熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

激動する世界、太平天国のニッポン

2012年02月11日 | 生活随想・趣味
   先日、テレビ番組について、日本のニュース番組が、如何に太平天国で能天気かと言うことについて書いた。
   NHK BS1のワールドWaveを見れば、シリア内乱の熾烈さと世界世論の沸騰、収拾のつかないギリシャ危機と言うダイナマイトを抱えたEUの経済危機、焼身自殺に手を焼く中国の果てしないチベット弾圧、ロシアの大統領選を筆頭とした世界各国の首脳選挙の動向、イスラエルのイラン爆撃の可能性とホルムズ海峡の閉鎖、エジプトの暫定軍事政権への反発、はては、石油資源開発で再燃した英国アルゼンチン間のフォークランド諸島紛争等々、ヨーロッパや中国などで猛威を振るう大寒波まで、とにかく、世界中が大きく激動していることが分かる。

   ヨーロッパの経済危機だが、国民の統治能力も倫理観も完全に地に落ちて、国家を再建するための経済成長能力も殆ど喪失してしまって、他力本願でしか国家再生の道を模索し得なくなったギリシャの悲劇は、正に、欧米日先進国に降りかかって来つつあるディザスターの氷山の一角を象徴していて、暗澹とせざるを得ない。
   ユーロ圏諸国の財務相会合が、国会の決議など条件を付けてギリシャに対する追加支援策の正式決定を来週に先送りしたのは当然であるが、生活に困窮を極めたギリシャ国民の暴動が絶えず、正に、断末魔の様相を呈している。
   能天気なラテン気質の国民が、モラル欠如無能力の為政者に舵取りを任せて、花見酒の経済に酔いしれた結果が、如何に悲惨かを、ギリシャの現実が如実に物語っている。
   結局、国民が賢くなる以外に生きる道はなく、ギリシャ国民が自助自立しない限りギリシャの再建はないであろう。

   アラブの春だが、ムバラク政権打倒では一致したかの様相を呈していたエジプトも一枚岩ではなく、そして、権力維持に執着する軍部支配を解消出来ずに、国家再建への道を暴動や大混乱を伴いながら模索しているのだが、あの東ヨーロッパの共産主義国家の民主化にも、随分、苦難と時間を要したのであるから、まだまだ、混乱と混迷が続くのであろう。
   しかし、シリアの動乱は、アラブ連盟の動きを見ても、既に、アサド政権の崩壊が見えているように思う。
   国連安保理の決議を、ロシアと中国が拒否権を行使して葬り去ったことについては、世界中の人権派や民主主義勢力から非難が巻き起こっているのだが、複雑な民族紛争や内紛を抱えて呻吟している両国にとっては、アサド型の国家治安維持施策が必須であり、対岸の火事だとは思えないのは当然である。
   特に、ロシアは、シリアに対して、巨大な武器取引や旧ソ連諸国以外の唯一の海軍基地の存在など同盟国として国益を有しているので、特に、シリアよりの政策を取らなければならないのであろう。
   しかし、アサド政権が打倒され、新政権が成立すれば、一挙に反ロシアとなり、利権が崩壊してしまう筈であることが分かっておりながら、世界世論に反するこの挙に出るのは、やはり、大統領選挙の余波であろうか。

   イラン問題については、核兵器の保有が1年以内と予測されているので、イスラエルのイランの核施設破壊のための爆撃の可能性は、非常に高いと考えられている。
   たとえ、イランが核兵器を保有したとしても、イスラエルを爆撃するとは思えないのだが、イスラエルとしては、ハメネイ師のイスラエル抹殺発言が、絶対に許せないのであろう。
   それに、これまで、何回か戦火を交えた中東戦争も局地戦で終わっているし、かって、イランの核施設爆撃したこともあり、イスラエルがイランの核関連施設を攻撃すると言う情報は、これまで、何度も流れている。
   読売がWPを引用して、”イラン核開発に対するイスラエルの認識について〈1〉イランが近く、地下深くの施設に爆弾製造に十分な濃縮ウランを貯蔵し終わると予測している〈2〉貯蔵完了後は、単独攻撃による兵器開発阻止は難しいと危惧している――との見方を示した。パネッタ長官は「そうなる前の4月か5月、6月」に、イスラエルが攻撃を行う可能性が高いと見ている、とした。”と報じている。
   イランとの過激な争いが、日本にとっての生命線である石油輸入に重大な影響を与えるので、経済的な苦境を益々悪化させる。

   中国の暗部情報については、BBCやオーストラリアABCやシンガポール放送などで報じられていて、日本には殆ど知られていないが、既に、ラマ僧の焼身自殺は20人以上で、それも、となりの四川省でのことで、英人記者は、チベットへの入国を拒否されたり四六時中監視されたり、酷いらしいが、中国国営テレビは、取材班が、猛吹雪で難渋するチベット人の車を救済するニュースを能天気に報じていて、その落差が激しい。
   しかし、チベットへ、どんどん、漢民族を送り込んで、チベット族の自由を束縛しながら、チベットの中国化を強引に進めているらしく、この対異民族政策の推進は、新疆などウイグル人やイスラム教徒に対しても激しいと言うことである。
   この感覚であるから、アサド政権のシリア人弾圧などには、胸が痛まないのであろう。
   最近の中国国営テレビも、結構、中国国内の暗部や問題なども放映するようになったので驚いているのだが、これもあれも、インターネット、SNSのなれるワザであろうか。
   ところで、北では、アンドロイドに対応したスマートホンが普及し始めて、それも、その技術水準は韓国並みだとKBSが報じていた。
   とにかく、世界は、日本人が、つまらないテレビ番組にうつつをぬかしている間に、どんどん、そして、激しく激動しているのである。

   ところで、日本だが、最近、年金年金で、政治家が喧しい。
   もう、現在の状態では、既に、はっきりと破綻しているのであるから、政争に明け暮れている暇はなく、超党派で抜本的な対策を取る以外にはない。
   経済成長に見放されてしまった日本の現状では、源資の自然増は望めないから、税金で取るか何らかの形で収入を増やすことを試みなくてはならないのだが、最後の手段として、分配を公平にして有効需要を増やすこととするのなら、豊かな人から拠出を願う以外に道はなさそうである。
   ギリシャのようになる前に、まだ、日本人の高潔さが健在である時に、考えるべきことであろうか。
   この問題については、長くなるので、次回に譲ることとする。
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二月大歌舞伎・・・夜の部

2012年02月10日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   中村勘九郎の襲名披露公演で、久方ぶりに新橋演舞場は大変な賑わいで、入口ロビーは大変な混雑ぶりで、2階席へ行くのが大変。
   歌舞伎座が改築のために閉鎖されてからは、何となく閑古鳥が鳴く感じで空席が目立っていた新橋演舞場だが、役者が揃ってイベントを打てば客が戻るのか。尤も、今月は国立劇場の歌舞伎公演が休みでもある。

   夜の部の演目は、吉右衛門と勘三郎の「鈴ヶ森」、「口上」、勘九郎の「春興鑑獅子」、三津五郎と福助の「ぢいさんばあさん」である。
   夫々、それなりに興味深い舞台だが、私は、「ぢいさんばあさん」が出色の出来で、楽しませて貰った。

   まず、「鈴ヶ森」だが、四世鶴屋南北の「四世鶴屋南北」の一幕で、歌舞伎では、他には「鞘当」の幕くらいしか上演されないようで、この鈴ヶ森も、
   ”江戸へ向かう白井権八(勘三郎)が鈴ヶ森に差し掛かった時、大勢の雲助が襲って来てお尋ね者と見て捉えようとするので、やむなく権八が刀を抜き、雲助達を斬り捨てる。そこへ丁度幡随院長兵衛(吉右衛門)が駕籠で通りかかり、その腕前に惚れ込んで身柄を引き受ける。”と言った二人の出会いの場である。

   権八と雲助との立ち回りは、様式化された舞台なので、その趣向を見せるシーンの連続で、若侍姿の勘三郎が、入れ代わり立ち代わり登場する雲助相手に、舞う様な立ち合いを演じると言うところが見せ場で、
   駕籠の中から見ていた幡随院長兵衛が「お若いのお待ちなせえやし」と声を掛け、「待てとおとどめなさるしは拙者がことでござるかな」と権八が応えるところから、がらりと雰囲気が変わって、名調子の掛け合いと、男と男の契りが始まる。
   多少薹が立った優男の勘三郎の権八だが、中々優雅で華があって良く、どすの利いた吉右衛門の幡随院長兵衛と好対照で、魅せてくれる。
   私などは、いくら名場面であっても、このようなストーリー性の欠如した一幕を切り取ったような舞台は好きではないので、何時も興が乗らないので消化不良になり、今回も、折角の吉右衛門と勘三郎の共演だが勿体ないような気がした。

   「口上」は、本来なら、芝翫が万感の思いを込めて口上を切り出したと思うのだが、父親勘三郎が代わって行ったので、その分、非常にくだけた調子の観客に密着した温かい雰囲気の口上となり、列座した役者たちも、大分口がほぐれて勘九郎のみならず中村屋を髣髴とさせるような良いムードであった。
   「勘九郎」は大したことはない名前だと謙遜した勘三郎が、私とは違う色で、新しい勘九郎になってほしい。これの良さは謙虚さ。1歩1歩前進し、あっぱれな歌舞伎役者と言われるように、お引き立てをお願い申し上げますと、語りながら、仁左衛門や三津五郎などから、自分も父もやったことのないような役を教えて貰って芸域を広げていると付け加えていたが、これを受けて、勘九郎は、これらの教えを受けながら精進し毎日が楽しくて仕方がないと応えていたが、見上げたものである。
   素晴らしいDNAと素質に恵まれた大器、世界無形文化遺産・歌舞伎の将来のためにも、大いに期待したいと思う。

   「春興鑑獅子」については、特別な思い出があり、もう、20年以上も前になるのだが、ロンドンのジャパン・フェスティバルで訪英した歌舞伎で、勘三郎の舞台を見ているのである。
   その時の胡蝶の精は、当然、可愛かった勘太郎と七之助であった。
   その勘太郎が、勘九郎を襲名して、父の当たり役であった小姓弥生と獅子の精を舞って、後見に七之助が立っている。
   正に、今昔の感である。
   さて、勘九郎の弥生だが、芝翫が、女形の見立ては正しかったと言っていた幼い頃の女形の勘太郎には、まだ可愛さ優しさがあったが、立役で通している最近の勘九郎の舞には、風格と優雅さ、溌剌とした素晴らしいパワーには申し分ないとしても、どこか硬さと無理があって、芝翫直伝の弥生なのであろうが、乙女の持つ初々しさ優しさ、匂い立つような女らしさが少し欠けているように思う。
   体型からくる印象もあるのであろうが、いくら、江戸城でのお殿様の前での舞であろうとも、二刀遣いの勘三郎のような、ふっくらとした軟らかな優雅さと言うか、女らしいまろやかさが欲しいと思ったのだが、無理であろうか。
   
   さて、最後の「ぢいさんばあさん」であるが、森鴎外の非常に簡潔な短編を、実に、滋味深くしみじみとした味わいのある深い舞台にしたのは、宇野信夫の作・演出の素晴らしさもあろうが、ぢいさん美濃部伊織の三津五郎とばあさん伊織妻るんの福助の至芸とも言うべき芸のお蔭であろうと思う。
   新婚生活のこの上ないと言ったような燃え立つような幸せいっぱいの二人、そして、年老いてから、遠慮がちに再開した二人が互いに労わりながら手を握り合って幸せをしみじみと噛み締めあいながら見合わす顔の神々しさ、ぢいさんばあさんとしての立ち振る舞いの確かさは勿論だが、とにかく、これ程心底から愛し合った夫婦があっただろうかと思えるほどの、涙が零れるような二人の素晴らしい演技に脱帽である。

   相思相愛の新婚まもない夫妻だが、伊織が、怪我をした義弟宮重久右衛門(扇雀)の代わりに京のお役目に旅立ち、そこで、同僚下嶋甚右衛門(橋之助)と諍いを起して殺害し、その罪で越前へ預かりの身となり、37年後に再会すると言う話である。下嶋との諍いは、伊織が寺町通の刀剣商の店で、質流れだと云う良い古刀を見出し、それを買いたく思ったが、代金百三十両がなかったので、下嶋に三十両借りたのだが、その刀の披露の宴会に下嶋を呼ばなかったことが原因であった。

   予想もしないような事件で変転した人生の不運を乗り越えて、変らぬ純愛を通しぬいた二人の魂の鼓動と沸々と心のそこから湧き上がる愛情の迸りが、何ものにも代えがたい感動を呼ぶ。
   第1場は、生まれたばかりの子供を慈しみながらの旅立ち前日の伊織家、第2場は、京都での事件、第3場は、37年ぶりの旧伊織邸での再会。真ん中の悪夢のような舞台を挟んで、伊織とるんの愛情一杯のしみじみとした人間賛歌が展開されている。

   歌舞伎の舞台になるために、多少、鴎外の短編が脚色されている。
   最も重要なのは、伊織家の家を同じ家にしていて、その元の家での再会と言うことで一層懐かしさと情趣を盛り上げ、その縁側に面して立つ変らぬ桜の木が重要な役割を演じる。京都での川床での宴会で、伊織がるんから送られて来た手紙に挟まれた桜の花びらを高台から散らすシーンなども見どころの一つである。
   それに、伊織が京に発つ時には、るんは妊娠中で、5年後に、この子は祖母とともに亡くなる。
   もう一つ違うのは、橋之助の演じる下嶋の扱いで、歌舞伎では、別れを惜しむべき旅立ちの前日に伊織を強引に碁につき合わせたり、最初から仲間内でも嫌われ者嫌な奴として扱われているのだが、実際には、披露宴会に呼ばなかったことから、突発的に起こった事件と言うことである。
   くだを巻く下嶋に帰ってくれと言ったら、前のお膳を蹴返したので、かっとなり刀を持って立ち上がり、二人が目と目を見合わせた時、下島が一言「たわけ」と叫んだ瞬間、伊織の手に白刃が閃ひらめいたと言うのである。

   再会を果たした義弟邸内での二人について鴎外は、” 爺いさんが隠居所に這入ってから二三日立つと、そこへ婆さんが一人来て同居した。それも真白な髪を小さい丸髷に結っていて、爺いさんに負けぬように品格が好い。婆あさんが来て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするような工合に拵えることになった。この翁媼二人の中の好いことは無類である。近所のものは、もしあれが若い男女であったら、どうも平気で見ていることが出来まいなどと云った。”と言って、平安無事な幸せそうな生活を描写している。

  蛇足だが、面白いのは、二人の描写で、”るんは美人と云う性たちの女ではない。体格が好く、押出しが立派で、それで目から鼻へ抜けるように賢く、いつでもぼんやりして手を明けていると云うことがない。顔も觀骨がやや出張っているのが疵であるが、眉や目の間に才気が溢れて見える。伊織は武芸が出来、学問の嗜もあって、色の白い美男である。只この人には肝癪持と云う病があるだけである。”と書いていて、るんが、あまりにも健気に祖母に尽くすので、”伊織は好い女房を持ったと思って満足し、それで不断の肝癪は全く迹を斂めて、何事をも勘弁するようになった。”と言うのである。



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持続可能な人類社会・・・ジェフリー・D・サックス

2012年02月08日 | 地球温暖化・環境問題
   先日、日経に、サックス教授のアディス・アベバでのエッセイ「Sastainable Humanity」が、多少省略して掲載された。
Project Syndicate の記事なので読んでみたら、冒頭から翻訳文が正確ではなく、ニャンスが大分違うので、私なりに約してみると、
   ”持続可能な発展とは、地球の生命維持に必要な資源を広く分配し、保護する経済成長のことである。しかし、現在のグローバル・エコノミーは、10億人以上の人々が、経済発展から取り残されており、地球環境は、人類の活動によって恐ろしい被害を受けていて、持続可能ではない。持続可能な発展のためには、共有された社会価値に導かれた新しいテクノロジーを動員する必要がある。”Sustainable development means achieving economic growth that is widely shared and that protects the earth’s vital resources. Our current global economy, however, is not sustainable, with more than one billion people left behind by economic progress and the earth’s environment suffering terrible damage from human activity. Sustainable development requires mobilizing new technologies that are guided by shared social values.
   サックス教授は、冒頭から、地球規模の貧困層の存在と地球環境破壊で、グローバル経済は、サステイナブルではないと明言している。

   続いて、サックス教授は、国連の「地球の持続可能性に関するハイレベル・パネル」のGSP報告について触れて、三つの柱、すなわち、極端な貧困の撲滅、経済発展によって得た富の社会全体への公平な分配、自然環境の保護について語り、これらを、持続的な発展のための経済的、社会的、環境的の柱、もっと簡潔に、持続可能発展の“triple bottom line”と称することが出来ると言っている。
   更に、サックス教授は、脱炭素社会から近年の異常な気候変動による大参事などにも論及しながら、人類を、特に、貧困層に、更に電力や交通利便を提供することは、不可能であり、解決策は、現在のテクノロジーを劇的に改善する以外にないと言う。

   現在のテクノロジーについては、半世紀以上も前に、ガルブレイスが、「豊かな社会」で説いていたように、たった一人の人間を運ぶのに1トンも2トンもの機械が必要なのか、とか、内燃エンジンの非効率などに触れて、或いは、GPSなどICT技術の更なる効率的な活用の必要性など、その不十分さにも言及しており、それ程、科学技術の未来を悲観しているようには思えないのが私には興味深い。
   そのためか、日経記事のタイトルは、Sustainable Humanityを、「発展持続への技術総動員」としているのだが、サックス教授は、最後に、持続可能な発展のためには、テクノロジーだけの問題ではなくて、さらに、市場のインセンティブ、政府のレギュレーション、R&Dへのパブリック・サポートの問題でもあり、政策やガバナンスよりももっと基本的なのは、(真の)価値への挑戦だと言う。
   そして、我々は、現在および将来のすべての人類に対して、運命を共有しているのだと言う認識を持って、社会正義への共通のコミットメントとして持続的発展を肝に銘じなければならないと結んでいる。
We must understand our shared fate, and embrace sustainable development as a common commitment to decency for all human beings, today and in the future.

   サックス教授の論点は、やはり、the challenge of values、最早、このままでは持続不可能となったグローバル経済にとっては、何が人類にとって一番大切か、その本質的に大切なvaluesを死守するために、唯一可能な手段として存在するテクノロジーのイノベーションの追及によって、持続可能な人類社会へのディベロップメントへチャレンジすることだと言うことであろう。
   そのvaluesの根幹をなすのが、運命共同体としての社会正義の実現、等しく生きる権利と尊厳をすべての人類が共有することが出来る社会であろう。

   アメリカの大統領選への予備選挙がたけなわだが、これだけ、貧困が深刻化し貧富の差が拡大して、アメリカンドリームが風前のともしびであるにも拘わらず、まだ、富裕層の富の拡大を図ろうとする候補者がいること自体が、驚きだが、あのシリアの惨状も堪えがたいが、今、この時点でも、どんどん餓死している人が居るアフリカや最貧国の現状を思えば、どこかで、先進国の成長を止めてでも、地球環境を死守すべき時期に来ていると言う気がしている。
   人類社会のサステイナブルと言えば、どうしても、資源の有限性や地球環境の方に視点が傾きがちだが、本当は、今、この宇宙船地球号上で運命を共にしている人々との真の共存共栄を、もっともっと考えなければならないのだろうとも思っている。
   私自身、経済発展論者ではあるが、本当に、人口がどんどん増えて行き、人々の生活が益々豊かになって行き、尚且つ、持続可能な地球環境を維持できるようなテクノロジーの進歩と経済発展があるのかどうか、日本社会もそうだが、世界全体の雲行きが益々風雲急を告げ始めて来ると、段々信じられなくなってくる。
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アップルiPodとソニー・ウォークマンの差

2012年02月07日 | イノベーションと経営
   これまで、破壊的イノベーションから見放された歌を忘れたソニーの蹉跌については、何度も、書いて来たが、もう一度、何故、技術的にははるかに進んでいたウォークマンが、iPodに負けて、イノベーターとしてのソニーのお株をアップルが奪ってしまったのか、デービッド・A・アーカーの見解を交えて考えてみたいと思う。
   
   アーカーが、Brand Relevanceの「新しいコンセプトを見つけ出す」と言う章のアップルの項目で、実は、ソニーが、iPodの2年前の、1999年ラスヴェガスのコムデックスで、音楽ファイルを保存できる「メモリースティック・ウォークマン」と、同じくメモリーに音楽を保存できる「ミュージック・クリップ」を出したが失敗したとして、その理由を述べている。
   第1は、そのテクノロジーが早すぎたこと。64メガバイトで20曲程度で、値段が高かった。
   第2は、ソニーは、ずっと業界標準を避けて来た。自社開発の音声圧縮技術ATRAC3を装備していたので、MP3ファイルを変換するソフトの使い勝手が悪く時間が掛かった。
   第3に、強固な独立路線を貫く2事業部が開発した2種類のデバイスを売ることに内外で混乱があった。ソニー・ミュージックの著作権問題でユーザーに面倒を掛けた。
   この説明から見えてくるのは、結局、当時のソニーには、ウォークマンを開発した時のような盛田昭夫や統合化された組織がなかった、すなわち、ソニー製のスティーブ・ジョブズが居なかったと言うことであろう。

   iPodの成功に中心的役割を果たしたのはジョブズ自身だとして、アーカーは、既存のMP3のソフトとは動きが遅く、インターフェイスに不足があることに気づき、開発プロジェクトにゴーサインを出して、開発過程での妥協は一切認めず、偉大な商品開発に向けてチームをプッシュしたのだと言う。
   ニーズがあるにも拘わらず、競合他社の既存製品にたいしたものがなかったし、東芝の安価な18インチのハードドライブなど社外から適切なハードを調達可能になるなど援軍に恵まれ、タイミングも絶妙だったと言うことも幸いしている。
   もう一つの大きな成功の要因は、音楽業界を説得して確立したiTunesのアプリケーション。
   この市場の動向を透徹したビジョンで見通し、果敢にリスクに挑戦して、ブルーオーシャンを追及するイノベーターとしてのCEOスティーブ・ジョブズがあったればこその快挙であろう。

   以前にも書いたことがるが、ビル・ゲイツが説くようにスティーブ・ジョブズは、IT技術に対しては殆ど知識がなく、自分自身で技術開発した製品も一つもなく、そして、アップルが開発した圧倒的な人気を博した新商品・iMac,iPod,iTunes,iPhone,iPadなどについても、先行製品や先行モデルがあって、必ずしも新発見・新技術ではなかった。
   しかし、これらの多くの破壊的イノベーションの最たる製品を、一つの会社の一人のCEOが開発したと言う事実は、驚異と言うべきで、アーカーが言うように、生まれ出でたのは、マーケティングの常識とは違って、顧客からではなく、ジョブズと彼の周辺の市場を見抜く力から生まれたと言うことである。
   
   アーカーは、ジョブズの更なる成功であるピクサーについても触れており、ジョブズの事業から学ぶ事として何点か指摘している。
   第1は、最初から明確なビジョンがあった訳ではなく、どの場合にも開発過程で様々な変更が加えられて製品化されており、前述したようにいずれの場合にも、先行商品に使われていた技術に基づいたもので、ゼロからの開発はない。
   第2に、満たされない顧客ニーズがあることは明白だったが、主に技術的な障害があった。その障害を、社内外の人材と製品を活用して解決し新商品を生み出した。
   第3に、非常に強力な参入障壁を構築したこと。独自のオペレーション・システムとiTunes、アプリケーションを購入するアップルストア、アップルだけで完結する循環型システムetc. アップル・ブランド、ロイヤリティの高い熱烈なファン、次々と投入される新製品の持つ話題性やマスコミの報道。

   このアーカーのアップルへの指摘は、そのまま、かってのイノベーターの雄であったソニーに、そっくり当てはまる。
   クリステンセンが、イノベーションを連発した企業は、歴史上ソニーしかないと指摘していた頃のソニーである。
   むしろ、リノベーションを追求した(?)アップルよりも、オリジナリティを追求したソニーの方が、勝っていた。と言っても良いかも知れない。

   野中郁次郎先生は、モノの性能の次元でしか考えられなかったソニーが、コトづくりのイノベーションを追求したジョブズに負けるのは当然だと言っているのだが、結局は、ソニーのソニーたる所以であった第二の井深大や盛田昭夫を、二度と排出できなかった悲劇であろうと思っている。

   ソニーのDNAが変ってしまったと言われているのだが、創業者たちのスピリットが消えてしまったのみならず、あまりも巨大な企業になり過ぎて、かっての出井伸之CEOさえ、有効にコントロール出来なかった制度疲労してしまったリバイヤサン・ソニーの明日は暗いとしか言いようがない。
   コスト競争にさえ大きさが障害になる時代であり、特に、デジタル革命後ICT技術の驚異的な進展でオープン化が進み、自由でフリーな知識情報など叡智と美意識、そして、科学技術のクリエイティブな総合化が求められる今日、ソニーのような企業システムが適切かどうかも問われているのだろうと思う。
   
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テレビを見ることの楽しみ

2012年02月05日 | 生活随想・趣味
   先日、かなり親しい友人が、テレビを見るのは、民放番組ばかりで、NHKは詰まらないので殆ど見ないと言っていたのだが、これは、テレビは、殆どNHK,それも、BS番組ばかりを見ている私には、非常に奇異な感じであった。
   BS番組も、主体は、BSプレミアムの、俗に言う教養番組と言われている類のものだが、録画することも多い。
   テレビ番組表は、NHKステラのBS番組とWOWWOWの番組表くらいしか注意して見ないが、それも、実際には、放映時間だけ時間を潰すことになるので、そんなに沢山は見られずに、録画してもDVDだけがどんどん溜まって行くことになる。

   ニュースにしても、NHK総合のメインの番組は見ようとはしているが、時間が合わないと見ずに過ごすことが多く、民放のニュース番組は、特別な場合は別だが、コマーシャルが煩わしいので、殆ど見なくなってしまった。
   ニュースで必ず見るのは、朝のBS1のワールドWAVEで、一応、これだけは録画していて、見られなかった時には、追っかけて見ることにしている。
   NHKも相当力を入れていて、キャスターも有能な人たちが当たっているので、新聞や他のメディアでは、接し得ないような生々しい激動するアップツーデイトな世界情勢を実感できて非常に参考になる。
   夜10時以降の番組も出来れば見たいと思っているのだが、時間がない。

   私は、アメリカとヨーロッパで生活したことがあるので、アメリカでは、ウォルター・クロンカイトやダン・ラザーのNBCニュースなどの3大ネットワークとCNN、ヨーロッパではBBCが主だったが、相対的には、NHKのニュースよりは、かなり程度が高かったように思っている。
   内容にもよるのだが、少なくとも、盆や正月の大移動の時に、新幹線や飛行機に乗る子供にインタビューして愚にもつかない紋切り型の返事を収録して放映するようなことは絶対にないし、火事や交通事故やDBなど日常的な出来事や大衆迎合型のニュースをこれ程までに力を入れて放映することもないし、もう少し、世界の出来事や人類にとって大切なことに注意を払って番組を組んでいたように思う。
   大宅壮一が、某テレビ番組を、「一億総白痴化」と言ったのは有名な話だが、この程度のニュース番組ばかりを流して居れば、日本人の国際感覚は世界水準以下となり、朝から晩まで、タレントと称する多くの人たちがわいがや騒いでいるバラエティ番組などは、見る人が居るからペイするのかも知れないが、日本人の文化程度と知的水準の将来が思いやられると言うものであろう。

   大阪は、お笑いの方が根付いていると言って、交響楽団や文楽への補助金をぶった切る橋下さんが正しいのか、世界無形文化遺産である文楽維持のためにはもっと公共予算を増やすべしと言う私が正しいのかは知らないが、テレビの「一億総白痴化」効果のお蔭で、どんどん、日本人が営々と築きあげて来た古い価値ある文化や伝統が、消えつつあったり劣化しつつあると言う嘆きの声が、あっちこっちで上がっていることは事実のようである。
   先日も、映画もテレビドラマも、時代劇がどんどん下火になって行くので、時代劇を作り出す人々や技術などが消えて行って風前の灯だと、テレビで報じていたが、あの行燈の灯をワンカット撮影するだけでも、セットの作成準備から大変なプロの人たちの技術や業の蓄積有ってのことで、映画が消えれば、その技術も消えてしまうのである。

   話が脇道にそれてしまったのだが、テレビで何を見て楽しもうとも、人好き好きであるから、自分の勝手なので、それ以上、知人とは、テレビの話は止めてしまった。
   もう少し、どこが民放の良さなのか聞いておくべきだったと思ったのだが、この頃は、もう、人生も最終ラウンドに近づいて来ると時間が惜しくなってくるので、テレビを見るのも、それ相応の心構えが必要なのである。

(追記)口絵写真は、オランダからの輸入であろう、園芸店で球根の入ったボックスを買って来て、窓辺に置いていたら咲いたアマリリスである。キューケンホフ公園では、チューリップが消えた5月に、沢山のアマリリスが展示される。大味だが、華やかである。
   
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映画:オペラ座の怪人 25周年記念公演 in ロンドン

2012年02月04日 | 映画
   ロンドンが懐かしくなって映画館に出かけたが、圧倒的な迫力で、英国人が如何にアンドルー・ロイド・ウエーバーのミュージカルを、そして、「オペラ座の怪人」を愛しているか、そして、シェイクスピアの国イギリスのパーフォーマンス・アートの質が如何に高いかが良く分かる。
   小学生だった娘が好きだったので、ロンドンに居た時に、ハー・マジェスティーズ劇場へ何回か通って観たことがあるのだが、やはり、劇場の規模が限られているので、巨大なロイヤル・アルバート・ホールでの最新のオーディオ・ビジュアルを駆使した最新版の記念公演には、また、違った味わいが加わっていて素晴らしかった。
   難を言えば、ホールの限界として当然だが、ハー・マジェスティーズ劇場の方は、天井の巨大なシャンデリアが、舞台に向かって急降下する迫力があるものの、アルバートの方は、中空で火花を散らして炸裂するだけであった。

   今回の舞台は、BBCプロムスの会場スペースよりかなり広く取って、劇中劇の場面があるので、正面の劇場部分を上手くホールの上階サークル席と連結させて豪華な桟敷席を作るなど工夫されている。
   また、オーケストラを2階に設えて浮かせてあるので視界の遮りは少なく、その上下、劇場舞台部分の背後には、スクリーンを設けて、映像を映しながらバックステージの舞台展開を図っているので、展開がスムーズで効果抜群である。
   クリスティーヌ( シエラ・ボーゲス)とラウル・シャヌイ子爵(ヘイドリー・フレイザー)がパリ・オペラ座の屋上で歌う愛の二重唱シーンでも、上部には、劇場の屋根と背後のパリの街並み、下部には、劇場のガラス張りの鉄骨天井が映されていて、実に綺麗でファンタースティックなパリの夜景が演出されており、この口絵の地下の水路での小舟のシーンでも電飾効果を上手く取りいれて幻想的な雰囲気を醸し出すなど、ビジュアル技術を駆使した演出は、実に美しくて素晴らしい。
   映像でありながら、劇場の豪華な幕やセットなども不必要でありながら、実際の舞台のようで殆ど異質感がない。

   何と言っても素晴らしいのは、至高の愛をテーマにした物語そのものではあろうが、私には、全編にわたって最初から最後まで流れ続けるあまりにも美しい音楽の魅力には抗しきれないものがある。
   ミュージック・オブ・エンジェルがテーマだが、あのモーツアルトのように、神様か天使が書いたとしか思えないような徹頭徹尾甘美で陶酔させるような音楽を聞いていると、正に、天使の音楽である。
   ウエーバーの他のミュージカル「キャッツ」や「エビータ」などのミュージカルを見ているが、このオペラ座の怪人の音楽はその美しさに切れ目がなくワーグナーのトリスタンとイゾルデの愛の二重唱のように延々と続く。
   尤も、ミュージカルが素晴らしい公演として成功するためには、ウエーバーが挨拶で言っていたように、製作を担当したキャメロン・マッキントッシュを筆頭にして多くの芸術家やエンジニアなど専門家のサポートあってこそだと思うのだが、やはり、オペラと一緒で、真っ先に作曲家ありきであろう。

   さて、25周年であるから、随分、多くの素晴らしい歌手たちが、この「オペラ座の怪人」の舞台に立ってきたのであろうが、今回のオペラ座の怪人を演じたラミン・カリムルーも、実に素晴らしい歌手で、二人の若い恋人たちとの相性も良く、素晴らしい舞台を作り出している。
   巨大な劇場であったから、殆どの聴衆には細部の動きは分からなかった筈だが、映画でのクローズアップ・シーンが多かったので、歌手たちの非常に細かいところまで神経の行き届いた繊細な演技には、感心して見ていた。
   それに、今回の特別公演で良かったのは、初代のクリスティーヌを演じたウエーバーの妻でもあったサラ・ブライトマンが登場して、往年の輝きと美声そのままにクリスティーヌの歌声を、かっての同僚たちと披露したことである。
   私は、ロンドンへの通勤途中、車の中で、それまでのモーツアルトに代えて、オペラ座の怪人初演版のCDを聞き続けていたので、強く印象に残っている。

   25周年記念と言うから大変なロングラン興行だが、私たちがロンドンで見ていた時には、丁度人気絶頂の頃で、チケットを申し込んでも半年以上は待たされて、中々手に入らなかった。
   一度など、あまり、待たされてチケットを失ってしまったのだが、クレジット・カードで買っていたので、追跡してくれて、代わりのチケットを用意して見せてくれたことがあり、流石、金融大国イギリスだなあと思ったことがある。
   ロンドンのロイヤル・オペラでも、イングリッシュ・ナショナル・オペラでも、非常に入口ロビーは狭くて、当然、ロンドンのハー・マジェスティーズもそうだが、ウエストエンドなどの多くのミュージカル・シアターも、ロビーや付帯のパブリック・スペースが非常に狭くて混雑するのだが、この混み具合がまた観客のワクワクとした観劇気分をハイにして雰囲気を盛り上げているのだから不思議である。

   一方ロイヤル・アルバート・ホールは、謂わば、巨大なサーカス劇場と言った円形の多目的巨大劇場である。
   私など、ジャパン・フェスティバルの時に来た大相撲ロンドン場所やテニスの国際試合などを見たことがあるが、やはり、音楽関係の催し物が多くて、一番良く通ったのは、プロムスの時で、コンサート・オペラは勿論、ウィーン・フィルやベルリン・フィルなどもここで聴いたが、あくまでフェスティバルで、まともなコンサートではあろうが、やはり、正式なコンサート・ホールで聴いた方が良いのは勿論である。
   しかし、一度は、アシュケナージ指揮ベルリン放響のベートーヴェン第九合唱の演奏会で、皇太子や欧米の首脳などが列席した特別記念公演に行ったことがあるのだが、結構、ハレの舞台にも使われることがある。
   いずれにしろ、会場の巨大さは、パーフォーマンス・アートの表現の可能性を広げるもので、以前に巨大なロンドンの体育競技場でオペラ「トスカ」を見たことがあるが、舞台となる教会の外の情景まで舞台に取り入れていたし、もっと面白いのは、ヴェローナの古代劇場でのオペラで、「トーランドット」「アイーダ」だったが、正に、圧倒的な迫力であり、オペラハウスでの公演とは違った楽しみがあった。

(追記)口絵は、ホームページから借用したが、今回のではなく、以前の演出のようである。
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カーメン・M・ラインハート&ケネス・S・ロゴフ著「国家は破綻する」

2012年02月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   経済書で専門家の間で最も評価の高いのが、この本。
   原題は、「THIS TIME IS DIFFERENT」、すなわち、「今回は違う」と言うことだが、これまでの800年間の世界中の金融危機を調べてみたら、皆、同じ道を辿っており、「これはいつか来た道」なのに、そのことを忘れてしまって、金融危機の度毎に、人類は、「今回は違う」病に翻弄され続けて来たと言う話である。
   膨大なデータを集めて、一つ一つ丹念に検証して理論構築を行っていて感動的でさえある。

   いつか来た道とは、「巨額の債務に依存する経済はきわめて脆い。知らないうちに断崖絶壁を背にして座っているようなもので、偶然が重なって信頼が失われると、あっと言う間に谷底に転落する。」と言うことだが、「今回は違う」シンドロームのために、「金融危機はいつかどこかで誰かに起きるものだが、今ここで自分の身には降りかかって来ない、何故なら、前よりもうまくやれる、われわれは賢くなった、われわれは過去の誤りから学んだ、現在のブームは、健全なファンダメンタルズやイノベーションや賢明な政策に支えられているのだから昔のルールは当て嵌まらない」と言った強固な思い込みに負けて、同じような金融危機に見舞われ続けていると言うのである。
   この口絵の表紙の帯に大書されているように、「バブルとその崩壊、銀行危機、通貨危機、インフレを経由して、対外債務・対内債務のデフォルトに至って金融危機が引き起こされると言う800年の金融の歴史が、「債務が膨れ上がった国は、悲劇に向かっている」と言う厳粛なる事実を立証していると言うことである。

   日本の金融危機については、世界の五大危機の一つとして検証しているので、随所で日本の金融危機が説かれているが、日本語版への序文で、多少詳しく説明されている。
   日本は、戦後に奇跡的な経済成長を遂げた点や、先進国において最も長いリセッションを経験した点などで特別な国ではあるが、
   日本の「失われた10年」の全体像は、本書でも示すように、金融危機前後の年に多くの国が経験したこととさして違わない。民間の借り入れの大幅増と資産価格の急上昇に続いてマクロ経済の破綻と政府債務の急拡大が起きるのは、どれも極めて典型的な症状である。と述べている。

   ところで、現在の日本の国家債務についてだが、「債務の許容限界」と言うところで、先進国であっても、債務の定義にもよるが日本のように170%近くに達していれば、問題が多いと考えられる(日本の外貨準備は極めて潤沢だが、その点を考慮するにしても、純債務がGDP比94%というのはやはりひどく高い)P.61と述べている。
   しかし、この本を、そのまま素直に読めば、日本の異常な国家債務の悪化が、日本を危機的な状態に追い込みつつあることは、誰でも分かることである。

   かって、国会議員の読む本が如何に貧弱かを近くの本屋さんが語っていた記事を見て、このブログで私見を書いたことがあるが、詰まらぬ政争でうつつをぬかしている暇があれば、この本を国費で買ってでも強制して読むべきであろう。
   ジャック・アタリも、日本の国家債務危機によるデフォルトが、もう数年で来ると言っている。
   日本国債は、大半を日本人が保有していると言っても、今や、50兆円以上は外人が保有しており、誰かが狼狽して、或いは某国が国家戦略として、ほんの数兆円投げ売りすれば、大暴落筆致で、日本経済がパニック状態に陥る。
   日本の貿易収支が赤字になったが、一時的だと言う一般的な見方だが、日本の誇りであり雄であるソニーやパナソニックが、何年もテレビ事業が赤字で今期数千億円の赤字決算だと言う事実を見れば、貿易立国と言われた日本の経済産業構造が大きく地滑りを始めたことがはっきりと見えて来ている。

   日本の次の経済危機は、絶対に食い止めるべきだと思っているが、もし起これば、日本の経済社会を根幹から覆してしまう。
   日本人全体の太平天国に酔いしれたような危機意識の欠如が寂しい。
   
   
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新春名作狂言の会・・・新宿文化センター

2012年02月01日 | 能・狂言
   萬斎と逸平と言う東西の人気絶頂の狂言師のトークで始まる楽しい狂言の会が、新宿で開かれた。
   会場は、多目的文化ホールなので、簡単に設えられた仮設能舞台だが、バックのスクリーンで雰囲気を盛り上げる等工夫がされていたが、若い女性ファンが詰めかけていて、華やいでいた。
   西の茂山千五郎家の「千鳥」、野村万作の「鬼瓦」、最後は、萬斎の「弓矢太郎」と言う曲そろえで、非常に密度の高い興味深い舞台を見せてくれた。

   冒頭、逸平が「千鳥」の、萬斎が「弓矢太郎」の解説を行っていたが、面白かったのは、大蔵流と和泉流、それに、京都と江戸と言うルーツの違いによる狂言の差異で、千鳥の舞を、謡が殆ど同じなので、二人で謡いながら、同時に舞っていたのだが、非常に違っていたし、夫々、他にも違いがあって、話術の達者な二人のユーモアあふれるトークを楽しませて貰った。

   最初の「千鳥」は、いかにも、上方の話と言うか、私の子供の頃は普通の商習慣で、今でも、関西には多少は残っているようだが、ツケの話で、主人(逸平)の命令で、太郎冠者(千五郎)が、ツケがたまっている酒屋(正邦)に、一銭も持たずに出かけて、話好きの酒屋に津島祭の話にかこつけて、酒樽をマンマとせしめて帰ると言う話である。
   当然、狂言は、逸平がトークで突っ込まないでくれと言っていたように、物語に仕立ててあるので、話の筋には無理があるのだが、取ってつけた様なウイットに富んだ挿話が面白い。
   主人が理屈をこねてしぶる太郎冠者を酒屋に行かせるのもそうだが、目の前に出された酒樽(口絵の櫃)を、浜辺で千鳥を捕える真似をして持って帰ろうとしたり、山鉾を引き回す仕種で持ち去ろうとするのだが、酒屋に抵抗され、最後に、流鏑馬の話をして、馬に乗る真似をしながら走り回り隙を見て酒樽を持って逃げると言う話なのだが、いかにも世間離れしたおう様な駆け引きが面白く、それに、長年で磨き上げられた津島祭を引き合いに出した芸の豊かさなども、この千鳥を名曲としている要因であろうか。
   狂言歌謡「宇治の晒」の一節「浜千鳥の友呼ぶ声は、ちりちりやちりちり、ちりちりやちりちりと、友呼ぶところに島陰よりも・・・」の、ちりちりやちりちりを取って太郎冠者が千鳥を真似て踊り出すところから面白いのだが、とにかく、愛知の津島だと言う津島祭がどんな祭か知らないが、建前上は、無い知恵を絞って必死になって酒樽を持ち帰ろうとする太郎冠者の涙ぐましい努力を多とすべきであろうか。
   とにかく、千五郎の微に入り細をうがった熱演が素晴らしく、長男の正邦が、それを対等に受けて、それに、飄々とした逸平の何とも言えないおかしみが楽しかった。

   次の人間国宝万作が大名を演じ、深田博治が太郎冠者を演じる「鬼瓦」は、非常に短いが、因幡堂の鬼瓦が国元の妻に似ていると言って泣くと言う人情味あふれる曲である。
   訴訟が終わって国元へ帰る事になった大名が、信仰している五条の因幡堂を国元へ勧進しようと思い、因幡堂へ検分を兼ねてお礼参りに来る。お堂の様子を見ていると、屋根の上の鬼瓦に目が行き、目元や口元が国元に残してきた妻に生き写しだと感じて早く帰りたいと大泣きして故郷を懐かしむと言う話である。
   訴訟も一段落して国へ帰れる開放感も手伝って、国に建てる因幡堂の参考に、細部までしっかりと見ておけと太郎冠者に指図して御堂を念入りに見ていた大名が、急に、屋根の上に黒いものがあると言って見あげたのが鬼瓦。
   私は、万作の至芸を見たくて、双眼鏡でじっと万作の顔を凝視していたが、今まで、陽気に楽しみながらお堂を見ていた大名が、鬼瓦を見て、びっくりしたような表情で真顔になってから、オイオイ大泣きするまで、そして、太郎冠者にもうすぐに会えると言われてから、気を取り直して平常心に戻るまでの顔の表情の微妙な変化と心の揺れを間近に感じて感激した。
   しばらく見ない妻が恋しいと言う直な思いと、妻が象徴して沸き起こる故郷の総てへの懐かしさ愛しさが、一気に脳裏を去来して、胸にどっと込み上げてくる万感の思いを、この瞬時の表情に凝縮するのが如何に難しいか、これこそ、人間国宝の人間国宝たる所以だと思って見ていた。

   もう一つ感じたのは、一昨日、観世銕之丞のところで書いた能における能面の重要さとの関連だが、能は、瞬間的に昇華し凝結した一切姿形を変えない木の面をつけて、(或いは、直面でも表情を現さずに、)喜怒哀楽等一切の人間の表情を演者が表現しなければならないのだが、劇的要素の強い狂言は、その喜怒哀楽等総てを、役者である狂言師が、自分自身の表情と演技で演じなければならないと言う大きな表現の違いである。
   このことは、木偶である人形が遣われる文楽と歌舞伎にも言えることで、パーフォーマンス・アートとしての劇を演じる役者に課された宿命と言うことであろうか。
   極端に言えば、同じ題材を扱った作品が、能にも狂言にも文楽にも歌舞伎にもある(?)と思うのだが、そう思って見ると、日本の古典藝術の奥深さが分かって来るのではないかと思っている。

   最後の「弓矢太郎」は、正に、萬斎の独壇場の舞台で、萬斎の芸の良さ面白さが凝縮したような感じの狂言だと思った。
   臆病のくせに、何時も弓矢を持ち歩いて、猪でも狐でも何でも射てやると大見得を切っている太郎(萬斎)を、脅かして懲らしめてやろうと思って、当屋(石田幸雄)や立衆たちが、恐ろしい妖狐の話をしたり天神の森に鬼が出ると言う話をして太郎に目を回させる。しかし、それでも、強がるので、太郎に、肝試しに天神の森の老松に扇をかけさせることにする。
   用心のため太郎は、鬼の面をつけて出かけ、偵察に来た当屋も鬼の面をつけてきたので出くわした二人は、仰天して気絶する。帰りを心配してやってきた立衆たちが、当屋を助け起こして、当屋が鬼が出た話をしたので、先に気絶から蘇った太郎が隠れて聞いていて、再び、面をつけて当屋や立衆を追い散らすと言う話。
   要するに、強がる太郎も弱虫なら、皆も同じ弱虫で、大同小異だと言う話なのだが、怖い話を聞いて気絶した太郎が、まだ、性懲りもなく腕自慢をすると言う話にしろ、最後に、鬼が出る話を、当屋たちが本気にし出したのを知って、わが意を得たりと悪戯小僧のようにほくそ笑んで、鬼の面を被って出てびっくりさせるなどと言うのは、やはり、萬斎は実に上手いし、現代に通じるコミカル感やスピード感があって面白かった。
   気になったのは、面をつけた萬斎のくぐもった発声だが、この点では、能役者は一枚も二枚も上手で、このあたりは、やはり、狂言は能の足元にも及ばないと言うことであろうか。
   
(追記)口絵写真は、茂山千五郎家otofukyougenのページから借用。
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