「杜甫」を読んでいて、面白いと思ったのは、宋玉を忍ぶ「古跡を詠懐す」の解説で、宇野直人が、秋の季節を悲しいとして詠んだのは、宋玉が最初で、杜甫が、この影響を受けて悲しい秋のイメージが大変好きだったと語っていることである。
宋玉が、師匠である屈原が政争に巻き込まれて追放されたことを悲しみ、同情して書いた「九辯」の冒頭の「悲しいかな、秋の気たるや 蕭瑟として 草木揺落して変衰す」が、秋の季節を悲しいものと詠んだ最初の例だと言う。
それ以前の詩に詠われる秋は、祭りの秋、実りの秋、穫り入れの秋であって、悲しいと言う感覚を導入したのは、これが初めてで、それが人間の機微をついたのか、これ以降、秋を悲しいものとしてうたう作例が急に増えたと言うのである。
杜甫は、詩に悲秋と言う言葉がよく出てきて、杜甫=「悲秋の詩人」だと言っているが、李白は、「秋が悲しいと言ったのは誰だ。秋はさわやかじゃないか」と言った句もあるらしく、秋は悲しいとうたわなかったらしいのが興味深い。
日本へは、この「九辯」が、南北朝時代に伝わると、読書人の間に爆発的な人気を得て、秋はかなしいものとなった、それ以前の「万葉集」などをみても、秋は悲しいものとしてうたった例はないと言うことである。
西洋では、秋をどのような感覚で受け止められているのか、今、資料がないのでよく分からないのだが、絵画などを見たり祝祭などの印象では、やはり、実りの秋、収穫の秋と言った喜びの感じの方が強いように思う。
特に、ヨーロッパなどは、秋になると、一気に陽が短くなって、陽の殆どささない長い長い陰鬱な夜が支配する冬に一直線に進んで行くので、オペラや芝居など観劇シーズンとなり、華やかな社交の夜が花開く。
日本人のように、蛍の光に旅愁を感じ、虫の鳴き声に耳を澄まして人生の喜びと悲しみをかみしめる・・・、そんな感覚などとは全く縁のない、蛍や鈴虫などはただの虫として一顧だにしない西洋人には、悲秋など言った感覚は、なじまないのかも知れない。
もし、秋を悲しいとするならば、死の予感を感じた時かも知れないと思っている。
欧米での生活が長かったので、私の印象だが、アメリカでもヨーロッパでも、秋になると、森や林が、黄金一色に染まって、びっくりするような輝きの中で、荘厳な思いに包まれて至福の時間を過ごした思い出がある。
もう一つは、晩秋のレマン湖をドライブした時のワイン色にくすんだ湖岸の絵のような美しさで、気の遠くなるような夕暮れの対岸の雪を頂いた山々の稜線が輝いていた。
日本の秋は、もみじや秋の落葉樹で、正に、赤や黄色や橙色など、極彩色に近い錦の美しさで輝くのだが、そのような繊細で微妙な秋化粧を、欧米では見たことがなかったが、要するに、ヨーロッパでは、冬季には、殆どの野外公園が休演となり、スキーなどの雪山を除いて、野外生活とはおさらばなので、悲秋などと言う感性など生まれ得たいのかも知れない。
さて、ここで私が考えたかったことは、この詩の悲秋のように、人間の感性によって、世の中の方向や伝統などが、簡単に変って定着すると言うことである。
フランス料理のコースなどは、寒いロシアの料理が一皿ずつ温めてサーブされるのに感じ入って、フランス人が真似たからとか、
イギリスのテーラーが、黒い礼服など伝統的な洋服デザインを確立したのは、ヴェニスの葬送衣装を模したからとか、色々、言われているが、このブログでも書いたが、スコットランドのタータンチェックも、それ程遠くない過去に、施政上決められたものである等々。
伝統は伝統だから尊いのだと言っていた学者がいたが、人間の伝統や習慣、意向や考え方など、何かの拍子にコロコロ変わってしまうのである。
経済学も、複雑系経済学や人間心理などを重視した行動経済学の台頭など、学問の世界も変わりつつある。
面白いのは選挙で、今回の都知事選挙でも、既成政党の醜いドタバタを見ておれば、そして、判官びいきの日本人の感性を考えれば、小池百合子が当選するのは当然であった筈。
クリントンが、ブッシュに勝ったのも、「It's the Economy, Stupid(問題は経済なんだよ、おバカさん)」の一言だったと言うのだが、今回のクリントンとトランプの世論のシーソーゲームを見ておれば、その面白さが良く分かる。
宋玉が、師匠である屈原が政争に巻き込まれて追放されたことを悲しみ、同情して書いた「九辯」の冒頭の「悲しいかな、秋の気たるや 蕭瑟として 草木揺落して変衰す」が、秋の季節を悲しいものと詠んだ最初の例だと言う。
それ以前の詩に詠われる秋は、祭りの秋、実りの秋、穫り入れの秋であって、悲しいと言う感覚を導入したのは、これが初めてで、それが人間の機微をついたのか、これ以降、秋を悲しいものとしてうたう作例が急に増えたと言うのである。
杜甫は、詩に悲秋と言う言葉がよく出てきて、杜甫=「悲秋の詩人」だと言っているが、李白は、「秋が悲しいと言ったのは誰だ。秋はさわやかじゃないか」と言った句もあるらしく、秋は悲しいとうたわなかったらしいのが興味深い。
日本へは、この「九辯」が、南北朝時代に伝わると、読書人の間に爆発的な人気を得て、秋はかなしいものとなった、それ以前の「万葉集」などをみても、秋は悲しいものとしてうたった例はないと言うことである。
西洋では、秋をどのような感覚で受け止められているのか、今、資料がないのでよく分からないのだが、絵画などを見たり祝祭などの印象では、やはり、実りの秋、収穫の秋と言った喜びの感じの方が強いように思う。
特に、ヨーロッパなどは、秋になると、一気に陽が短くなって、陽の殆どささない長い長い陰鬱な夜が支配する冬に一直線に進んで行くので、オペラや芝居など観劇シーズンとなり、華やかな社交の夜が花開く。
日本人のように、蛍の光に旅愁を感じ、虫の鳴き声に耳を澄まして人生の喜びと悲しみをかみしめる・・・、そんな感覚などとは全く縁のない、蛍や鈴虫などはただの虫として一顧だにしない西洋人には、悲秋など言った感覚は、なじまないのかも知れない。
もし、秋を悲しいとするならば、死の予感を感じた時かも知れないと思っている。
欧米での生活が長かったので、私の印象だが、アメリカでもヨーロッパでも、秋になると、森や林が、黄金一色に染まって、びっくりするような輝きの中で、荘厳な思いに包まれて至福の時間を過ごした思い出がある。
もう一つは、晩秋のレマン湖をドライブした時のワイン色にくすんだ湖岸の絵のような美しさで、気の遠くなるような夕暮れの対岸の雪を頂いた山々の稜線が輝いていた。
日本の秋は、もみじや秋の落葉樹で、正に、赤や黄色や橙色など、極彩色に近い錦の美しさで輝くのだが、そのような繊細で微妙な秋化粧を、欧米では見たことがなかったが、要するに、ヨーロッパでは、冬季には、殆どの野外公園が休演となり、スキーなどの雪山を除いて、野外生活とはおさらばなので、悲秋などと言う感性など生まれ得たいのかも知れない。
さて、ここで私が考えたかったことは、この詩の悲秋のように、人間の感性によって、世の中の方向や伝統などが、簡単に変って定着すると言うことである。
フランス料理のコースなどは、寒いロシアの料理が一皿ずつ温めてサーブされるのに感じ入って、フランス人が真似たからとか、
イギリスのテーラーが、黒い礼服など伝統的な洋服デザインを確立したのは、ヴェニスの葬送衣装を模したからとか、色々、言われているが、このブログでも書いたが、スコットランドのタータンチェックも、それ程遠くない過去に、施政上決められたものである等々。
伝統は伝統だから尊いのだと言っていた学者がいたが、人間の伝統や習慣、意向や考え方など、何かの拍子にコロコロ変わってしまうのである。
経済学も、複雑系経済学や人間心理などを重視した行動経済学の台頭など、学問の世界も変わりつつある。
面白いのは選挙で、今回の都知事選挙でも、既成政党の醜いドタバタを見ておれば、そして、判官びいきの日本人の感性を考えれば、小池百合子が当選するのは当然であった筈。
クリントンが、ブッシュに勝ったのも、「It's the Economy, Stupid(問題は経済なんだよ、おバカさん)」の一言だったと言うのだが、今回のクリントンとトランプの世論のシーソーゲームを見ておれば、その面白さが良く分かる。