当時の京大は、マル経の勢力が強くて、ケインズ経済学を専門とした講座はなかった筈で、私自身は、「経済成長と景気循環」に興味を持って勉強していたので、ハーバード大教授のアルビン・H・ハンセンの「ケインズ経済学入門」「財政政策と景気循環」、サミュエルソンの「ECONOMICS」などから間接的に、ケインズにアプローチしたように思う。
クラインの「ケインズ革命」や、ジョーン・ロビンソンなどの本も読んだが、良く分からなかったし、ケインズの「一般理論」も読んでいないし、その後関連書籍を読んだにしても、偉そうにケインズ経済学はと言えるほど、まともに勉強したことがないので、今回のこの本は、改めて良い勉強になった。
尤も、逆に一寸ほっとしているのは、それ程、私自身のケインズ経済学の解釈は間違ってはいなかったなあと言う思いである。
アメリカのビジネス・スクールに居た頃は、丁度、ニクソン大統領の時で、アメリカの経済成長が減速してスタグフレーションに陥り、ブレトン・ウッズ体制が崩壊するなど、経済の大転換期で、ケインズ経済学が曲がり角に差し掛かった頃だと思うが、私は、当時出版されたガルブレイスの「 Economics and the Public Purpose 」を買って読んだ記憶はあるが、経営学を勉強していたので、経済学の動向には時間もなかったしあまり関心がなかった
当時のノーベル賞受賞者が、ポール・サミュエルソンやサイモン・クズネッツから、フリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンになり、オーストリア学派およびマネタリズムへ移って行ったところを見ると、新古典派価格理論と市場主義的自由主義経済学者へと勢力が移る転換期だったのかも知れない。
この本で書かれているところを見ても、資本主義は、70年代中葉から自由放任主義思想へ大きく舵を切り始め、90年代前後には社会主義体制の崩壊を迎えて、この動きが一層加速度を増して、政府による経済への介入は効率性を阻害し、経済に発展を妨げているから、規制を可能な限り撤廃するように構造を改革すべきだと言う市場原理主義思想が世界中に蔓延して、やみくもの自由化によって、一気に金融のグローバリゼーションに突っ走って、今回の世界経済危機を齎したと言うのである。
市場を神格化するあまり、あげくには「市場の不存在」「市場の不透明化」現象の著しい拡大を齎し、市場システム自体を混乱に陥れて、資本主義そのものを危機的な状態に追い込んでしまった今日こそ、正に、新しい資本主義観を再構築する必要に迫られている。
従って、資本主義社会の持つ病弊を鋭く指摘し、その改革を求めたケインズの資本主義観は、近年の対照的な資本主義観が齎した「歪な資本主義」を是正して行くうえで強力な導きの道標となる。今こそ、ケインズ経済学復権の時である。と言う訳である。
戦後は、ミクロ経済が新古典派の経済学、マクロ経済学がケインズ経済学と言う二刀流と言うことで、サミュエルソンの「新古典派総合」が一般的に受け入れられていたが、ケインズ経済学は間違っているとするミルトン・フリードマンを経て、ルーカスやプレスコットなどのシカゴ学派がリアル・ビジネス・サイクル論を展開し、マクロ経済学の新古典派的な理解が支配的となり、2006年、アメリカ経済学会の会長講演で、ルーカスが、景気循環問題は既に完全に解決されているし、そもそも大した問題ではないのだと述べるまでに至った。
ところが、その2年後にリーマン・ショックが勃発した。
過去30年くらいの間、マクロ経済学は非常に新古典派的に展開して来たのだが、クルーグマンが、このことを捉えて、過去30年間マクロ経済は、”spectacularly useless at best, and positively harmful at worst”と批判した。
経済界の動きとは独立して、リーマン・ショック後、中国を含めて世界全体で、ケインズ政策を取り、財政出動により、概ね先進国の落ち込みは緩和され、ケインズ理論は学会の動きとは独立して、世界のポリシー・メーカーによって支持されて来ている。
金融政策についても、戦後一貫してケインズ的なマネタリー・ポリシーの枠組みから大きく外れたと言うことはなく、新古典派的な考え方で政策運営されたことは、基本的になかった。と吉川洋教授は言う。
戦間期の混乱する世界経済にあって、大胆な経済理論・経済政策を提言し、世界システムの構築にも大胆な構想を打ち出し、既存の経済学や思想に果敢に挑戦したケインズ・スピリットが、果たして、混迷を極める世界経済の問題解決に、如何にブレイクスルー策を提供できるのか、伊藤光晴先生が、不況対策としてのケインズ政策の限界に言及しているのだが、この本でも各所で展開されているように、新自由主義、シュンペーターの発展理論などとの総合的なアプローチなど、現代資本主義にマッチした発展的なケインズ経済学の理論構築が求められるのであろうか。
余談だが、この本では、教えられることが多く、私など、ケインズよりもシュンペーター・ファンなので、塩野谷祐一教授の「ケインズとシュンペーター」論文などは、非常に面白かった。
私は、理解不足かもしれないが、ケインズ政策は、どうしても、需要拡大に主眼が行き、牛を水際まで連れて行くことは出来ても、必ずしも牛に水を飲ませられるとは限らないと言う限界があるので、水を飲ませられるような経済成長刺激策・牽引力、すなわち、経済発展を始動させるイノベーター的な役割を重視するシュンペーターの経済発展理論との融合・総合が必須ではないかと思っている。
一寸興味深いのは、菅首相の経済的ブレーンであったと言う小野善康教授の所謂「第3の道論」だが、当時は、良く分からなくて批判していたのだが、要するに、公共自治体は、眠っている金を税金で吸い上げてでも、実際の実需に向かうように雇用を増やしたり実物に対して支出して需要を拡大して資金を回すことだと言う理論は、経済政策の1実行手法として面白い。
ケインズ政策で実施する公共投資や公共支出、補助金などは、実需に向かわずに、預貯金などに回ったり無駄であったりして経済活動から脱落するなどがあるのは無意味であって、その支出も、将来の経済発展・国民生活の向上に役立つものを目指した実需拡大のためのものに注力すべきで、その資金調達も消費性向の低い金持ちからの増税で賄うのがベターだと言う考えなどは、十分傾聴に値すると思っている。
日本経済にとって、最も重要なことは、眠っている1500兆円と言われる個人の金融資産であって、大前研一氏が説くように、資産課税を1%とするだけでも、経済発展と活性化のために15兆円を動かせる。不況など一挙に飛んでしまう。
サミュエルソンの乗数理論の波及論的解釈が間違っていたとした鬼頭教授の話を伊藤先生はしていたが、要は、ケインズ政策も、意図した理論通りに、実際に、乗数効果を実現できるような需要拡大政策でなければ効果が薄いと言うことであろうが、経済成長力を喪失した成熟経済では、どうあるべきかは、次の重要な課題であろう。
私が経済学部の学生であった頃は、恐らく、近代経済学ではケインズ経済学が最も幅を利かせていた頃ではないかと思うのだが、当時の京大は、マル経の勢力が強くて、ケインズ経済学を専門とした講座はなかった筈で、私自身は、「経済成長と景気循環」に興味を持って勉強していたので、ハーバード大教授のアルビン・H・ハンセンの「ケインズ経済学入門」「財政政策と景気循環」、サミュエルソンの「ECONOMICS」などから間接的に、ケインズにアプローチしたように思う。
クラインの「ケインズ革命」や、ジョーン・ロビンソンなどの本も読んだが、良く分からなかったし、ケインズの「一般理論」も読んでいないし、その後関連書籍を読んだにしても、偉そうにケインズ経済学はと言えるほど、まともに勉強したことがないので、今回のこの本は、改めて良い勉強になった。
尤も、逆に一寸ほっとしているのは、それ程、私自身のケインズ経済学の解釈は間違ってはいなかったなあと言う思いである。
アメリカのビジネス・スクールに居た頃は、丁度、ニクソン大統領の時で、アメリカの経済成長が減速してスタグフレーションに陥り、ブレトン・ウッズ体制が崩壊するなど、経済の大転換期で、ケインズ経済学が曲がり角に差し掛かった頃だと思うが、私は、当時出版されたガルブレイスの「 Economics and the Public Purpose 」を買って読んだ記憶はあるが、経営学を勉強していたので、経済学の動向には時間もなかったしあまり関心がなかった
当時のノーベル賞受賞者が、ポール・サミュエルソンやサイモン・クズネッツから、フリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンになり、オーストリア学派およびマネタリズムへ移って行ったところを見ると、新古典派価格理論と市場主義的自由主義経済学者へと勢力が移る転換期だったのかも知れない。
この本で書かれているところを見ても、資本主義は、70年代中葉から自由放任主義思想へ大きく舵を切り始め、90年代前後には社会主義体制の崩壊を迎えて、この動きが一層加速度を増して、政府による経済への介入は効率性を阻害し、経済に発展を妨げているから、規制を可能な限り撤廃するように構造を改革すべきだと言う市場原理主義思想が世界中に蔓延して、やみくもの自由化によって、一気に金融のグローバリゼーションに突っ走って、今回の世界経済危機を齎したと言うのである。
市場を神格化するあまり、あげくには「市場の不存在」「市場の不透明化」現象の著しい拡大を齎し、市場システム自体を混乱に陥れて、資本主義そのものを危機的な状態に追い込んでしまった今日こそ、正に、新しい資本主義観を再構築する必要に迫られている。
従って、資本主義社会の持つ病弊を鋭く指摘し、その改革を求めたケインズの資本主義観は、近年の対照的な資本主義観が齎した「歪な資本主義」を是正して行くうえで強力な導きの道標となる。今こそ、ケインズ経済学復権の時である。と言う訳である。
戦後は、ミクロ経済が新古典派の経済学、マクロ経済学がケインズ経済学と言う二刀流と言うことで、サミュエルソンの「新古典派総合」が一般的に受け入れられていたが、ケインズ経済学は間違っているとするミルトン・フリードマンを経て、ルーカスやプレスコットなどのシカゴ学派がリアル・ビジネス・サイクル論を展開し、マクロ経済学の新古典派的な理解が支配的となり、2006年、アメリカ経済学会の会長講演で、ルーカスが、景気循環問題は既に完全に解決されているし、そもそも大した問題ではないのだと述べるまでに至った。
ところが、その2年後にリーマン・ショックが勃発した。
過去30年くらいの間、マクロ経済学は非常に新古典派的に展開して来たのだが、クルーグマンが、このことを捉えて、過去30年間マクロ経済は、”spectacularly useless at best, and positively harmful at worst”と批判した。
経済界の動きとは独立して、リーマン・ショック後、中国を含めて世界全体で、ケインズ政策を取り、財政出動により、概ね先進国の落ち込みは緩和され、ケインズ理論は学会の動きとは独立して、世界のポリシー・メーカーによって支持されて来ている。
金融政策についても、戦後一貫してケインズ的なマネタリー・ポリシーの枠組みから大きく外れたと言うことはなく、新古典派的な考え方で政策運営されたことは、基本的になかった。と吉川洋教授は言う。
戦間期の混乱する世界経済にあって、大胆な経済理論・経済政策を提言し、世界システムの構築にも大胆な構想を打ち出し、既存の経済学や思想に果敢に挑戦したケインズ・スピリットが、果たして、混迷を極める世界経済の問題解決に、如何にブレイクスルー策を提供できるのか、伊藤光晴先生が、不況対策としてのケインズ政策の限界に言及しているのだが、この本でも各所で展開されているように、新自由主義、シュンペーターの発展理論などとの総合的なアプローチなど、現代資本主義にマッチした発展的なケインズ経済学の理論構築が求められるのであろうか。
余談だが、この本では、教えられることが多く、私など、ケインズよりもシュンペーター・ファンなので、塩野谷祐一教授の「ケインズとシュンペーター」論文などは、非常に面白かった。
私は、理解不足かもしれないが、ケインズ政策は、どうしても、需要拡大に主眼が行き、牛を水際まで連れて行くことは出来ても、必ずしも牛に水を飲ませられるとは限らないと言う限界があるので、水を飲ませられるような経済成長刺激策・牽引力、すなわち、経済発展を始動させるイノベーター的な役割を重視するシュンペーターの経済発展理論との融合・総合が必須ではないかと思っている。
一寸興味深いのは、菅首相の経済的ブレーンであったと言う小野善康教授の所謂「第3の道論」だが、当時は、良く分からなくて批判していたのだが、要するに、公共自治体は、眠っている金を税金で吸い上げてでも、実際の実需に向かうように雇用を増やしたり実物に対して支出して需要を拡大して資金を回すことだと言う理論は、経済政策の1実行手法として面白い。
ケインズ政策で実施する公共投資や公共支出、補助金などは、実需に向かわずに、預貯金などに回ったり無駄であったりして経済活動から脱落するなどがあるのは無意味であって、その支出も、将来の経済発展・国民生活の向上に役立つものを目指した実需拡大のためのものに注力すべきで、その資金調達も消費性向の低い金持ちからの増税で賄うのがベターだと言う考えなどは、十分傾聴に値すると思っている。
日本経済にとって、最も重要なことは、眠っている1500兆円と言われる個人の金融資産であって、大前研一氏が説くように、資産課税を1%とするだけでも、経済発展と活性化のために15兆円を動かせる。不況など一挙に飛んでしまう。
サミュエルソンの乗数理論の波及論的解釈が間違っていたとした鬼頭教授の話を伊藤先生はしていたが、要は、ケインズ政策も、意図した理論通りに、実際に、乗数効果を実現できるような需要拡大政策でなければ効果が薄いと言うことであろうが、経済成長力を喪失した成熟経済では、どうあるべきかは、次の重要な課題であろう。