熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

GDPで表示する経済成長は本物か

2016年08月24日 | 政治・経済・社会
   GDPで、経済を表示することには、多々問題がある。
   サミュエルソンがエコノミクスで、主婦の貢献が加味されていないと指摘していたし、アルビン・トフラーの生産消費者の働きなども問題外で脱漏しているし、実際の経済活動においても、正確な数字からは程とおい。
   また、公害産業と言った外部不経済や違法産業の様な好ましくない経済活動が計上されるなど、人間生活にとってマイナスの面もあり、経済成長そのものが、本質的な意味を含めて、人類にとって本当に幸せなことかどかは微妙なところかも知れない。
   これを勘案してか、「国民全体の幸福度」を示す“尺度”として、「国民総幸福量」ないし「国民総幸福感」と言う概念もあり、
   日本でも幸福度指標を考える動きがあるとか。

   私が、ここで考えようとしているのは、是とは違って、GDPでは表示できない科学技術の進歩による財やサービスのことでる。
   単純な話、失われた20年と言われて、バブルの崩壊以降、日本のGDPは、名目500兆円前後を推移して、一向に経済成長していない。
   しかし、日本人の生活、そして、日本の国民生活は、かなりよくなっており、東京などの都市景観を見ても見違えるように立派になっている。
   首都圏のJR一つにしても、随分便利なったし、場合によっては、公共サービスの質も向上している。

   この現象のために、日本を訪れる多くの外国人が、失われた20年で経済が悪化した筈の日本が、あまりにも豊かで綺麗な状態であることに、びっくりするのである。

   「半導体の集積密度は18~24ヶ月で倍増する」とするムーアの法則 【 Moore’s law 】によるICT革命による政治経済社会の進歩はまさに革命的で、この第三次産業革命に追う要素が多いのだが、とにかく、GDP表示の国民所得成長がゼロ、すなわち、経済成長がゼロであっても、我々の国民生活は、どんどん、良くなってきている。

   カメラについて考えてみる。
   付加価値の驚くべき追加について考えれば、コストパーフォーマンスの上昇は目を見張るものがある。
   学生時代に、普通のレンジファインダー・カメラを2万円くらいで買った記憶があるのだが、当時の一眼レフの高級カメラなら、今の初級や中級の一眼レフなどの価格と変わらなかったのではないかと思う。
   パソコンの周辺機器に成り下がったと言われながらも、デジタル化によって様変わりして、まるで、高級兵器のように、目を見張るような複雑な機能を備えて、精密化高度化した今日のカメラを考えれば、信じられないほどの進歩である。
   しかし、GDPへの計上は、昔も今も同じ数字であり、経済成長への貢献度は変わらない。

   尤も、本のように、価格も質も、殆ど変わらないものもある。
   もう、半世紀ほど前のこと、学生時代に、シュンペーターの「経済発展の理論」の5巻目が買えなくて覚えているのだが、確か1500円であった。
   今なら、5000円くらいかも知れないが、殆ど、価格は変っていない。
   勿論、本の質などについては、それ程問題にするほどのことはなく、むしろ、昔の方が箱入りでしっかりしていた。

   いずれにしろ、発展途上国などでは、状況が異なるであろうが、日本の国を考えた場合には、GDP表示の経済成長はゼロであっても、財やサービスの質や量は、どんどん、あるいは、少しずつ増加して、国民生活は豊かになりつつある。(今回は、経済格差の拡大やその経済へのダメッジなどについては、ふれないこととしたい。)
   人口が減少しているので、一人当たり国民所得は微増するので、更に増幅される。

   日本人が、経済感覚に秀でており、創造性豊かでイノベーションに意欲的である以上、この傾向は進むであろう。
   しかし、問題は、GDPのみならず、経済社会の多くの指標が、名目の価格表示でなされていることである。

   最も心配になるのは、国家債務の状態で、財務省の「債務残高の国際比較(対GDP比)」を見ても、ダントツの高さである。
   この債務を返済するために、統制令やインフレなどを除けば、経済成長か税率アップしか考えられないのであろうが、何より望まれるのは、国民に負担の行かない経済成長を促すことであろう。
   しかし、熟成して活力を失い人口が減少する日本経済には、経済成長は極めて荷が重く、精々、プライマリーバランスをゼロにするくらいが関の山であろうから、多くを期待できない。
   それに、前述したように、GDPがアップしなくても、生活は、それなりに少しずつ良くなっていると言う感覚が、国民にあれば、成長成長と言わなくても、これ以上悪くならなければ良いと言う感覚が働く。
   民主党が、なりもの入りで政権を取りながら3・11の不運はあったにしても、何一つ手を打てずに失政を重ねて国民に失望を与えて信頼を失墜した以上、良くも悪くも、今のままの方が良い、安倍自民党の方が安心だと言うのが国民の思いであろうから、与野党逆転などと言うのは、当分、あり得ないように思われる。

   科学技術や経済社会の進歩によって、財やサービスの質が向上して、実質的な生活水準が上がっても、名目GDPアップを伴う経済成長でなけれな、国家債務を解消できないと言うこのジレンマ。

   問題の日本の異常な国家債務の問題だが、何回も引用させて貰っているが、
   カーメン・M・ラインハート&ケネス・S・ロゴフが「国家は破綻する」で、
   「バブルとその崩壊、銀行危機、通貨危機、インフレを経由して、対外債務・対内債務のデフォルトに至って金融危機が引き起こされると言う800年の金融の歴史が、「債務が膨れ上がった国は、悲劇に向かっている」と言う厳粛なる事実を立証している。
   現在の日本の国家債務についてだが、「債務の許容限界」と言うところで、先進国であっても、債務の定義にもよるが日本のように170%近くに達していれば、問題が多いと考えられる(日本の外貨準備は極めて潤沢だが、その点を考慮するにしても、純債務がGDP比94%というのはやはりひどく高い)P.61と述べている。
  この本を、そのまま素直に読めば、日本の異常な国家債務の悪化が、日本を危機的な状態に追い込みつつあることは、自明のことである。

   3年前に、P・クルーグマンが、ニューヨークタイムズのコラムで「財政フィーバーは終わった」で、
   「国家は破綻する」で展開されていたカーメン・M・ラインハート&ケネス・S・ロゴフの理論、政府債務がGDPの90%を超えると成長に深刻なマイナス効果をなすなどと言った説を手始めに、手ひどく糾弾しているのだが、私自身は、クルーグマン説に疑問を呈したが、大方の経済学者は、ラインハートとロゴス説を取っているようである。

   経済成長とは、一体何なのか。
   
コメント
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