熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

「男はつらいよ」・・・寅さん映画を楽しむ

2007年01月14日 | 生活随想・趣味
   時間に余裕があれば、土曜日NHK BS2で放映されている「男はつらいよ」の寅さんシリーズを楽しんでいる。
   欧州在住時に面白さを知り、映画やビデオ、レーダーディスクで、全48作を見ているのだが、改めて見ると相当の部分は忘れてしまっていて、また、新たな発見があってこの映画の魅力を再認識している。

   昨夜の放映は第46作「寅次郎の縁談」で、もう、後は2作品しか残っていない。
   1993年12月の放映であるから、日本のバブル崩壊と長期不況の様相が色濃くなり始めた時期で、この映画でも、満男が何十回就職試験を受けても落ち続けて、居た堪れなくなって、とうとう家出して瀬戸内海の小島で老人達に囲まれて生活する設定になっている。
   この少し前あたりから、新卒の学生達の就職難が始まって、少子高齢化の世の中の真直中でありながら、多くの若い就職浪人たちがフリーターやニートとなって、あたら人生を棒に振る悲しい社会現象が始まったのである。
   安倍総理は、美しい国、美しい国と壊れた蓄音機のように繰り返しながら、再チャレンジ出来る社会を目指すとしているが、真っ先にやるべきは、国政の舵取りを誤った為に生み出されたこれらの若き人的資源の膨大な損出を回復すべく万全を期すことで、これを怠れば日本の明日は暗い。
   
   ところで、この映画は、老人ばかりの島で働き手を失った瀬戸内の離島の生活を活写しながら、当時の地方の衰退と老人問題を浮かび上がらせている。
   私は、その頃から、仕事を通じて全国を歩いていたので、北海道の稚内から沖縄まで、色々な地方で、時には寅さんの旅の雰囲気を味わいながら、徐々に落ちぶれ廃れていく地方の疲弊を真近に見聞きしていた。

   寅さんシリーズが始まったのは、1969年8月、日本の経済成長が加速し始めて経済大国への道を走り始めた頃で、翌年に大阪万博があって日本人の世界への関心が一挙に花開いた。
   この寅さん映画でも、寅が就職列車に乗って東京へ向かう少年を見送るシーンがあったが、まだ、日本人は貧しかったけれど、今日よりは明日、明日よりは明後日、と念じながら必死に頑張っておれば必ず良くなると言う希望を持っていたし、経済成長も時には二桁で、現在のように成長率0点何%で一喜一憂すると言う悲しい時代ではなかった。
   この26年間を長いと見るか短いと見るか、とにかく、この間に、日本経済はテイクオフして急速に上り詰めて超大国となり、またあっと言う間に、バブルで急降下して今日の普通の国に戻ってしまっているが、変化が急速すぎるけれど、この寅さん映画は総てこの姿を記録している。
   
   私の言いたいのは、この「男はつらいよ」の寅さんシリーズは、映画の卓越性は勿論だが、これらの48作は、1969年から1995年までの日本の経済社会とそこに生きた日本人の泣き笑いの人生を極めてビビッドに活写している記念碑的な映画であると言う側面を色濃く持っている。
   この期間の内、私自身は、実際には14年間は海外で生活していたので、その前後を含めての日本の原像ではあるが、今でも、日本のあっちこっちに、寅さんがひょこっと現れて来そうな風景を見つけて懐かしさを噛み締めている。

   もう一つ、私にとって素晴らしいのは、高羽哲夫氏のカメラワークで、日本の故郷の原点とも言うべき風景や風物を実に愛情を込めて美しく撮っていることで、野辺の花や風の囁きにも限りなき詩情を感じていつも感激しながら見ている。
   私の田舎風景の原点は、子供の頃の宝塚の田舎風景と、学生時代から歴史散歩に明け暮れた京都と奈良等の風景と旅で見た他の地方の風景だが、少しづつ消えて行く懐かしい故郷の雰囲気が堪らなく胸を締め付ける。

   こんな素晴らしい風景を、やはり、色々な国を回りながら経験しており、時には、異国での一人旅は限りなく寂しく辛いが、そんな時に見る自然の囁きや温かい人間の温もりがする風景に接すると堪らなくなることがある。
   
   ところで、今回のマドンナは松坂慶子で、12年前の浪花の芸者ふみ役とは違った魅力を見せていて中々素晴らしい。
   寅にお礼がしたいといって、何がいいかと聞く所で、
   「ねえ、何かプレゼントさせて」「いらない」
   「セーターは?」「着ない」
   「ネクタイは?」「締めない」
   「コート?」「羽織らない」
   「じゃあ」
   一寸うつむいて
   「温泉にでも行く?」「オレェ、風呂へは入らない」
   「もう、意地悪!」
   と寅の手をひねる。

   このシーンの、恥じらいながら意を決して「温泉にでも行く?」と言うときの松坂慶子の何とも言えない色気と女の魅力に素気無く答える寅のアホサ加減がこの映画の良さかも知れない。

   それに、今回、松坂慶子の葉子の父親役の元外国航路の船長の島田正吾の粋なマドロス姿が実に味があって良い。
   NHKの朝ドラでひらりのお祖父さん役でシェイクスピアが好きでイギリスへ遊学する街の文学者役を粋にこなしていたが、今回はもっとバタ臭くて、松坂とタンゴを踊る。
   島田の舞台を観たのは、新国劇が一回と歌右衛門との「建礼門院」だけだが、滋味深い素晴らしい役者であった。
   亡くなった永山会長が、舞台を終えて帰途に着く島田を歌舞伎座の前の車まで出て見送っていたのを思い出す。

   ところで、この島田正吾は、台詞が入らなくなれば舞台を下りると断言して100歳寸前まで現役を務めた。
   このプロ精神の凄さは特筆ものだが、悲しいかな、歌舞伎の世界では、プロンプターの大声がないと舞台に立てない人間国宝など重鎮役者が可なりいらっしゃるのはどうしたことであろうか。
   
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敬愛なるベートーヴェン

2007年01月13日 | 映画
   シャンテシネで、「敬愛なるベートーヴェン」を見た。
   可なり面白い映画だと思ったが、大体、日本語の題名から、こんな日本語の表現があるのかと疑問に思ったが、親愛なら親愛なると言うが、敬愛なら敬愛するであろう。
   昔は、洋画の日本名は実に凝っていて意訳そのものであったが、その後、外国語の日本読みそのままになったり大変な苦労をしている。
   旅情などイメージを膨らませてくれるが、デヴィッド・リーンの意図したSummertimeのニュアンスとは一寸違っている。Shakespeare in Loveの「恋に落ちたシェイクスピア」は中々上手いと思った。
   今回の原題は、「Copying Beethoven」で、ベートーヴェンの作曲した原作の楽譜をまともな楽譜に写譜することである。 

   初演4日前だと言うのに、第九の第4楽章の合唱パートが出来上がっていないので、慌てた出版社シュレンマーが音楽学校で最高の学生写譜師を依頼するが送られてきたのは女子学生アンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)。
   しかし、ベートーヴェンが、彼女が楽譜の一部を長調から短調に変えて写譜したのを詰問すると、「貴方ならこうする筈」と反論されて、彼女が只者ではないことを知って写譜師として認め、二人の奇妙な二人三脚の作曲活動が始まるのである。
   ベートーヴェンを尊敬し作曲をしたい一心の彼女にはこのコピイストの仕事は、正に千載一遇のチャンスで献身的に尽くすので、耳が聞えなくなって荒んで狂気寸前、正気を失っていたベートーヴェンが少しづつ人間らしくなって行く。

   感動的なのは、第九の初演で、指揮に自信のないベートーヴェンを助ける為に、シュレンマーに頼まれて、客席にいたアンナが舞台に上がって、楽団員の一番後ろの床に跪いてベートーヴェンにテンポと入りの合図を送るシーンで、ベートーヴェンは、彼女の手の動きを確かめながら指揮をして感動的な演奏を完遂する。
   耳の聞えないベートーヴェンには、総立ちになって感極まった観衆の熱狂的な歓声や拍手は聞えない。アンナが近づいてベートーヴェンを振り向かせて熱狂する観客の姿を見せると、無音だった画面が割れるような歓声に変わる。
   
   もみくちゃになったベートーヴェンがアンナを振り返って、二人でやったと狂喜する。
   素晴らしい第九を演奏したのは、字幕によると彼の地で私が通いつめたロンドン交響楽団。この10分程だが、こじんまりした何処かヨーロッパのオペラハウスであろうが、舞台背景も音楽も素晴らしい「交響曲第9番合唱つき」の映画シーンであった。
   後日、ベートーヴェンは、読みながら彼を導いた第九の総譜に献辞を書き込んでアンナに感謝を込めて渡す。

   ベートーヴェンには謎が多くて、この若い女性のコピイストも創作ではあろうが、ベートーヴェンを限りなく尊敬し献身的に尽くしたこのような素晴らしい人がいても当然だと言う気もしている。
   トロイのヘレンを演じたダイアン・クルーガーは、実にチャーミングな女優である。

   
   ベートーヴェンを演じたエド・ハリスも、私の印象から言えば遥かに人間的で優しいとは思ったが、素晴らしいベートーヴェン像を作り出していて、楽想が止めどもなく湧いて来て爆発しそうな雰囲気を良く出していた。
   当時の人には理解されずに総スカンを食った大フーガの演奏の後で倒れて不帰の人となるが、駄作を殆ど作らなかったベートーヴェンの偉大さを誰も凌駕し得ていない。

   この偉大なベートーヴェンは、ハイドンやモーツアルトのようにパトロンに仕えることなく正にプロフェッショナルな音楽家として、民衆のために壮大な音楽を作曲し続けた。
   窓のない隣の部屋に住む夫人が、誰よりも早くベートーヴェンの音楽を聞ける喜びを語りながら、最初の曲が交響曲第7番だと言って口ずさんでいたが、これも、ラッパの様な耳栓を詰めて音を増幅しながら作曲に奮闘する隣人ベートーヴェンの一面かも知れない。
   何故か、急に、もう一度アマデウスの映画も見たくなってしまった。
   ウィーンには面影が残っていないのでプラハで撮ったと言うモーツアルト映画だがやはりあの当時のヨーロッパの雰囲気が良い。
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METライブビューイング・・・A.ネトレプコの「清教徒」

2007年01月12日 | クラシック音楽・オペラ
   昨夜、ル・テアトロ銀座で、METライブビューイングの第二回目のベッリーニの「清教徒」が上映された。
   オペラ・ファンには堪らない演目なのだが人気の所為か、席は半分程度の入りで歌舞伎座での「魔笛」と比べて静かであった。
   録画はワイドでないので、大きなMETの舞台が非常にコンパクトな感じに映っていたが、やはり、映画には適した縦長の劇場なので歌舞伎座(次の新橋演舞場)よりはこのMETライブ・プロジェクトには向いている。
   画質は極めて素晴らしいが、サウンドの方は、やはりスピーカー音でキンキンした感じで凄いバリトン・フランコ・バッサルロ(リッカルド)の声など割れてしまっていたのが残念であった。
   しかし、やはり、METでのチケットがソールドアウトと言うだけあって大変素晴らしい舞台で、ネトレプコの圧倒的な歌唱と熱演が特筆ものであった。
   ライブ放映の魅力と言うべきか、2回の幕間を利用して、アメリカの誇る大ソプラノで元MET支配人のビヴァリー・シルスが解説し、ルネ・フレミングが舞台裏を案内しながら、2幕の「狂乱の場」で熱唱するネトレプコの楽屋を、その前後に訪ねてインタビューする大サービス振りで、新支配人ゲルプの篤い意気込みを感じてビックリするばかりである。

   このオペラは、17世紀イギリスの清教徒革命時代を舞台にしたもの。清教徒派の領主の娘エルヴィラ(ネトレプコ)が王党派の騎士アルトゥーロ(エリック・カトラー)と結婚することになったのだが、その当日、アルトゥーロが囚われの身となっている元王妃エンリケッタに偶然出合って救出する為に彼女を連れて出奔してしまう。アルトゥーロが結婚式を蹴って逃げてしまったと思ってエルヴィラは、正気を失って狂乱する。その後、アルトゥーロが帰って来て囚われるが王家が滅亡したと言う報が入ってハッピーエンドとなる。
   これに、エルヴィラの父が許した結婚相手・清教徒派の副官リッカルドが絡むのだが、何れにしろ単純な筋書きだが、とにかく、ベルカントのベッリーニ節は全編に亘って実に美しい。

   ネトレプコについては、インタビューで、イタリアの大ソプラノレナータ・スコットが狂乱の場などを語りながら最高のエルヴィラ歌いだと太鼓判を押している。
   ルネ・フレミングが、ネトレプコに、難しい歌でも何でもないように普通に歌っているように見えるがと聞くと、はぐらかして、カメラが何処にあるか知っているので顔が歪まないように気をつけていると言って、このようにと言いながら唇を歪める茶目っ気を見せていた。
   今日では東西一のソプラノであるフレミングが、狂乱の場で、階段を下りながら歌う姿や仰向けに寝転んでオーケストラ・ピットに殆ど腰から上を投げ出し上半身を宙に浮かせながら素晴らしい歌を歌うネトレプコに驚嘆しながらその秘密を聞いていたのが印象的であった。

   狂乱の場が終わった後で、ルネに印象を聞かれて言ったネトレプコの第一声が「疲れた。」と言うこと、30分間ぶっ続けで歌って演じて舞台を走り回ったのである。
   ビヴァリー・シルスが、先生にあの狂乱の場は、何の演技もする必要はなくとにかく美しく歌うことを心掛けよと教えられたと言っていたのが対照的で面白いが、それだけネトレプコは大役者であり大歌手であると言うことであろう。
   ビヴァリーが、「あんなに上手く歌えるのだからエルヴィラが可愛そうだと同情する必要はないわねえ。」と冗談交じりに言っていたのが面白い。

   ネトレプコが、赤いネッカチーフを巻いたピオニールの模範ガールであった子供時代や、オペラを総て聴きたくてマリンスキー劇場の床掃除をしていた音楽学生時代の話を語っていたが、ギルギエフが才能を認めてアメリカに紹介した話など、今回は色々な勉強が出来て面白かった。
   ネトレプコの英語は少し癖があるが分かり易くて親しみが湧き、話し方もアメリカよりはヨーロッパ的だが穏やかで落ち着いていて中々チャーミングである。

   ところで、舞台はエリザベス女王の後の混乱期のイギリスだが、セットや衣装は当時の設定の非常にクラシックな美しい演出。バックを支える合唱が非常に美しく効果的であり、エルヴィラ以外の男性歌手も、リッカルドの「ああ永遠に私はあなたを失った」やアルトゥーロの「愛しい乙女よあなたに愛を」等のアリアも実に素晴らしく、それに、第二幕の狂乱の歌の後で、エルヴィラの叔父ジョルジョ(ジョン・レイリー)とリッカルドが歌う二重唱「ラッパの響き」等は感動的であった。
   私は、唯一のイタリア人歌手リッカルドのバッサルロの素晴らしいバリトンを聞いていて往年のピエロ・カップッチッリのMETでの舞台を思い出していた。
   指揮者のヒューストン・オペラのパトリック・サマーズについては、ネトレプコが助けられたと感謝していたしルネも褒めていたが、非常に端正な指揮のような印象を受けたが、コベントガーデンのロイヤル・オペラで一度聴いたような気がする。

   ところで、今回のこのMETライブビューイングの録画は、そのまま、ビデオにして販売されるのではないかと思われる。
   新支配人のゲルプのイノベイティブな企業家精神の発露で、素晴らしいオペラを広く映画公開してファンの裾野を広げ、同時に記録と普及を両立させて、上質なエンターティンメントの新しいあり方を示す、正に一石数鳥である。
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ニューヨーク・タイムズの戦略的イノベーション・デジタル電子版

2007年01月11日 | イノベーションと経営
   何か世界的な動向をチェックしたい時には、必ずニューヨークタイムズ(NYT)の電子版を開いて読むことにしている。
   最近読んだハーバードBSPのB.ゴビンダラジャン&C.トリンプル著「戦略的イノベーション」に、NYT社が、この電子版を発行している独立採算会社であるNYTDを如何に立ち上げたかを戦略的イノベーション論的に取り上げていて興味深いので多少考察を加えてみたい。

   この本は、ベンチャー等ではなく、大企業が戦略的イノベーションを追求する為にはどうすれば成功するのか、と言った視点から書かれた経営学書。
   戦略的実験事業は、社内の独立事業部門にする方が良いとして、この新規事業部門と既存のコア事業部門との関係などを分析しながら多くの観点から成功戦略を提言している。

   面白いのは、総ての生命体が持っている生物学的DNAと同じ様に、企業も組織的DNAを持っており、戦略的イノベーションを追求し新規事業を立ち上げる時に、これが益になったり害になったり、コア事業が維持しているDNAに如何に対処するかが大きな問題となると言う指摘である。

   NYTの場合は、デジタル電子版は、本紙とは多くの違った側面を持つ事業であるにも拘らず、当初はタイムズ本紙の組織的DNAをそっくり受け継いでスタートした。
   ところが、本紙の影響が強すぎて途中で不都合であることが分かったので、殆ど完全にDNAを入れ替えた。NTYとは全く独立したIT、人事、財務機能を、自前で確立して独立した経営を志向したのである。
   その結果、遥かに高い独立性を持つようになったのだが、その為に新境地を切り開いて黒字転換し、今日では全体の30%近くの貢献度を持つに至っていると言う。

   NYTの電子版事業は成功した例ではあるが、多くの大企業は、コア事業を営む本体の組織的DNAが強力すぎて、戦略的イノベーションである新規戦略的事業を見殺しにしてテイクオフに失敗するケースが多い。
   雨後のたけのこのようにIT革命に沸いた頃には他の新聞社もデジタル事業に参入したが、その後のITバブルで失敗して、辛くも事業統合を免れて独立会社として残ったのはNYTDだけだと言う。
   
   ワシントンポストやロサンゼルスタイムズ等の電子版も良く読むが、やはりNYTの電子版は、動画やアーカイブの扱いなど充実していて実に素晴らしく、英国のファイナンシャルタイムス(FT)の様に購読者のみに解放して殆どの記事をブロックして見せないと言う馬鹿な戦略はずっと以前に放棄している。
   このFT戦略だが、Googleが何故これほどまでに成長発展したか、そして、マイクロソフトがリナックスの追い上げに苦しみ、ブリタニカがWikipediaにお株を奪われつつある等オープンソースの追撃が示しているビジネスモデルの変化が分かっていないのである。
   電子版が、これまでの報道機関としての新聞紙事業とは全く違った別な革新的な報道媒体であると同時に、新しい別な事業である側面に早く気付いたNYTDの勝利と言えよう。

   日本の場合は、日経が遅ればせながらNYTDを後追いして電子版事業の新規展開に踏み切ったが、日本語と言うバリアがあるので競争には晒されないだろうが、早ければ早い方が良い。
   それにしても、他の日系総合紙のホームページは、本紙の宣伝媒体と言う程度にしか思っていないのか、本紙関連のごてごてした総花的な項目は多いが、肝心の記事については客受けするお粗末な記事のダイジェスト版ばかりで殆ど役に立たないし、それに記事掲載が遅すぎる。
   
   ところで、重要なのは本紙と電子版との関係、言い換えれば、本社とNYTDとの関係で、NYTDにとっては、NYT紙のコンテンツ、ブランド力、信用等活用できるのだが、ネットでNYTの記事を無料公開するのであるから、NYT社の販売部門とは大変な軋轢を引き起こしし、広告部門との競合も問題があった。
   しかし、電子版の強みは、「コンティニュアス・ニューズ」機能で、印刷版の出版サイクルに縛られずに、世界中から絶えず最新のニューズを集めて流し続けられることで特ダネを抜かれる心配がなくなった。
   それに、印刷版はローカル的で古参の広告主主体だが、電子版の読者は全世界で、ネット公告専業の代理店を立ち上げてハイテク企業中心の公告を取った。また、本紙の読者は全セクションを総覧する傾向があるが、ウェブ読者はより絞り込んだ情報を検索する傾向がある。
   変幻自在のインターネット環境にあるために、NYTDの事業計画やビジネス戦略も頻繁に書き換えられておりイノベーションは日進月歩で、これがNYT本紙の強力な刺激となっている。
   
   本紙と電子版の協力関係は、本紙のコンテンツ借用、公告のセット販売、コンテンツの共同開発、案内公告での協調等前向きの協力関係が相乗効果を上げており、新規の戦略的イノベーションであったNYTDが、一人立ちしてコア事業に貢献しつつある。

   戦略的イノベーションの場合は、当初は本体にとって大変な重荷であるが、成功すればコストが縮小して利益に貢献をする。
   しかし、このNYTの場合は、ニュース媒体が多様化してきて、既に印刷版日刊紙が頭打ちになって来ている現在、IT革命の波に乗って、NYTDに本体の比重が移って行くのではないであろうか。
   GoogleやyouTube等の動きを見れば今後の方向性は明確であるし、報道機関の豊かな情報量とコンテンツ、それに全世界に張り巡らされた膨大な組織体制を考えれば、革新的なビジネスモデルの構築次第では、それを凌駕する事業の展開は可能だと思われる。
   


      
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初春大歌舞伎・・吉右衛門の『俊寛』

2007年01月10日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   新春の歌舞伎座は何となく華やいでいて中々雰囲気が良い。
   それに、最初の「松竹梅」から始まって、中々素晴らしい豪華な舞台が続いている。
   久しぶりの勘三郎と玉三郎の「喜撰」など楽しい舞台もあるが、やはり、どっしりとした重厚な「俊寛」と「勧進帳」が重心を占めていて魅せてくれる。

   近松門左衛門が「平家物語」から発想を得ながらどのような「平家女護島」の『俊寛』に脚色しているのか興味を感じながら、いつも歌舞伎や文楽の舞台を観ているのだが、赦免された流人を迎えに来る上使を悪人と善人に分解して登場させたり、実在しない丹波少将成経(東蔵)の妻・海女千鳥の登場させて話に奥行きを出している辺りは流石に人気劇作家だけあって面白い。

   俊寛を演じる吉右衛門は播磨屋のお家芸の一つだから流石に上手い。岩山に上って船を見送る俊寛は弟子の玉女が遣ったが、玉男の最後の俊寛の舞台を思い出しながら観ていた。
   吉右衛門は、今では流行らない犠牲の精神を示して人のために生きようとする清々しい人間らしさを観て欲しいと言っているが、この辺りが、近松の劇作の奥行きの深さであろうか。
   平家物語での鬼界が島での赦免の場では、丁度、自分の名前だけ赦免から外されているのを知って手を摺り合わせながら地面をのた打ち回って号泣する吉右衛門のあの姿どおりの、弱くて悲しい俊寛しか描かれていない。
   天をあふぎ、地に伏して泣きかなしめどもかひどなき、なのである。

   平家物語で、俊寛の性格について描かれた面白い描写がある。
   俊寛の祖父源大納言雅俊卿は、武門の人ではないが腹あしき(立腹しやすく短気な)人で、京極の自宅の前を人の通行を殆ど許さず中門にたたずんで歯を食いしばって怒っていた。その孫であるから、俊寛も僧ではあるが心もたけく、無意味な謀反に加担したのだと言うのである。
   他の二人は信仰厚く島に熊野権現を祭って拝んでいたが、僧である俊寛は一切無関心であった。また、二人の赦免の時も、少将にお前の父親故大納言成親のつまらぬ謀反のためにこうなったのだし、三人は配所も罪も同じじゃないかと激しく抗弁する。それに少将は重盛の縁戚なのだが、この平家物語も、実際には鹿の谷山荘は俊寛のものではないなど多くの虚構を含んでいるが、ここから俊寛像を知るのも面白い。

   近松の舞台では、重盛の意向により九州の備前の国まで帰参を許されていることになっているが、平家物語では、俊寛がせめて船に一緒に乗せて九国まででも帰してくれと訴えている。   
   この近松版では、第二の使者丹左衛門基康(富十郎)が重盛の意向を伝えて俊寛の乗船を許すが、平家物語では、確かに重盛が三人同時の赦免を願うが、清盛が「自分の取成しで一人前になったのに、こともあろうに自分の山荘鹿の谷で談合して良からぬことを図ったのは許せない」と言って断固拒否している。
   この山荘で、後白河法皇等と共に瓶子をひっくり返して平家が倒れると喜んで囃し立てて瓶子の首をもぎ取っては狂乱していたのであるか、それも当然で、赦免を望むこと自体が本来おこがましいと言うことである。
   
   ところで、哀れなのは、船が鬼界が島を離れようとする時の俊寛の「平家物語」の描写である。
   「船出すべし」と出帆の準備が始まると、俊寛は、船に乗りては下り、下りては乗り、一人決めの帰り支度を始める。
   とも綱解いて船押し出せば、俊寛は、綱にとりつき、腰になり、脇になり、たけの立つまで引かれ出で、たけの及ばずなりければ、「俊寛をよくも見捨てるのか。せめて九州まで。」とかきくどくが、都の使いが、船べりの手を引き離して漕ぎ出す。
   渚に上がって倒れ伏し、幼児が母を慕うように足摺して「連れて行け。乗せて行け。」おめきさけべども、漕ぎ行く船のならひとて、あとは白波ばかりなり。
   いまだ遠からぬ船なれども、涙にくれて見えざりければ、高きところに走りあがり、沖のかたをぞまねかれける。
   日が暮れても波に足を洗わせ夜露にぬれながらそのまま、粗末な臥所にも帰らず夜を明かしたのである。

   平家物語では、一人残された俊寛を、可愛がって召し使っていた童・有王が後年鬼界が島に会いに来るが、そこで俊寛は絶食して弥陀の名号を唱えながら息を引き取る。娘の話など「有王島下り」の段は、涙なしには読めない。
   
   ところで、平家物語の単純で向こう意気の強い自立的な俊寛が、近松の戯曲では、リアリズムから程遠い、慈悲深い長老的な人物として描かれている。
   吉右衛門は、鬼界が島と言う都から遠く離れた流罪地を舞台に借りながら、殆ど日常的に近い人間生活の愛憎・喜怒哀楽・人情の機微などを俊寛の逸話を紡ぎながら、大きな心の葛藤と起伏を極めてダイナミックに演じていて感動的である。
   この吉右衛門だが、夜の部では、「金閣寺」の舞台で、兄幸四郎を相手に、素晴らしい真柴筑前守久吉を演じていてこれも特筆ものである。

   前回の『俊寛』は幸四郎であったが、同じ父の舞台で学び同じ兄弟でも演技のニュアンスが大分違うのが面白い。
   
   敵役赤っ面の瀬尾太郎は前回も段四郎だが、灰汁の強い憎々しさが中々どうに入っていて上手く、凛とした正に正義が衣装を着けたような格調の高い白塗りの上使基康の富十郎との対比が利いていて上出来であった。
   海女千鳥は、前回の魁春の初々しさも良かったが、今回の福助の何ともいえないコミカルでローカル色一杯の千鳥も味があって面白かった。
   東蔵の坊ちゃん貴族の二枚目成経、控え目だが存在感のある康頼の歌昇など脇役も俊寛の吉右衛門をしっかりと支えていた。
   
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アルフォンス・ミュシャの華麗な世界・・・高島屋日本橋店

2007年01月09日 | 展覧会・展示会
   正月早々、日本橋高島屋で、「アルファンス・ミュシャ展」が開かれていて、華麗な女性達の姿を描いたアール・ヌーヴォーの素晴らしいリトグラフが沢山展示されていて華やかな雰囲気を醸し出している。
   チェコの画家だが、ヒットラーと同じ様に才能がないと言うことで、故国の美術学校で入学を断られているのが面白いが、パリに渡ってゴーギャン等と接触しながら勉強を続けて、グラフィックデザイナーとして成功をおさめている。

   最初の成功作は、今回来ているが当時のパリの大女優サラ・ベルナールの舞台姿「ジスモンダ」を描いたポスターで、とにかく、ロートレックの単純な絵と違って花などの美しい装飾で飾られた素晴らしく美しい女性像で、パリの街頭に掲げられて熱狂的な人気を得たと言う。
   サラ・ベルナールのポスターは、更に、椿姫、メディア、ハムレット、トスカと続くが、勿論、舞台姿そのものではなくミュシャの想像とイマジネーションで増幅された豊かな発想の絵であるが、サラ・ベルナールの人気に一役かっていたことは事実であろう。

   ミュシャの代表作の、『4芸術(詩、ダンス、絵画、音楽)』や『4つの宝石(トパーズ、ルビー、エメラルド、アメジスト)』の連作が来ていて、後者の絵などは、それぞれの宝石の色の花が美女の前に大きく描かれていて実際の宝石は一切描かれていないのが興味深い。
   ミュシャの絵にとって花は極めて重要なモチーフだが、カーネーション、アイリス、ユリ、バラ、サクラソウなどの他に、岸壁のヒースではナース様スタイルの女性が、そして、砂浜なアザミではオランダ風の女性が描かれていて、パリジェンヌ基調の女性像と毛色が違っているのが面白かった。

   美しいミューズを華麗に描いて有名になったグラフィックデザイナーであるから、煙草やリキュール、ビール、香水等々から観光案内、展覧会など色々な宣伝ポスターを手がけているが、関係なくても総てにわたって美女をあしらった絵を描いているが、とにかく、モデルがあるのかないのか、衣装にしろ髪型にしろ発想が非常に豊かで、良くこれほどまでに女性達の美しさを引き出せるものと感心せざるを得ない。
   面白いのは、キリストを描いた受難などごく一部しか男性像はなく、やはり、ミュシャは女性専科かもしれない。(もっとも、後年描いたプラハの壁画などは、男女混交の群像だが。)

   パリで、押しも押されもしない名声を博した後、世紀が変わってからアメリカに一時移り住むが、50歳になってから故国チェコに帰って祖国愛を色濃く醸し出した民族色の強い芸術作品を描く。女性達の姿もパリジェンヌではなくスラブ系モラヴィアンで逞しくなって来た。
   現在のプラハを見ただけでも、チェコが如何に素晴らしい国だったか分かるが、当時はオーストリー・ハンガリー二重帝国の支配下で国民は抑圧されていた。
   それに、ドイツ帝国の軍靴の音が近づきつつあったのである。

   数年前にプラハを2度目に訪れた時に、ミュシャの美術館であるプラハ工芸美術館に出かけて一日十分ミュシャを楽しんだが、モルダウ川の対岸に聳える王宮にもミュシャのステンドグラスがあり、プラハの公共建物にもミュシャの壮大な壁画や天井画があり、やはり、グラフィックデザイナーのミュシャとは違った偉大な芸術家の側面を鑑賞してミュシャに対する印象を変えたのを覚えている。
   あのウィーンにおける華麗なクリムトの芸術に触れて感動する、それに似た感慨を覚えたのである。

   このミュシャは、第二次世界大戦が始まった時に、フリーメーソンだとか愛国的だといってナチに逮捕されて徹底的に痛めつけられて、79歳でこの世を去った。
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強国ロシアの復活か

2007年01月08日 | 政治・経済・社会
   私の手元に、2冊の興味深いロシア関係の本がある。
   一冊は言わずと知れたノーベル賞作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンの「廃墟のなかのロシア」で、もう一冊はアンナ・ポルトコフスカヤの「プーチニズム」である。
   後者のポルトコフスカヤ女史は、昨年の10月7日にモスクワの自宅近くで射殺された。その後、11月23日に、この殺害事件を調べていたと言われるロシアの元情報将校アレクサンドル・リトビネンコ氏が、亡命先のロンドンで毒性の強い放射性物質「ポルニウム210」により変死したので、その関係が取り沙汰されている。
   
   ところで、ポルトフスカヤの「プーチニズム」であるが、ロシアのチェチェン紛争での政府の過剰な武力行使や人権抑圧について徹底的に糾弾ししており、プーチン大統領に対しては極めて厳しい論陣を張っている。
   「私は時々思うことがある。プーチンは本当に血の通った人間なのであろうか。実は冷えた金属の彫像なのではないのか、と。もし人間だったとしても、とてもじゃないがそうは見えないから。」とまで言っている。

   私に興味があったのは、ソ連が崩壊して長かった冷戦が終って、新しい時代が、丁度世紀末から21世紀にかけて始まったのだが、果たして、ロシアが如何に変わったか、民主国家への道を歩んで行けるのかどうかと言うことであった。
   
   ポリトフスカヤは、旧ソ連時代には、「大抵の人には安定した職業とあてに出来る給与があった。どんな明日になるのか確信があった。病気を治してくれる医師も、ものを教えてくれる教師もいた。どこにも1コペイカも払わずにすんだ。」と言っている。
   成長は止まり経済状態は疲弊していても、ソ連経済の全体としては均衡を保っていたと言うことのようである。

   ところが、ソ連崩壊後は激変した。
   第一に、個人レベルの革命を経験したが、ソビエトのイデオロギーも、安いソーセージも、お金も、クレムリンに親玉がいると言う安心感も、ありとあらゆるものが一瞬のうちに姿を消した。
   第二に、1997年のデフォルト(債務不履行問題)によるロシア経済の崩壊に近い破綻で、その前に、民主主義と市場経済の復活で中産階級が生まれたが総て潰えてしまった。
   第三に、ロシアの資本主義が、多くの自由な巨大資本とそれに使えるソビエトのイデオロギーが混在して大量の極貧階級を生み出し、同時に、かってソ連の暗黒時代を支配したエリート階層のノメンクラツーラ(特権官僚)が復活した。
   法と秩序を盾にして、高級官僚達は、この法と秩序を逃れることに集中して、冨と権力を得た成金の「ニューロシアン」を目指して、共産政権時代にもなかったような贈収賄で汚職塗れだと言う。

   経済的に疲弊困憊していたロシアが、石油や天然ガスなどのエネルギー価格の高騰によって立ち直りを見せて好況を謳歌し始めて、国際政治及び経済情勢が大きく様変わりしてしまった。
   ロシアの産業構造が変わって経済が高度化した訳ではなく、近代的な工業化や知識情報産業社会の進展があった訳でもなく、単なる主力産業の石油や天然ガスの高値による好況に過ぎないのだが、この経済的な強みとエネルギーを切り札にして、ロシア流の「アウトロー資本主義」をごり押しし始めたのである。

   典型的なのは、ビジネス・ベースで進んでいた「サハリン2」の持分を強引に外資企業から取り上げて主導権を奪い取ったことだが、西欧諸国も少しづつロシアの本性とその恐ろしさを感じ始めたのかも知れない。
   ソ連の崩壊によって、一時は民主主義と市場経済の導入によって沸いたロシア経済社会が、無能な政府の舵取りによって徹底的に破壊されて生活が崩れてしまったロシア国民は、前述のポルトフスカヤの言が正しければ、かっての共産政権時代の安逸な生活に憧れており、経済が好況でロシアが強国であれば万々歳の筈で、プーチニズムでも独裁でも意に介さないのではなかろうか。
   
   ところで、人権人権と言うアメリカが、ロシアの人権問題に殆ど沈黙しているのは、ロシアの国力を見くびっているのか、或いは、冷戦時代のトラウマが残っているからであろうか。
   私は、中国とインドは、欧米の自由主義経済社会に近づいてくると思うが、ロシアはわが道を歩むであろう。
   ある意味では、ロシアは、中東のイスラム世界などよりも遥かに脅威で、冷戦時代と同じ様な感覚で対峙すべき国だと思っている。
   BRIC’sと一口で言うが、ロシアはある意味では政治的には一筋縄では行かない途轍もない強国であることを忘れてはならない。
   

 
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石山寺と紫式部展・・・銀座・松坂屋

2007年01月07日 | 展覧会・展示会
   明日まで、松坂屋銀座店で、「石山寺と紫式部展」が開かれている。
   石山寺には、紫式部の間と言うのがあって、彼女が源氏物語の構想を練ったと伝承されている部屋があり、確か、紫式部と覚えし人形が小さな経机を前にして座っている筈である。
   そのために紫式部や源氏物語にまつわる絵画や調度品などが集められていて宝物館にあり、これらのうち70点が今回展示されている。

   私が石山寺を訪れたのは、もう、20年ほど前のことなので定かではないが、この紫式部の部屋のあるのは本堂の正面入り口近くで、回廊を左に回りこむと、小規模だが清水寺のような舞台があって河の方に向かって切り立っている。
   絵心を誘うのであろうか、今回も沢山の「石山寺紫式部観月図」が描かれて展示されていたが、紫式部の部屋からは、一寸まわりの立ち木が邪魔にはなるが、瀬田川越しに煌々と輝く月が仰げる格好にはなっている。

   近江八景の一つ「石山の秋月」の和歌、
      石山や鳰の海てる月かげは
         明石や須磨もほかならぬ哉

   石山の秋月は格別なのであろう。
   私は、京都の月ならあっちこっちで見ているが石山の月は知らない。
   しかし、琵琶湖のほとりというなら2回月を見た記憶がある。
   最初は、学生時代に友人と比良山の麓の湖畔に自衛隊から借りてきたテントを張ってキャンプをしたことがあったが、どんな月だったか忘れてしまったが、湖面にきらきら揺れる月影を何故か鮮明に覚えている。
   もう一度は、その少し後だが、友人と比叡山に登り延暦寺を拝観した後、山道を坂本まで歩いて下山しようとして道に迷って麓に着いたのは日がとっぷりと暮れてからであった。ほっとして空を見上げた時の月の美しさは格別であった。

   この琵琶湖から流れ出る瀬田川は、一山越えると天ヶ瀬のダムに到るが宇治川に名前を変えて平地に流れをとって、淀で木津川と桂川と合流して淀川となって大阪湾に入る。
   私自身、学生時代に宇治で1年間下宿したので、宇治川にかかる月は数多く見ている。やはり、このあたりの観月は季節の如何に拘わらず紫式部でなくても詩情を誘う情緒がある。
   この宇治は、源氏物語の後半の宇治十帖の舞台でもあり、現在、宇治上神社の側に立派な源氏物語ミュージアムが出来ていて紫式部との縁も深くなっているが、私の居た当時は、源氏物語の雰囲気は少なかったような気がする。

   ところで、紫式部の十二単の絵姿であるが、以前に石山寺に行った時に始めて展示されたという最古の黒ずんで殆ど彩色が見えなかった絵が来ていて懐かしかった。
   色々な絵があり、今様だと言って遊女姿の江戸浮世絵のような絵もあったが、私には、上村松園の紫式部の絵が印象に残っている。もっとも、松園は、初期に御簾を掲げる「清少納言」の有名な絵を描いている。

   源氏物語を画材にした華麗な土佐派の大和絵の屏風や扇面画、絵画が展示されていたが、扇面などに描かれた絵などを一つ一つ丹念に物語の場面を想像しながら見て歩いた。
   私の書架には、清水好子著「源氏物語五十四帖」と言う20年ほど前の本があり絵と解説が詳しいが、絵によっては解釈や雰囲気が大分違っていて色々な画家の発想が面白い。
 
   他に、源氏物語のシーンをあしらった蒔絵の豪華な硯箱や文台などの調度品や紫式部が使ったという硯石などが展示されていたが、源氏物語や紫式部ファンの人には興味深い展示会だと思われる。
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川崎小虎と東山魁夷展・・・三越日本橋本店

2007年01月06日 | 展覧会・展示会
   三越日本橋本店で、「川崎小虎と東山魁夷展」が開かれている。
   画風が良く似ている訳ではないし何故共同展なのか、迂闊にも良く知らなかったのだが、川崎小虎の長女すみさんが東山魁夷夫人と言う関係であることを展覧会で知って納得がいった。
   
   この口絵写真「春の訪れ」のような平安朝のロマンティックで幻想的な大和絵が小虎のスタートのようだが、ほのぼのとした明るい絵で実に美しい。
   隣に展示されていた「囲碁」は、十二単の平安貴族の女性が向かい合って囲碁を打っている絵で、屏風や襖絵などに描かれている古い大和絵のような極彩色のメリハリの利きすぎた大和絵とは違って、淡いパステル画的なやわらかくて温かい感じのする絵で好感を持って見ていた。
   もっとも、その後は、大分絵の雰囲気も変わって行くが、平凡な生活や動物達の絵を描いていても、小虎のキャラクターであろうか、誠実そうな丁寧な作品が並んでいた。

   魁夷は、「私の履歴書」の中で、すみ夫人との馴れ初めについて、「結婚――相手の顔見ずに即決」と語っている。
   「先方の両親に、倒産しかかっている私の家のすべてのことと、私自身の放浪癖ともいうべき生活の状態を話した。すると川崎先生はいっこう平気で「借金なんて絵描きにはどうでもいいことだよ。また今のその生活を、もう十年くらい続けなければものにならないね」と驚いた様子もない。私は、お茶を持って出て来た当の相手の顔を良く見ることも出来なくて、「では、神戸の両親に良く相談して来ますから」と辞去した。とさらりと書いている。

   私は、東山魁夷の絵が好きなので、結構あっちこっちの展覧会や美術館で作品を見ている。
   日本画家でありながら、魁夷は、西洋を見ておきたい、西洋で絵を見るだけではなく生活を体験したいと言う思いが強くて、ベルリンに留学してヨーロッパ一巡の旅に出ている。
   一寸暗くて重厚なドイツで学びながら、ブレンナー峠を越えてイタリアに渡りダ・ビンチやミケランジェロなどルネサンス最盛期の巨匠の作品に触れて全く興奮し、打ちのめされて、絶望感に襲われてもいる。
   しかし、北欧の風景に触発されたといっており実際に生活もドイツが長かった所為か、魁夷の作品は、岳父小虎の画風と違って、精神性は豊かで壮大な大自然と対峙していてもどこか暗くて、陽光の輝く「君知るや南の国」の南ヨーロッパの明るい陽気さは微塵もない。
   今回の展覧会で、ゴチック建築の教会の塔が聳えるヨーロッパの都会を描いた絵「晩鐘」が展示されているが、薄日が射してはいるが、どんよりとした鈍色の世界であり、森や泉を描いても陽の光はなく、これは、正に、ドイツやオランダから北側の冬の北ヨーロッパの風景に近い。

   ヨーロッパの歳時記は、冬が一日中暗くて寒く厳しい所為か、とにかく春の到来が待ち遠しくて、春まで後幾日かが基準となって出来ていると聞いているが、ブレンナー峠を越えて感激して素晴らしい作品を残したゲーテも居れば、何度もブレンナー峠を行き来して明るくて天国的な音楽を残したモーツアルトも居る。
   魁夷のどんな作品を見ていても、何処となくヨーロッパの雰囲気が色濃く漂っている感じがするのは気の所為かも知れないが、そんなところに惹かれているのも事実である。
   
   
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上方古典芸能の魅力とは・・・関西弁の威力?

2007年01月04日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今日の日経朝刊に、住大夫と仁左衛門の対談「上方古典芸能の魅力を語る」が掲載されていて、二人が消え行きつつある(?)上方古典芸能の残照をいとおしみながら語っている。

   仁左衛門の方は、「上方歌舞伎で修行し、東京で人気役者に。」などと日経が紹介しているのだから、出自は関西でも殆ど活躍の舞台は東京であり、兄の秀太郎とは違う。
   東京では、歌舞伎座の他に新橋演舞場や国立劇場等でも同時に座が立つ程公演回数も多く観客も多いが、関西の場合は、大阪と京都と合わせても歌舞伎公演がない月が多いほど人気がないので、当然、歌舞伎役者として身を立てるためには東京ベースにならざるを得ない。
   
   文楽の方は、まだ、本拠が大阪にあり活躍の中心が大阪であることもあって大夫も三味線も人形遣いも関西ベースであるが、住大夫は、関西弁のすたれを何時も気にしている。
   今回も、「文楽の人間でも、この頃訛りまんねん。」と言い、仁左衛門が「大阪訛り?」と聞くと、
「東京が訛ってまんねんで。芸術や文化の発祥は大阪、京都でんねん。私は関西弁が標準語や思うてます。それやのに、文楽の楽屋で、「いくらだっけ、何だっけ」。舞台で訛らんとやっても、体から出てくるニュアンスがありまへん。」と答えている。
   仁左衛門が、自分は大阪でも京都でもない中途半端な関西弁だが、父の先々代仁左衛門は、京都、大阪の中でも場所によって違う言葉を全部会得していたと言う。

   関西弁については、先月、木村政雄氏の関西弁論に触れて書いたが、昔高校生の頃古文を勉強していて、結構現実の関西弁と同じで十分に意味が通じるのに何故現代語約しなければならないのか疑問に思ったことがある。
   関西言葉は、日本古来からの長い伝統と歴史、そして生活のバックステージを色濃く引き摺っているので、意味が重層していて極めてニュアンスが豊かになっているような気がする。
   大阪商人の曖昧な表現以上に曖昧なのが京都言葉で、一般庶民にはあまり関係ないかも知れないが、絶えず政変とかで為政者が交代して上に立つ人間が変わるので、股座膏薬のように両天秤かけておかないと安心した生活を送れない。  
   京都人はどっちに転んでも生きて行けるように、どっちにも取れるような表現で曖昧に対応しようとしてきたのでニュアンスが豊になり過ぎる。
   何れにしろ、同じ言葉の数で幾重にもニュアンスを込め多くの意味を包含している関西弁のニュアンスは、どうしても東京弁には出ないと住大夫は言っているのであろうか。

   ところで、住大夫は、他の本で「近松は字あまりやからきらいでんねん。」と書いていたが、今回、仁左衛門が「父は治兵衛が大好きだったんですが、私、嫌いですねん。」と言ったら「アホな男ですわ、私も嫌い。」と言って「だいたい、近松もんが大嫌いでんねん。」とハッキリと言っている。
   近松を否定しているのではなく、「河庄の場面は治兵衛の出がいまだに迷うんです。」と言っているので、近松文学の表現の難しさに苦労していると言うことであろうか。
   
   ところで、関西弁と東京弁との差で考えた場合、英語と米語ではどうであろうか。
   私が最初に学校で学んだのは英語だったが、いつの間にか米語に変わってしまっていた。
   「Have you a pen ?」が「Do you have a pen ?」に変わったのである。
   私のEnglishなど好い加減だが、最初はアメリカの大学院だったから米語でスタートしたが、その後イギリスでのビジネス期間の方が長くなったので英語に変わったはずだが、「Do you have a pen ?」を通している。
   アメリカ人の場合はあまり言葉を気にしているようには思えなかったが、それでも、ニューイングランドのWASPの言葉を評価していたようだし、イギリスに到っては、ロンドンそのものが最初から最後まで首都で中心であったから、やはり、ロンドン英語であった。
   それに、シティなどではオックスブリッジ訛りの英語が巾を利かせていた。
   やはり、英国は伝統の国で、正当なクイーンズイングリッシュを話せることが必須で、英人の友人達が秘書は絶対に正しい英語を喋れないとビジネスに影響すると言って面接を買って出てくれた。
   学歴や出自に対して喧しいイギリスで、サーカス芸人の息子でオックスブリッジを出ていないメイジャー氏が首相になったので少しは風通しが良くなったのであろうか。

   さて、歴史上、これほど大切な民族の魂と言うべき言葉を拒否されて生活しなければならなかった民族や国民が多くいたし、文化や宗教に到ってはいまだに迫害・排除されている人々がいる。
   日本自身も、絶対にしてはならない民族の誇りを踏み躙った過去があり慙愧に耐えないが、現在、自分自身が自由に発想し自由に生活をしながら、民族固有の言葉でものを考え生きている幸せを感じざるを得ない。
   それに、幸いにも、ネイティブな関西弁と標準日本語を理解できる恩恵にも浴している。

   ところで、上方古典芸能であるが、伝統を残し継承して行くための肝心要は、それを観て聴いて鑑賞する観客が居ることである。関西弁で生活している観客が、文楽や歌舞伎鑑賞に劇場へ出かけて舞台を支える以外にない。
   時々、大阪の国立文楽劇場に出かけて舞台を楽しむことがあるが、東京と違って空席が多い。
   歌舞伎に至っては、観客の層が薄く少なくて東京のように連続して公演が打てないと言う。
   歴史もそうだが、ドンドン中心が移動して移って行く。
   いくら貴重な文化文明でも、会社と同じで、それを需要して支えてくれる顧客がいなければ滅びざるを得ない。
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NHK「未来への提言」・・・アルビン・トフラー

2007年01月03日 | 政治・経済・社会
   昨夜、NHKで「未来への提言」が放映されていたが、未来学者アルビン・トフラーの考えに沿って田中直毅氏が対談しながら21世紀の人類の課題を考えて行くと言う面白い番組であった。
   殆どの論点は、昨年ベストセラーであったトフラーの「富の未来」の再展開であったので、それ程新鮮味はなかったが、どれだけ、トフラーが自分自身の殻を破れるのかに興味を持って聴いていた。

   トフラーに最初に衝撃を受けたのは1970年の「未来の衝撃」だが、その10年後に出た「第三の波」では、今日のIT時代を予言するほどの画期的な本であった。
   アメリカに出張した同僚に原書の購入を頼んで貪るようにして読んだのを思い出すが、その前にダニエル・ベルの著書を読んで脱工業化社会(Post-industorial society)の概念が頭に叩き込まれていたので、私自身にとっては、もう、何十年も前から、工業社会から知識情報産業化社会への移行は既成概念であった。
   実際にも、1970年前半に、アメリカのビジネス・スクールで既に毎夜12時頃までコンピューターセンターに詰めて勉強していたので、コンピューター主体の経済社会になることは分かっていたが、今日のIT革命によるパソコンやインターネットの隆盛など実際に起こっている現実の革命的なテクノロジーの変化にはビックリしている。

   私自身の関心事は、確かに現実としての第三の波、即ち、知識情報化産業社会に対するトフラーの見解や理論は、「第三の波」の頃と比べれば格段に精緻を極め分析や理論的展開の進展が見られて感動的だが、もう、トフラーの言うような第三の波は曲がり角に差し掛かって方向転換しつつある、いや、しなければ人類が滅びるところまで来ているのではないかと言うことである。

   知識情報、テクノロジー、科学と言う観点からの人類の未来志向を進めて行くと、どうしても、物質的成長拡大と言う成長路線に向かって進んで行き、地球能力の有限性、エコシステムへの挑戦となり、もう既に幾らかのポイントで限界を超えていて、「リービッヒの樽の法則」が作用するのなら危機的な状態になっていると言う気がするのである。

   今回のTV番組で、最後にトフラーは、21世紀の課題として「人類の再定義 Mission of 21st Century to Re-Define Human」を掲げて次の様なことを語った。
   「今後、生物学、遺伝子工学、ナノテクノロジーなどが目覚しい発展をとげ、人間の頭脳と力を劇的に向上させ新しい能力を手にする。次世代の人間に成るかも知れない。
   脳科学や生物学の発展によって新たな問題が浮上し劇的な対立が起きるであろう。
   私たちの倫理観が問われている。人間が互いに殺し合ってはいけない。良心を失わず、更なる知恵と互いに手を携えて行く力を獲得出来るよう願っている。 」  
   トフラーは、科学技術の将来には比較的楽観的だが、しかし、リバイヤサンを野放しに出来ないことは認めざるを得ないのであろう。

   知識よりも知恵の領域を深化させて行くような社会を志向すること、ここに照準を当てて未来を見据えない限り人類の未来は暗い。
   田中直毅氏は、「地球規模の統治革新 Global Governance Innovation」を提案していたが、何れにしろ、科学や知識情報の進歩だけでは駄目で、要するに強力な倫理観念なり確固たる価値基準の構築が必要だと言う事であろう。

   同じ、未来思考でも、毛色が変っていて面白いと思ったのは、大前研一訳のダニエル・ピンクの「ハイ・コンセプト」で、ここでトフラーの向こうを張って「第四の波」が語られている。
   情報化社会もいまや最終段階に入って、早くも「第四の波」が押し寄せつつある。情報化社会からコンセプチュアル社会へである。
   早い話が、情報化社会の花形ビジネスの弁護士や会計士などでも、インターネットに情報や知識が充満しておりコンピューターに簡単に取って代わられてしまう、況や、殆どのナレッジワーカーの仕事などコンピューターのみならず、グローバリゼーションによってインドや中国の優秀な同業によっても簡単に駆逐されてしまう。

   友人であるトフラー夫妻と侃々諤々の議論をした結果、トフラー夫妻の「第四の波」刊行の可能性があるのを考慮して、このハイコンセプトの邦訳のタイトルを「第四の波」にしなかったと言う大前研一氏の訳者解説が面白い。
   とにかく、この「ハイコンセプト」は、将来の経営者はMBAではなくMFA(美術学修士 Master of Fine Arts)だと言うあたりなど、正に的確で、『「新しいこと」を考え出し生み出す人の時代』だと言うポイントがユニークで衝撃的である。

   私の未来思考は、もっと倫理的、道徳的、宗教的と言うか、人類にとってのゾレンの世界であるが、正月早々難しい話を抱え込んでしまった。
    
   (追記)生産消費者については、本ブログ2006年6月15日 「生産消費者の経済・・・アルビン・トフラー」ご参照請う。なお、トフラーについては、本ブログで何度も記述している。
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メトロポリタン・オペラを世界の映画劇場でライブ放映・・・モーツアルト『魔笛』

2007年01月02日 | クラシック音楽・オペラ
   ニューヨーク・メトロポリタン・オペラが、12月30日のマチネ公演モーツアルトの『魔笛』を全米のみならず、イギリスやノルウェーなど外国へもライブ配信して映画劇場で上映された。
   日本でも、木挽町の歌舞伎座で、大晦日の午後2回に亘って上映されて、日頃の歌舞伎公演とは違った面白い雰囲気を醸し出していた。

   松竹が歌舞伎座での玉三郎の華麗な舞踊公演を劇場映画にして上映して成功を収めているが、今回のMET公演は正にライブ(日本の場合は、時差等の関係で録画)で、失敗が許されない待ったなしの上映でIT革命の粋である情報通信技術が問われている。
   ニューヨークタイムズの報道では、事前に切符売り切れ劇場も多く出て、全米百の映画劇場で放映されたので多少トラブルはあったようだけれど、大半のお客はオペラファンのようだが中年以上の人たちが子供を連れて来ていて可なり好評であったと伝えている。

   私自身、アメリカに居たときからだから30年以上になるが、その後ニューヨークに出かける度毎に訪れているから、METでのオペラ鑑賞は可なりの回数になるが、とにかく、スカラ座やウィーン国立歌劇場、ロイヤルオペラ劇場などのヨーロッパの劇場とは一寸違った独特の華やかな雰囲気があって何時もワクワクさせてくれる。

   ところで、今回の「魔笛」は一寸変っていて、あのミュージカル「ライオン・キング」で有名なジュリー・ティモアによる演出による非常にカラフルで鳥が空を舞い熊が踊り夜の女王が星に包まれる幻想的で美しい舞台が展開されていて実に見ているだけでも楽しい。
   それに、MET初のホリディ・ファミリー・オペラとして詩人マッククラッチィ新訳による休憩なしの100分間のコンパクトに改変された英語バージョンで、何時も観慣れている「魔笛」の舞台と違っていて多少違和感はあるが、だれさせずに分かり易く一挙にオペラを楽しめる分、上出来である。
   開演前に、スクリーンでは、幕が下りたままで楽団員たちのチューニングの音が聞える客席の模様が放映されていてオペラ劇場にいるような雰囲気にさせてくれる。
   多少耳障りで不快感を感じたので歌舞伎座の音響機器の質と録画システムに問題があるのであろうか。しかし、舞台が始まるとドラマチックな展開に気が取られてあまりサウンドの質は気にならなくなった。
   幕が開く前に、ピーター・ゲルブ総支配人の挨拶と舞台裏が映されていて中々面白かったが、ジェイムス・レヴァインが指揮台に立つと、もう、メトロポリタン・オペラ劇場の雰囲気がむんむんする正にMETの舞台である。 
   
   中国北京生まれのMETデビューの新人ソプラノ・イン・ファンの清楚で澄んだ美しいパミーナの歌声、陽気でコミカルで動きが軽快で温かい感じのバリトン・ネイサン・ガンのパパゲーノ、個性的でドラマチックで舞台を圧倒するハンガリーのソプラノ・エリカ・ミクローザの夜の女王、など印象的な歌手の歌唱と演技に魅せられていたが、勿論、テノールのマッシュ・ポレンザーニの粋なタミーノやバスのルネ・パーペの圧倒的な凄いザラストなども実に上手くて楽しい舞台であった。

   このMETのライブ配信は、この後、ベッリーニの「清教徒」から更に4演目続くのだが、ドミンゴが歌うタン・ドンの「始皇帝」やルネ・フレミングの歌う「エウゲニー・オネーギン」等はMETでもチケットがソールドアウトで大変な人気である。
   METに行きたくなったが、行けなければ、DVDで見るよりは結構臨場感豊かな映画劇場で4000円払ってでもMETライブを楽しめるのも悪くはない。

   大晦日当日、このMETライブの後半3時半からのチケットを手配してしまったので、文化会館のベートーヴェン全交響曲演奏会とダブってしまって、カーテンコールを端折って急いのだが、残念ながら大友直人指揮の「交響曲第三番英雄」を聴き逃してしまった。
   その時になってから考えようと思って、これまで海外でも綱渡りのダブルブッキングが結構あったが、チャンスを見逃すよりはその方が良いとは思っている。
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ベートーヴェン歓喜の歌で新春を迎える

2007年01月01日 | クラシック音楽・オペラ
   2007年元旦零時には、上野の東京文化会館の客席にいて、丁度、ベートーヴェンの「交響曲第九番合唱つき」の第一楽章を聞き終わったところであった。
   外山雄三指揮イワキオーケストラのベートーヴェン全交響曲連続演奏会の最後の演目で、演奏会がお開きになったのは深夜の一時少し前であったが、暖かくて感動的な熱気は長く続いていた。

   この連続演奏会「ベートーヴェンは凄い!」は今度で4回目であるが、私は、岩城宏之が一人で全曲を振った2回目から聞いており、昨年岩城氏が亡くなったので終了だと思っていたのだが、今回は、9人の日本で活躍する指揮者が一曲づつ分担して素晴らしいベートーヴェンを披露する夢の共演となった。
   私は、フィラデルフィア、ニューヨーク、ロンドン、アムステルダム、サンパウロ等々でも異邦人たちの中で何度もベートーヴェンの交響曲を聞き続けてきたが、そこには、何時もベートーヴェンに感動する熱狂的な観客がいた。

   私も人並みにボンのベートーヴェンハウスを訪れてベートーヴェンに敬意を払ってきたが、学生時代に「ハイリゲンシュタットの遺書」を読んで涙が出るほど感激した。音楽に人生を奉げようとしているベートーヴェンの耳が聞えなくなるのである。
   「真剣に自殺を考えた。そう、私の命に終止符を打つところだった。けれども、芸術、ただ芸術だけが私を生の世界にひき止めてくれた。
   (中略)私には覚悟が出来ている。早くも、28歳にして悟りを開いた哲学者になれと言われても容易ではない。・・・神よ、あなたは私の心のうちを見ておられる。あなたは、私の心に、人間愛と善行をなさんとする意思があるのをご存知だ。」
   ベートーヴェンは、音楽を通じて思想を、そして、哲学を伝えようとした偉大な音楽家である。
   本来、交響曲に歌や歌詞を付ける事は絶対にしてはならない禁じ手であったにも拘わらず、シラーの喜びの歌に夢を託して「交響曲第九番合唱つき」を作曲してしまった。

   三枝茂彰氏によると、作曲当時は、禁じ手を使った交響曲であり危険思想を歌っているので演奏されなかったと言う。
   ベートーヴェンの思考は時代をはるかに先取りしていたのであるが、それは、唯一のオペラ「フィデリオ」の精神にも相通じる。
   しかし、その合唱交響曲が、東西ドイツのオリンピックでの国歌に使用され、今や統一ヨーロッパEUの国歌にもなったと言う。

   ところで、この第九は欧米では殆ど演奏される機会がなく、大指揮者でも演奏経験が少ないと言う。
   そう言われれば、私が可なり長い欧米生活の経験でも、ハイティンク指揮コンセルトヘボウ、ティルソン・トーマス指揮ロンドン響、アシュケナージ指揮ベルリンラジオ響くらいしか記憶がない。
   関係があるのかないのか、その後のマーラーの歌つき交響曲の演奏会も比較的少なくて、私など、ミサ曲や宗教曲で歌手が出るオーケストラ・コンサートには意識して出かけた記憶がある。

   さて、今回の第九だが、ソプラノ釜洞祐子、アルト坂本朱、テノール佐野成宏、バリトン福島明也、合唱晋友会合唱団。バリトンの第一声から凄い迫力で歓喜の歌を高らかに歌い上げる終曲まで息をも継がせぬ感動的な演奏であった。
   指揮の外山雄三氏は、何十年も前に京都市響のコンサートを聴いて以来だったが、悠揚迫らぬタクト捌きでオーケストラとソリストと合唱団から実に雄大でスケールの大きな豊かなサウンドを引き出して縦横無尽に歌わせていて感激であった。

   今回の連続演奏会だが、ダブルブッキングで、第4番からしか聴けなかったが、小林研一郎指揮の第7番が圧倒的な人気で長い間熱狂的な観客の拍手が鳴り止まなかった。
   正に、コバケンのパーソナリティそのものの誠実で真摯な指揮で、実に繊細でありながら豪快なゴチックの大教会のような荘厳さを見るような素晴らしい演奏であった。
   昔昔の話だが、ドナウ川に程近いハンガリー人エンジニアの家で深夜遅くまでコバケンから音楽の話を聞き込んでいたのを懐かしく思い出した。
   リストの国ハンガリーでもコバケンは国宝級に偉大なのである。

   とにかく、新春早々から素晴らしいベートーヴェンを聴いて、偉大な精神に触れて感動したのであるから今年も良いことがありそうな予感がする。
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