毎年、アカデミー賞の季節が近づくと、WOWWOWやBSなどで、アカデミー賞受賞映画が放映される。
映画「ガンジー」を放映途中で見始めたのだが、見た筈でありながら、覚えているのは断片程度。
途中で止められなくなって最後まで見て、翌朝、録画した映画を最初から見直した。
BRIC’sの大国として脚光を浴びており、私自身、インドの経済や経営を勉強し始めたのているので、改めて、インドの姿を、ガンジーの生き様を通して見直す好機となった。
冒頭、壮大なガンジー(ベン・キングズレー)の葬儀を実況放映するBBCのアナウンサーが、アインシュタインの言葉を引用した。”将来の人たちは、とても信じないだろう。このような人間が地球上に実在したことを”
正にこの言葉どおりに、マハトマ・ガンジー(GANDHI ガンディ)は、ヒンズー、イスラム、シーク、ユダヤ、キリストなど多くの異教を何億人も束ねて、民衆の暴動を排除して「非暴力、不服従」政策を押し通して、国民が意思に背けば徹底的に断食を通しぬいて、大英帝国を敵に回して、インドの独立を勝ち取ると言う途轍もない偉業を成し遂げたのである。
あのベルリンの崩壊後の東ヨーロッパの独立蜂起や昨今のイスラム諸国の自由化への暴力的な内戦状態を考えれば、歴史的な状態も世界情勢も全く違うので、比較の埒外だが、改めて、ヨーロッパの市民社会が築き上げてきた民主主義とは、一体何だったのかと考えざるを得ない。
私がイギリスに居た時には、まだ、ネルソン・マンデラは獄中にいて、トラファルガー広場で、激しい解放デモが繰り広げられていたのだが、当時でも、人種差別政策の極みとも言うべきアパルトヘイトは激しかった。
この南アに、ガンジーは、イギリスで学んで弁護士資格を取得して、インド人商社の顧問弁護士として赴任するのだが、1等客車に乗っていたのを叩き出され、通りさえ歩けないインド人にたいする人種差別に激しい怒りを覚えた。
これが発端で、ガンジーは、インド人移民に呼びかけて、身分証明カードを焼き拾てることを提唱し、激しい弾圧にも拘わらず無抵抗で抗議を続け、暴力をいっさい用いずに闘うことを信条とし、アシュラム(共同農園)を建設して、差別反対闘争にインド人労働者たちも次第に結束し始め、インド内外の注目を集める。
1915年ボンベイに戻ったガンジーはインド国民から英雄として迎えられ、当時、イギリスからの独立を願っていたインドの指導的立場にある人々と糾合して、ガンジーの独立闘争が始まる。
イギリス政府の弾圧の凄まじさは、イギリスのダイヤー将軍(エドワード・フォックス)率いる軍隊が、一列縦隊になって、アムリツァールの公園で、自由を求めて集う集会中の群衆に向かって発砲し、退路を断たれて逃げ惑う女子供をも、情け容赦なく無差別に殺戮し、1516人の死傷者を出すという悲惨な事件が起こった。
今のシリアと同じで、インド人のグルカ兵やイスラム兵が、最新鋭の連射英国銃を同胞のインド人に向けて、隊列を敷いて入れ代わり立ち代わり発砲し続ける光景を、この映画は執拗に放映し続ける。
もう一つの悲惨な光景は、ガンジーが設立したインド人による製塩所を、軌道に乗ったところでイギリス軍に取り上げられ、インド人労働者達が隊列を組んで工場に入ろうとするところを、警官たちに警棒で情け容赦なく叩きのめされて瀕死の状態にも拘わらず、一列一列と整然と、延々と向かって行く凄まじいインド魂に、感じ入った『ニューヨーク・タイムズ』の記者ウォーカー(マーティン・シーン)が、電話にしがみついて記事を送り続ける姿は、感動的でさえある。
民家の壁に掛けられた公衆電話を握りしめて、必死に原稿を絶叫し続ける記者を、戸口にしがみ付くように眺める女子供や放心状態で屯する村人たちがじっと見ている姿は、正に、植民地としてインドを蹂躙し続けて来たイギリス帝国主義への告発でもあった。
その前に、イギリス人が独占していた製塩事業に対抗するため、民衆と共にガンジーが、海岸へ向けて“塩の大行進”を決行するのだが、インドの製綿繊維業を壊滅状態に陥れた英国製の衣類を焼くように呼びかける国民動員運動なども含めて、国と村の独立自尊と産業の復権を求めるガンジー主義がインドを目覚めさせる。
逮捕されたガンジーは、1931年、釈放されて、アーウィン卿(ジョン・ギールグッド)と交渉の結果、ロンドンの円卓会議に出席したが、独立は勝ち取れなかった。
しかし、焦るネール(ロシャン・セス)たち指導者に、ガンジーは、平然と手動の糸繰り機を回しながら独立は熟柿状態にあると説く。
結局は、独立を勝ち取るのだが、イスラム教徒のパキスタンが分離独立し、映画は、国境地帯をすれ違ってインドとパキスタンに移動する民衆たちとその激しい殺戮映像を、今日の両国の悲劇の導火線の象徴として活写しており、ヒンズー教徒でありながら全宗教の平等を説いたコスモポリタンのガンジーの統一インドの独立の夢は実現しなかった。
この映画では、大英帝国の植民地主義の身勝手と過酷さの裏に登場した、最初からガンジーを支援するイギリス人牧師アンドリューズ(イアン・チャールソン)、ガンジーを撮影し続ける『ライフ』の女性記者バーク=ホワイト(キャンディス・バーゲン)、ガンジーに同情的な判決を下す判事のブルームフィールド(トレヴァー・ハワード)それに、最後までガンジーの傍近くに付き添って世話をしていた英国の提督の娘スレード嬢等々、白人たちの爽やかなサポートも嫌味がなくて良い。
私見だが、ガンジーが英国弁護士であり、英国の法制度がかなり民主的であったこと(インド人には適用されなかったが、ガンジーは逆手に取った)、それに、アメリカのジャーナリズムが民主的で良心があったこと等々も、ガンジーの活躍に貢献したのであろうと思う。
それにしても、膨大な資金と人材を動員して、一切手を抜かずに、こんなに素晴らしい映画を作る時代があったと言うことは驚きでもある。
ところで、このガンジーを支えてずっと行動を共にしたネールが、ガンジーの死後インド初代の首相となり、社会主義を通して、国家が経済を主導する計画経済を推進した結果、折角独立したインドが経済発展からも世界のひのき舞台からも取り残されて来たのだが、やっと、1991年の自由化政策で門戸を世界に開いて、テイクオフし、快進撃を始めた。
ネールの遺産とも言うべきIIT出身の俊英たちの目覚ましい活躍と、経済社会のICT革命が、今日のインドを、未来大国の雄に押し上げるべく、これが誘い水となって、インド人のビジネス魂に火をつけたのである。
インド人の国連などの国際舞台での活躍は大変なもので、今では、米国の財界トップや、著名な経済学者や経営学者やジャーナリストなどの逸材の多くも、インド・オリジンであり、インディアン・パワーが炸裂し始めている。
映画「ガンジー」を放映途中で見始めたのだが、見た筈でありながら、覚えているのは断片程度。
途中で止められなくなって最後まで見て、翌朝、録画した映画を最初から見直した。
BRIC’sの大国として脚光を浴びており、私自身、インドの経済や経営を勉強し始めたのているので、改めて、インドの姿を、ガンジーの生き様を通して見直す好機となった。
冒頭、壮大なガンジー(ベン・キングズレー)の葬儀を実況放映するBBCのアナウンサーが、アインシュタインの言葉を引用した。”将来の人たちは、とても信じないだろう。このような人間が地球上に実在したことを”
正にこの言葉どおりに、マハトマ・ガンジー(GANDHI ガンディ)は、ヒンズー、イスラム、シーク、ユダヤ、キリストなど多くの異教を何億人も束ねて、民衆の暴動を排除して「非暴力、不服従」政策を押し通して、国民が意思に背けば徹底的に断食を通しぬいて、大英帝国を敵に回して、インドの独立を勝ち取ると言う途轍もない偉業を成し遂げたのである。
あのベルリンの崩壊後の東ヨーロッパの独立蜂起や昨今のイスラム諸国の自由化への暴力的な内戦状態を考えれば、歴史的な状態も世界情勢も全く違うので、比較の埒外だが、改めて、ヨーロッパの市民社会が築き上げてきた民主主義とは、一体何だったのかと考えざるを得ない。
私がイギリスに居た時には、まだ、ネルソン・マンデラは獄中にいて、トラファルガー広場で、激しい解放デモが繰り広げられていたのだが、当時でも、人種差別政策の極みとも言うべきアパルトヘイトは激しかった。
この南アに、ガンジーは、イギリスで学んで弁護士資格を取得して、インド人商社の顧問弁護士として赴任するのだが、1等客車に乗っていたのを叩き出され、通りさえ歩けないインド人にたいする人種差別に激しい怒りを覚えた。
これが発端で、ガンジーは、インド人移民に呼びかけて、身分証明カードを焼き拾てることを提唱し、激しい弾圧にも拘わらず無抵抗で抗議を続け、暴力をいっさい用いずに闘うことを信条とし、アシュラム(共同農園)を建設して、差別反対闘争にインド人労働者たちも次第に結束し始め、インド内外の注目を集める。
1915年ボンベイに戻ったガンジーはインド国民から英雄として迎えられ、当時、イギリスからの独立を願っていたインドの指導的立場にある人々と糾合して、ガンジーの独立闘争が始まる。
イギリス政府の弾圧の凄まじさは、イギリスのダイヤー将軍(エドワード・フォックス)率いる軍隊が、一列縦隊になって、アムリツァールの公園で、自由を求めて集う集会中の群衆に向かって発砲し、退路を断たれて逃げ惑う女子供をも、情け容赦なく無差別に殺戮し、1516人の死傷者を出すという悲惨な事件が起こった。
今のシリアと同じで、インド人のグルカ兵やイスラム兵が、最新鋭の連射英国銃を同胞のインド人に向けて、隊列を敷いて入れ代わり立ち代わり発砲し続ける光景を、この映画は執拗に放映し続ける。
もう一つの悲惨な光景は、ガンジーが設立したインド人による製塩所を、軌道に乗ったところでイギリス軍に取り上げられ、インド人労働者達が隊列を組んで工場に入ろうとするところを、警官たちに警棒で情け容赦なく叩きのめされて瀕死の状態にも拘わらず、一列一列と整然と、延々と向かって行く凄まじいインド魂に、感じ入った『ニューヨーク・タイムズ』の記者ウォーカー(マーティン・シーン)が、電話にしがみついて記事を送り続ける姿は、感動的でさえある。
民家の壁に掛けられた公衆電話を握りしめて、必死に原稿を絶叫し続ける記者を、戸口にしがみ付くように眺める女子供や放心状態で屯する村人たちがじっと見ている姿は、正に、植民地としてインドを蹂躙し続けて来たイギリス帝国主義への告発でもあった。
その前に、イギリス人が独占していた製塩事業に対抗するため、民衆と共にガンジーが、海岸へ向けて“塩の大行進”を決行するのだが、インドの製綿繊維業を壊滅状態に陥れた英国製の衣類を焼くように呼びかける国民動員運動なども含めて、国と村の独立自尊と産業の復権を求めるガンジー主義がインドを目覚めさせる。
逮捕されたガンジーは、1931年、釈放されて、アーウィン卿(ジョン・ギールグッド)と交渉の結果、ロンドンの円卓会議に出席したが、独立は勝ち取れなかった。
しかし、焦るネール(ロシャン・セス)たち指導者に、ガンジーは、平然と手動の糸繰り機を回しながら独立は熟柿状態にあると説く。
結局は、独立を勝ち取るのだが、イスラム教徒のパキスタンが分離独立し、映画は、国境地帯をすれ違ってインドとパキスタンに移動する民衆たちとその激しい殺戮映像を、今日の両国の悲劇の導火線の象徴として活写しており、ヒンズー教徒でありながら全宗教の平等を説いたコスモポリタンのガンジーの統一インドの独立の夢は実現しなかった。
この映画では、大英帝国の植民地主義の身勝手と過酷さの裏に登場した、最初からガンジーを支援するイギリス人牧師アンドリューズ(イアン・チャールソン)、ガンジーを撮影し続ける『ライフ』の女性記者バーク=ホワイト(キャンディス・バーゲン)、ガンジーに同情的な判決を下す判事のブルームフィールド(トレヴァー・ハワード)それに、最後までガンジーの傍近くに付き添って世話をしていた英国の提督の娘スレード嬢等々、白人たちの爽やかなサポートも嫌味がなくて良い。
私見だが、ガンジーが英国弁護士であり、英国の法制度がかなり民主的であったこと(インド人には適用されなかったが、ガンジーは逆手に取った)、それに、アメリカのジャーナリズムが民主的で良心があったこと等々も、ガンジーの活躍に貢献したのであろうと思う。
それにしても、膨大な資金と人材を動員して、一切手を抜かずに、こんなに素晴らしい映画を作る時代があったと言うことは驚きでもある。
ところで、このガンジーを支えてずっと行動を共にしたネールが、ガンジーの死後インド初代の首相となり、社会主義を通して、国家が経済を主導する計画経済を推進した結果、折角独立したインドが経済発展からも世界のひのき舞台からも取り残されて来たのだが、やっと、1991年の自由化政策で門戸を世界に開いて、テイクオフし、快進撃を始めた。
ネールの遺産とも言うべきIIT出身の俊英たちの目覚ましい活躍と、経済社会のICT革命が、今日のインドを、未来大国の雄に押し上げるべく、これが誘い水となって、インド人のビジネス魂に火をつけたのである。
インド人の国連などの国際舞台での活躍は大変なもので、今では、米国の財界トップや、著名な経済学者や経営学者やジャーナリストなどの逸材の多くも、インド・オリジンであり、インディアン・パワーが炸裂し始めている。