能狂言鑑賞のために、能楽堂へ通い始めて、ほぼ4年、結構、舞台を観ている筈なのだが、いまだに、私には、別世界の古典芸能である。
初期に、岩波講座「能・狂言」を買って多少勉強し、世阿弥や能や狂言の解説書や狂言師たちの著者を読んできたつもりなのだが、まだ、舞台を鑑賞していて、しっくりとはいかない。
年季の所為もあるかも知れないが、歌舞伎文楽のように行かないのである。
一番の障害は、どうしても、能の舞台を観ていても、ストーリーを追うと言うか、その曲のテーマなり物語を分かろうとする気持ちが強い所為ではないかと思っている。
ただ、多少助かっているのは、学生時代から、「平家物語」や「源氏物語」など古典を愛読し、能や狂言の故郷である京や奈良などの名所旧跡・古社寺などを歴史散歩したことかも知れない。
余談ながら、何度か観劇しているが、あの屋根のない青天井のロンドンのグローブ座では、カンカン照りの舞台で、漆黒の闇に登場するハムレットと父王の対面シーンを観る、まさに、シェイクスピアを聴くということで、能だけの世界ではないのである。
アマゾンの能楽をインターネットで叩いて、この本を見付けて、入門書のつもりで読んだのだが、結構、難しい。
本の帯に、”研ぎ澄まされた内面がつくる「妙」の空間へようこそ!”と銘打ってあることからも、普通の本ではない。
先日も、住大夫の本について、勝手ながら私見を綴ったが、正直なところ、住大夫の語る命の叫びの様な芸の深淵を、実感できるところまで行けなかったことも、鑑賞者として申し訳ないと反省しきりである。
演者の、長い大変な修行と修練を経て、血の滲むような切磋琢磨の結果生み出された芸能だと思うと、能の場合には、一層、その落差が激しくなる。
まず、能の深淵さは、「翁」の型付にでてくる
躰ハソル心 両眼ヲフサグ
翁は白式尉の面をつけており微動だにしないが、このメタファーを体現した舞。
興味深いのは、平家物語と同じ「語り」の芸術でありながら、能では、語っている本人が、「死者」であることという不条理、
「実盛」では、打ち落された自分の首を自分で洗うと言う矛盾。
著者は、「型」への信仰心に似た偏重に警告を発していて、型と内面性の関係を整理することが、あの深い世阿弥の芸術論に近づく道ではないかと思います。と言っている。
第1章の能の空間や、第3章の能楽の歴史などは、分かるとして、最終章の無への探求になると、分かったようで分からないモドカシサ。
世阿弥の言いたかったことは、「妙」は表現者の内的な原理であるのに対して、「幽玄」は、・・・あくまで鑑賞される側に重点がおかれているものであり、「妙」のように二つの場(表現者の原理と鑑賞者の印象)にまたがって機能する観念ではないと言うこと。
能楽者の身体の内面性の深い部分を触発させ、「幽玄」や「妙」をつくりだすことのできる内部の原因は、「無心」や「妙」や「安位」です。と言う。
ところで、田中貴子教授が、「中世幻妖」で、世阿弥の口伝書が発見されたのは明治であって、観世寿夫が、「能と私」で、「観世流の能役者ならだれでもその(世阿弥の)著書を読んでいるだろうと思われがちですが、実は、江戸時代以降の能楽では全く誰も読んだこともなければ話題にさえ上がらなかったし、書物自体も散佚してしまっていたのです。(伝書が発見されても)能役者の方は依然無関心でした。」と書いていると紹介して、「世阿弥知らぬ能楽師」を指摘している。
「幽玄」や「妙」や「無心」が、どのような形で表現されていたのか分からないが、興味深い指摘である。
住大夫も、後輩に床本を読め、すべてそこに書いてある、と指導していたし、初代玉男が、床本を徹底的に読み通していたと強調していたのだが、芸の道は厳しいと言うことであろうか。
初期に、岩波講座「能・狂言」を買って多少勉強し、世阿弥や能や狂言の解説書や狂言師たちの著者を読んできたつもりなのだが、まだ、舞台を鑑賞していて、しっくりとはいかない。
年季の所為もあるかも知れないが、歌舞伎文楽のように行かないのである。
一番の障害は、どうしても、能の舞台を観ていても、ストーリーを追うと言うか、その曲のテーマなり物語を分かろうとする気持ちが強い所為ではないかと思っている。
ただ、多少助かっているのは、学生時代から、「平家物語」や「源氏物語」など古典を愛読し、能や狂言の故郷である京や奈良などの名所旧跡・古社寺などを歴史散歩したことかも知れない。
余談ながら、何度か観劇しているが、あの屋根のない青天井のロンドンのグローブ座では、カンカン照りの舞台で、漆黒の闇に登場するハムレットと父王の対面シーンを観る、まさに、シェイクスピアを聴くということで、能だけの世界ではないのである。
アマゾンの能楽をインターネットで叩いて、この本を見付けて、入門書のつもりで読んだのだが、結構、難しい。
本の帯に、”研ぎ澄まされた内面がつくる「妙」の空間へようこそ!”と銘打ってあることからも、普通の本ではない。
先日も、住大夫の本について、勝手ながら私見を綴ったが、正直なところ、住大夫の語る命の叫びの様な芸の深淵を、実感できるところまで行けなかったことも、鑑賞者として申し訳ないと反省しきりである。
演者の、長い大変な修行と修練を経て、血の滲むような切磋琢磨の結果生み出された芸能だと思うと、能の場合には、一層、その落差が激しくなる。
まず、能の深淵さは、「翁」の型付にでてくる
躰ハソル心 両眼ヲフサグ
翁は白式尉の面をつけており微動だにしないが、このメタファーを体現した舞。
興味深いのは、平家物語と同じ「語り」の芸術でありながら、能では、語っている本人が、「死者」であることという不条理、
「実盛」では、打ち落された自分の首を自分で洗うと言う矛盾。
著者は、「型」への信仰心に似た偏重に警告を発していて、型と内面性の関係を整理することが、あの深い世阿弥の芸術論に近づく道ではないかと思います。と言っている。
第1章の能の空間や、第3章の能楽の歴史などは、分かるとして、最終章の無への探求になると、分かったようで分からないモドカシサ。
世阿弥の言いたかったことは、「妙」は表現者の内的な原理であるのに対して、「幽玄」は、・・・あくまで鑑賞される側に重点がおかれているものであり、「妙」のように二つの場(表現者の原理と鑑賞者の印象)にまたがって機能する観念ではないと言うこと。
能楽者の身体の内面性の深い部分を触発させ、「幽玄」や「妙」をつくりだすことのできる内部の原因は、「無心」や「妙」や「安位」です。と言う。
ところで、田中貴子教授が、「中世幻妖」で、世阿弥の口伝書が発見されたのは明治であって、観世寿夫が、「能と私」で、「観世流の能役者ならだれでもその(世阿弥の)著書を読んでいるだろうと思われがちですが、実は、江戸時代以降の能楽では全く誰も読んだこともなければ話題にさえ上がらなかったし、書物自体も散佚してしまっていたのです。(伝書が発見されても)能役者の方は依然無関心でした。」と書いていると紹介して、「世阿弥知らぬ能楽師」を指摘している。
「幽玄」や「妙」や「無心」が、どのような形で表現されていたのか分からないが、興味深い指摘である。
住大夫も、後輩に床本を読め、すべてそこに書いてある、と指導していたし、初代玉男が、床本を徹底的に読み通していたと強調していたのだが、芸の道は厳しいと言うことであろうか。