今回の菅原伝授手習鑑は、後半の「寺入りの段」と「寺子屋の段」で、一子小太郎を管秀才の身替りに差し出す松王丸と千代夫妻が主役となる実に悲しくも悲痛な物語である。
今回、松王丸を、玉女が遣っており、私が、大分前に見た松王丸は、2回とも元気な頃の文吾が演じていた。
千代は、今回、文雀で、その前は、簔助と紋壽であったが、いずれも素晴らしい舞台で、歌舞伎とは大分趣が違うのだが、人形遣いの芸ばかりではなく、浄瑠璃を語る大夫と三味線とが呼応して醸し出すぐいぐいドライブする高揚感が、また、堪らないところに文楽の醍醐味がある。
特に、何回も見ていて、話の筋など知り過ぎていても、あのベートーヴェンの田園や運命を聴く度毎に感激するのと同じで、古いと言われそうだが、この理不尽極まりない寺子屋の段には、何時も特別な思いで見ている。
この芝居を、封建時代の馬鹿らしい話と思ってしまえばそれまでだが、果たして、宮仕えである自分たちが、このような境涯に立ったら、どう生きるべきかと考えると、深刻にならざるを得ない。
この寺子屋の段で、匿っている恩師・菅丞相の息子・菅秀才の首を差し出せと命じられた武部源蔵が、切羽詰って「せまじきものは、宮仕へ」と妻戸波とともに涙に暮れるのだが、この場合、例えば、管秀才の命を守ることが至上命令であり正義だと考えるなら、現在に置きかえれば、会社のために違法行為をやるなど絶対に許されない行動を取れるかどうかと言うことであろうか。
もう一つ、親も兄弟二人も大恩ある人に組しているのに、自分だけ敵方に居て、何時か、恩を返したいと願っているのだが、その為に、現在なら、最も大切な家族を犠牲にしてでも、会社のために尽くすべきであろうか。
恐らく、多くの勤め人は、このような人生の岐路には、何度も遭遇しているであろうが、真面目に、そして、真剣に生きれば生きるほど悩むこととなる。
逆に言えば、封建時代だからこそ、この松王丸のように、妻を説得してわが子を諦めさせ、まだ、分別も定かでないわが子に、親の大義名分のために死んでくれと言えるのであって、現在のサラリーマンなら、理不尽でなければ、会社人生を棒に振ってでも、家族を守るであろうが、実際には、家族の犠牲も違法行為も、運命の暴走が正に紙一重の、ぎりぎりの状態で生きていることが多いので、苦渋の選択に迫られながら日々生きている筈である。
「せまじきものは、宮仕へ」などと思っているようなら、もう、既に、人生の落伍者で、会社人生はまともに勤まらないと言う人が必ずいると思うのだが、問題は、そう言う次元のことではなく、正義でも何でも良いが、人生の岐路に立った時に、自分自身の生き死にの選択を迫られる、そんな時にどう生きるか、本当に誇りを持って自分自身を肯定できる価値ある生き様を貫けるかどうかと言うことである。
そんなことを考えて、殆ど最終コーナーを回ろうとしている私自身、人生を顧みれば、反省することばかりである。
おかしな話になってしまったが、玉男も文吾も逝ってしまった今、この松王丸を格調高く豪快に遣えるのは、やはり、玉男の薫陶を受けた玉女しかいないであろう。
菅秀才の首実検で、自分の子供小太郎の首を確認する錯綜した苦渋の表情、妻千代への思いやり、いろは送りで小太郎を送る愁いの表情、とにかく、豪快で強気一途の松王丸から人間松王丸への変身など、実に芸が細かく、人形が呼吸をしている。
文雀の千代は、いつもそうだが、人形と思えないような優雅で品のある佇まいは堪らない程魅力的だが、今回は、正に悲劇のヒロイン、非常に控え目な表現だが、人形のむせび泣きと号泣が聞こえてくるようで、愁いに沈む横顔の美しさなど格別である。
武部源蔵の線の太い男意気に、和生の新境地を見たような気がしている。玉女の松王丸と互角に渡り合って爽やかであった。勘寿の戸波も実に良い。
嶋大夫と富助の「いろは送り」は、絶品であった。
今回、松王丸を、玉女が遣っており、私が、大分前に見た松王丸は、2回とも元気な頃の文吾が演じていた。
千代は、今回、文雀で、その前は、簔助と紋壽であったが、いずれも素晴らしい舞台で、歌舞伎とは大分趣が違うのだが、人形遣いの芸ばかりではなく、浄瑠璃を語る大夫と三味線とが呼応して醸し出すぐいぐいドライブする高揚感が、また、堪らないところに文楽の醍醐味がある。
特に、何回も見ていて、話の筋など知り過ぎていても、あのベートーヴェンの田園や運命を聴く度毎に感激するのと同じで、古いと言われそうだが、この理不尽極まりない寺子屋の段には、何時も特別な思いで見ている。
この芝居を、封建時代の馬鹿らしい話と思ってしまえばそれまでだが、果たして、宮仕えである自分たちが、このような境涯に立ったら、どう生きるべきかと考えると、深刻にならざるを得ない。
この寺子屋の段で、匿っている恩師・菅丞相の息子・菅秀才の首を差し出せと命じられた武部源蔵が、切羽詰って「せまじきものは、宮仕へ」と妻戸波とともに涙に暮れるのだが、この場合、例えば、管秀才の命を守ることが至上命令であり正義だと考えるなら、現在に置きかえれば、会社のために違法行為をやるなど絶対に許されない行動を取れるかどうかと言うことであろうか。
もう一つ、親も兄弟二人も大恩ある人に組しているのに、自分だけ敵方に居て、何時か、恩を返したいと願っているのだが、その為に、現在なら、最も大切な家族を犠牲にしてでも、会社のために尽くすべきであろうか。
恐らく、多くの勤め人は、このような人生の岐路には、何度も遭遇しているであろうが、真面目に、そして、真剣に生きれば生きるほど悩むこととなる。
逆に言えば、封建時代だからこそ、この松王丸のように、妻を説得してわが子を諦めさせ、まだ、分別も定かでないわが子に、親の大義名分のために死んでくれと言えるのであって、現在のサラリーマンなら、理不尽でなければ、会社人生を棒に振ってでも、家族を守るであろうが、実際には、家族の犠牲も違法行為も、運命の暴走が正に紙一重の、ぎりぎりの状態で生きていることが多いので、苦渋の選択に迫られながら日々生きている筈である。
「せまじきものは、宮仕へ」などと思っているようなら、もう、既に、人生の落伍者で、会社人生はまともに勤まらないと言う人が必ずいると思うのだが、問題は、そう言う次元のことではなく、正義でも何でも良いが、人生の岐路に立った時に、自分自身の生き死にの選択を迫られる、そんな時にどう生きるか、本当に誇りを持って自分自身を肯定できる価値ある生き様を貫けるかどうかと言うことである。
そんなことを考えて、殆ど最終コーナーを回ろうとしている私自身、人生を顧みれば、反省することばかりである。
おかしな話になってしまったが、玉男も文吾も逝ってしまった今、この松王丸を格調高く豪快に遣えるのは、やはり、玉男の薫陶を受けた玉女しかいないであろう。
菅秀才の首実検で、自分の子供小太郎の首を確認する錯綜した苦渋の表情、妻千代への思いやり、いろは送りで小太郎を送る愁いの表情、とにかく、豪快で強気一途の松王丸から人間松王丸への変身など、実に芸が細かく、人形が呼吸をしている。
文雀の千代は、いつもそうだが、人形と思えないような優雅で品のある佇まいは堪らない程魅力的だが、今回は、正に悲劇のヒロイン、非常に控え目な表現だが、人形のむせび泣きと号泣が聞こえてくるようで、愁いに沈む横顔の美しさなど格別である。
武部源蔵の線の太い男意気に、和生の新境地を見たような気がしている。玉女の松王丸と互角に渡り合って爽やかであった。勘寿の戸波も実に良い。
嶋大夫と富助の「いろは送り」は、絶品であった。