熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

鉄道の旅の思い出数々あれど(海外 その1)

2016年08月13日 | 生活随想・趣味
   海外での生活は、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパと14年で、そのほか、海外関係の仕事で随分海外に出ていたので、かなり、鉄道に乗って移動する機会があった。

   一番最初は、フィラデルフィアへ留学した時に、ホスト・ファミリーを訪ねて、ローカル線で田舎に向かった時で、確か、大きなpenn 30th駅からローカル線で田舎へ出た時で、とにかく、至れり尽くせりの日本の駅のように表示板があるわけではなく、時刻表示があっても、まともにまともなホームから、まともな時間に出る保証はないので、随分苦労して、厳つい大きな列車に乗り込んだのだが、車内アナウンスもなく、駅には音もなく止まって音もなく発車するので、どこで下りて良いのか神経をとがらせて、駅の表示を確認しながら着いたのを覚えている。

   ビジネス・スクールの生活にも慣れてくると、趣味が頭を擡げ始めて、この2年間に、メトロポリタン・オペラやニューヨーク・フィル、ブロードウェイのミュージカルを鑑賞したくて、何回も、ニューヨークへ往復したのだが、この方は、幹線でアムトラックが走っているので、それ程苦労はしなかった。
   丁度、マジソン・スクエアの真下のペン・セントラル駅に着くので、正に、雑踏するニューヨークの心臓部で、ここから、メトロに乗って、リンカーンセンターやブロードウェイに出るのである。
   困ったのは、会社留学の貧乏学生であったから、特別な列車に乗れるわけがなく、学割の利いた鈍行に乗らなければならなかったので、オペラが跳ねてフィラデルフィアに着くのは、深夜の2時3時で、全く人通りのなくなった寂しい夜道を2キロほど歩いて寮まで帰らなければならなかったことである。
   当時、ニューヨークもフィラデルフィアも治安が最悪で、何かがあれば、大変だったのであるが、若かったから馬鹿をしたのかも知れない。

   帰るまでに、このアムトラックで、ワシントンとボストンだけは見ておきたいと思って往復したのだが、産声を上げてたった200年の偉大なアメリカの歴史の秘密を垣間見て感激しきりであった。
   フィラデルフィのインデペンデンス・ホールには、何度も訪れたのだが、非常に質素な木造の建物で、目の前数メートルのところに、独立宣言を起草したわが母校ペンシルベニア大学の創立者ベンジャミン・フランクリンやジョージ・ワシントンたちが、侃々諤々の議論を展開していたのかと思うと、感慨一入であった。

   このアムトラックだが、第1次石油ショックで、アメリカでも石油危機が勃発して、全ガソリンスタンドが1回に1ドル分しかガソリンを売らなかったので、起死回生して不死鳥のように蘇ったのである。
   METで何を見たのか記憶はないが、フィラデルフィアで、マリア・カラスとジュゼッペ・ステファノ、レナータ・テバルディとフランコ・コレルリのジョイント・リサイタルやフィッシャー・ディスカウの冬の旅などを聴いたのだが、その頃のことである。

   その後、一度、このアムトラックで、フィラデルフィアへ行ったことがあり、最近では、もう大分経つが、2008年にフィラデルフィアやボストンを訪れた時の模様は、このブログの「ニューヨーク紀行」に残している。
   この口絵写真は、その時のボストン駅のアムトラックの特急車両である。
   日本の特別車両の様子は知らないが、欧米の列車は、日本ののぞみのグリーン車のように味気なり車両や座席ではなく、もっと個人性を重視した雰囲気のある客車となっていて、高級感があって良い。

   この留学時代に、パリからの留学生がチャーターしたPan Am便の空き席が格安で提供されたので、これも格安のユーレイルパスを買って、ヨーロッパを鉄道旅行をした。
   貧乏旅行であったが、初めてのヨーロッパの2週間であったので、素晴らしい経験であった。
   その後、何度もヨーロッパを訪れて、ヨーロッパに長く住んで居たので、その時の鉄道の旅の思い出は、次稿に譲りたい。

   さて、留学から帰って、すぐに赴任したのは、ブラジルである。
   しかし、ブラジルでは、飛行機と車の生活で、鉄道に乗る機会はなかった。
   在住当時に、サンパウロの地下鉄が開通したので、何度か利用したことがある。
   車両が1両ずつ分離されていて車両間の移動が出来なかったこととか、駅の広告がなかったことくらいの印象は残っているが、治安にも問題があったので、殆ど利用しなかった。
   サントスから奥地へ、多くの日本移民が送り込まれたと言う鉄道を、見る機会を失して、一寸残念に思っている。

   もう一つ、印象深い鉄道旅は、香港から中国に入った1979年の旅である。
   鄧小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で、対外開放政策の実施が決まって、固かった中国の門戸が開いたのである。
  シンガポールの有力者の導きで、北京政府へ、開発プロジェクトの打診に出かけたのである。

   当時北京政府は、ホテルのキャパシティが限られていたので、ホテルの部屋に空室が出ると、入国ビザを発行していたので、随分待ったが、びくびくしながら無事入国して、北京飯店に滞在して、交渉した。
   政府には適当な事務所がないのか、役人たちは、ホテルの我々の部屋に来てくれたのだが、ビジネス体制など整っていないしシステムも全く違うので、中々埒が明かず、次にいつ来てくれるのか、全く分からず待機の毎日であった。
   合間を見て、折角来たのであるから、紫禁城や天台や頤和園を訪れたが、勿論、万里の長城などには行けなかった。

   ところで、香港の駅から、封印列車のような列車に乗って、中国の国境を越えて中国大陸に入った。
   40年近くも前のことなので、中国の深圳に着いたのか、他の都市に着いたのか記憶にないのだが、そこから、飛行機に乗り換えて北京に向かった。
   列車は、日本の車両と殆ど同じの4人掛けのボックス席で、途中、車内サービス嬢が回ってきて、初めて中国茶を飲む機会を得た。
   大きなマグカップの茶葉に熱湯をさして、頃合いを見て、茶葉を避けて飲むのだが、味は悪くなかったが、飲み辛かったのを覚えている。

   列車は、のろのろだったが、印象深かったのは、車窓に流れる美しい農村風景であった。
   文革の影響があったのかどうかは分からなかったが、丁寧に手入れの行き届いた田畑や働く人々の姿が、一幅の絵のように展開されていて、感激しながら眺めていたのを思い出す。

   ところが、終着駅に到着すると、駅の外には、びっしりと質素な身なりの中国人が、客の到着を待っていた。
   香港からの乗客は、香港人か香港在住の親戚なのであろうか、沢山の電化製品などの荷物を持ち込んでいたので、これを待っていたのであろう。
   先を急いで空港に向かったので、彼らの涙の再会姿を見ることはできなかった。

   とにかく、当時の中国は、実に貧しく、戦争直後の日本の姿そっくりで、その現状が、毛沢東の共産党政権でも、30年経った当時、何も解決されていなかったのを知って、驚きであった。
   それに比すれば、ICT革命とグローバリズムの潮流に恵まれたとしても、鄧小平の改革開放政策が効を奏して、この30年の成長発展ぶりは、正に、逆な驚異である。
コメント
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