熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

エマニュエル・トッド著「大分断 教育がもたらす新たな階級化社会」

2021年05月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   トッドは、この本で、
   エスタブリッシュメントと一般大衆との教育格差による階級闘争が、社会の大分断を引き起こしており、この分断によって目的を失い無能化した支配階級によって、政治経済社会が、迷走して、危機的な状態下にある。と説く。

   戦後の教育の発展は、社会全体が、楽天的な雰囲気の中で進み、能力主義の理想型として浸透し、それは民主主義の大きな前進として捉えられて、上層階級の門戸が下層階級に対して開かれたと言う味方とともに広がっていった。
   しかし、今日、教育の発展は止まってしまい、さらに、高等教育を受けているのは社会の一部でしかなくなり、特権的な職業に就くための一種の資格のようになり、貴族階級の称号であるかのようになって、高等教育の目的は精神的な解放でもなく、もはや、知的レベルの問題でもなくなってしまって、学業と知性の分断が起きている。この高等教育の機能の一つが、社会を階級化し、選別するものになってしまっている。と言う。
   今や高等教育は学ぶ場と言うよりも、支配階級が自らの再生産を守るためのものになり、マルクス主義的な階級社会は、元々は資本の所有に基づくものであったが、今日では、この階級に「教育」という新たなツールが加わり、マルクス主義的な階級社会の現代版が現出し、この教育による階級闘争が、社会の大分断を引き起こしている。と言うのである。

   最近の教育の現状や問題点については、随分書いてきているので蛇足は避けるが、トッドが述べているように、高等教育を「買う」という現象が顕著となり、大金を払ってハーバード大学に入学することも可能な時代であり、高等教育の場は、アメリカのアイビーリーグやトップ大学のの大学生の過半は、その親が、その卒業生であったり富裕層のエスタブリッシュメントやWASPだと言うから、まさに、支配階級エリートの再生産システム完備の閉鎖的な階級社会の砦となっている。
   日本では、これに比べれば、かなり、民主的で解放された平等なシステムだが、昔から、東大の学生の親は、一部上場企業の部長以上だとか報じられたことがあるのだが、超難関の中高一貫校を突破して、トップ大学を目指すべく、小学生からの塾通いなどを考えれば、子女への教育費の出費は半端ではなく非常に高額であり、並の家庭では到底無理で、子供の将来を決めるのは、まさしく親の経済力と知力の勝負となっており、エスタブリッシュメントの固定化が常態化している。
   この傾向は、私が大学生の頃、貧しい苦学生の多かったトップ国立大学の状況とは大きな違いで、功成り名を遂げた多くの同級生たちが、当時は、苦しい経済状況下で苦労しながらも、理想高く、天下国家を論じ夢を語っていたのを覚えている。アメリカのビジネス・スクールの同窓生たちも、地位と名誉のためと言うよりは、理想と誇りを持って、学ぶ喜びに燃えて学業に勤しんでいたと思う。そんな学び舎が、前世紀にはあった。

   問題は、政治的にも経済的にも特権的立場にある支配階級が、人間として存在することの正当性を得るために、何らかの目的を持っているかどうかだが、現在の支配階級は、歴史の中で道を見失い、目的を失い、理性を失い、何も見えなくなっている。これは、フランスだけではなく、アメリカもそうで、世界全体の現象だという。興味深いのは、それぞれ異なった文化を持っている国家で構成されているEUが、統一通貨ユーロを採用したことで、ユーロ圏では、共通の経済政策というのは機能する筈がなく、教育を受けた人々で構成されている筈の指導者層、中流階級がまさかここまで無神経さをあらわにするとは想像していなかったと述べている。
   高等教育の発展や不平等の拡大によって、共産主義など社会主義的な感情も宗教心も消滅してしまい、ナショナリズムという理想も団結した共同体への愛国心も、そして、国家的なレベルの集団的な感情というものもなくなり、個人しかいない社会になってしまった。

   昔のエリートは、非常に頭の良い、高学歴で社会的責任を持ち、同時に国家に対して責任感を持った人々であったが、今のエリートは、「集団エリート」と呼ぶべきもので、高等教育を受けた全人口の20%程度の人々、必ずしも優秀ではないのだが自分たちのことをエリートだと思っていて、ある種の文化的な集団で、似たもの同士の集まりで、皆が同じような思考を持っており、欧米の先進国では、これらの集団エリートに対して遅れた大衆がいると言う構図になっている。
   しかし、トッドは、最近の「黄色いベスト運動」を例に挙げて、この運動の指導者たちは特に高等教育を受けた人々ではなかったがとても賢くて、彼等が対した人々は、エリート集団であるグランゼコールを出たが愚か者たちで、この階級闘争で、知性の転換があったとして、マクロンを筆頭にしてフランスのエリートたちを馬鹿者呼ばわりして憚らない。

   今日の日経で、FTのマーティン・ウルフが、中国にアメリカの衰退を揶揄されることに関して、
   ”安定した自由民主主義なら、トランプのような必要な資質と能力の総てを欠いた人物を指導者に選ぶことはなかったであろう。”と述べている。
   また、中国についても、”14億もの知的な人間を、たった一人が支配する一つの党の支配下に置くことが最良の道であるはずがない。”とも言う。
   ポピュリストや専制的な独裁者、無能な小粒の指導者たちが統べている現在のグローバル世界を不幸と言うべきか、次代の理想世界への踊場でのスタンドバイとみるべきか、もたもたしていると、宇宙船地球号が、吹っ飛んでしまう。

   ところで、トッドは、更に、自由主義貿易についても、この教育格差との問題に絡めて論じており、以前にも触れたように、トランプをかなり認めて論陣を張っているので、これについては、次に論じる。
   いずれにしろ、教育格差が社会を大分断しており、指導階級エリート集団の著しい劣化が、民主主義なりグローバル政治経済社会を窮地に追い込んでいると言う論点には、頷かざるを得ないと思っている。
コメント
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