熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

井上 章一 「京都まみれ 」

2021年05月29日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   京都については、沢山の本が出ていて、どれを読んでも、何が真実か分からないし、確実に京都が分かる本がない。
   自分好みの本を読んで納得する以外になく、良くも悪くも、実際に京都に行って実感して確かめることだと思っている。

   私など、隣の京阪神、実際には、西宮、宝塚、伊丹で、生まれ育って30近くまで過ごして、その間、京都では、大学生活4年と仕事で3年間過ごした程度で、長い海外生活や関東での間、頻繁に訪れてはいるが、いわば、間接的な旅人感覚でしか、京都を知らない。

   ところで、この本には、随分色々な視点から、京都を語っていて、非常に興味深いのだが、今回は、最終章「老舗の宿命」での冒頭、「ベストは同志社」という項で、著者が、調査で、町家を訪れた時に、「ここらあたりでは、息子が京大にはいったら、近所から、かわいそうやなあ、気の毒やなあ言うて、同情される」と言われたと書いていることについて、雑感を述べてみたい。
   何故、京大はダメかというと、「京大に入る子は、京都に、いつかへん。卒業したら、遠いところへ行ってしまう。店も、つがへんやろ、あの店、もう跡取りがおらんようになって、気の毒がられている、そういうことや」と言うことで、京大より、京都志向の同志社の方が良いと言うことらしい。
   確かに、私の同窓でも、現役時代には、地元京都など関西や海外と言った調子で各地に散らばってはいたが、東京などの方が多かったように思う。

   最近は、変ってきたようだが、代々続いた商店では、跡継ぎに高い学歴を与えたがらず、高等教育に根ざした能力主義の世界へ、後継者が取り込まれることを嫌悪していて、このあいだまでは、町人文化の基層をなしていて、精々、京都一中止まりだったという。
   尤も、20世紀の後半には様相が変って、名門の商家が、跡継ぎであっても大学くらいは行かせた方が良いと考えるようになって、今時、大卒出でないといい嫁が来てくれないと、その程度には、老舗の織りなす社会にも、学歴主義が浸食してきたという。

   私の場合は、普通の家庭と言うか、平凡な一般庶民の家に育ち、私学へ行く経済的な余裕がなかったので、何の躊躇いもなく、行けそうだったし勉強したかったので、京大に行った、それだけであった。
   継ぐべき何もなかったので、平々凡々と、大企業に就職して、これも、平凡な人生を送ってきた。
   変ったことと言えば、途中で、海外留学を命じられて、アメリカのトップ・ビジネス・スクールでMBAを取得して、このフィラデルフィアの大学院を出た御陰で、ロンドンパリを股にかけ・・・と言う学生歌を地で行き、切った張ったの国際ビジネスに明け暮れたということであろうか。
   勿論、途中で、血の滲むような苦難や不運を潜り抜けての人生であったのだが、今思えば、波に揉まれて、流されてきただけのような気がしている。
   従って、私には、京都の老舗の大店の経営や跡継ぎ問題については、何も分からないし、持論を挟み込む余地もない。

   ただ、ここで考えたいのは、日本の特殊な中小企業の経営風土なり、政治や経営など上に立つリーダーにとって、教育が如何にあるべきかと言うことである。
   結論から先に言うと、欧米では、学歴が高いほど高い地位に就き報酬が高いという厳粛なる事実から推しても、教育程度が、決定的要因となっていることである。
   最近のアメリカの大統領では、トランプだけは大卒だが、クリントンもブッシュもオバマもバイデンも、総て、大学院を出ており、欧米の政治家や政府高官は勿論、大企業の経営者などリーダーの大半は、大学院を出て、博士号や修士号を持っており、大学しか出ていない日本のトップ集団とは大いに違っている。
   それに、欧米の場合には、文理両方のダブル・メイジャーや学際の学位取得者、T型人間、π型人間など多才な学歴を積んだリーダーが多いのも特徴であろう。

   私の場合、自分自身のビジネススクール(経営修士コース)の経験と、娘たちが経験したヨーロッパの高校、大学、大学院を横から見た知識しかないので、口幅ったいことは言えないが、
   欧米の教育では、大学はリベラル・アーツを学ばせる教養コース的な位置づけで、専門は、大学院の修士・博士課程、プロフェッショナル・スクール(大学院:ビジネス、ロー、エンジニアリング、メディカルetc.)で学んで習得すると言うことで、この過程を通過しなければ専門知識なり高等教育を受けたことにはならない。
   グローバル・ビジネスをしていて、欧米のカウンターパートと比べて、特に、日本のトップやビジネス戦士が引けをとっているのは、リベラル・アーツなどの知識教養の欠如と程度の低さで、この初戦の人間力の差で負けてしまっていることである。
   遅れていて、行け行けどんどんの、キャッチアップ時のJapan as No.1の時代は、それでも良かったが、現在、益々、落ちぶれて普通の国になって、先進国の後塵を拝し始めると、一気に制度疲労を起こしてしまうのは、その辺りのリーダーの質に問題があるのかも知れない。

   後継者の問題に絡めて、フランスの最高学府エコール・ポリテクニークについて、触れておきたい。
   ヨーロッパに駐在していたときに、パリのエンジニアリング会社の社長と親しくなって、聞いたのだが、
   エコール・ポリテクニークを卒業すると、すぐに、官庁でお礼奉公としてしばらく働き、その後、自分のように、若年で未経験でも、しかるべき民間会社の社長として天下るのだと語っていた。貴族が廃止されたフランスでは、代わって、ポリテクやENAなどのトップ最高学府が、そのような今様貴族たるエリートを輩出していたのであろう。
   映画「戦場にかける橋」でも見たように、欧米では、将校は絶対に兵卒の仕事はしないし、学歴によって厳しく規定された任務を遂行すると言う身分社会が定着している。

   良いか悪いかは、文化文明の違いで別問題だが、先の「ベストは同志社」と言う異次元の京都の常識との落差の激しさが面白い。
   8年前に、「高学歴軽視の日本と、必死に高等教育を推進するオバマ」を書いて警鐘を鳴らしたが、
   大学院卒を不遇に追い込んで平然としている高等教育軽視のツケは、必ず、文化文明を蚕食するはずである。

   
コメント
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