熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

フラワーセンター大船植物園・・・桜が美しい(2)

2017年04月14日 | 鎌倉・湘南日記
   このフラワーセンターの桜は、やはり、植物園なので、バリエーションがあることが嬉しい。
   野生本来の桜と言うよりも、園芸種として開発された桜が多い所為か、とにかく、美しい。
   一本一本桜の種類が違うので、特に、5分咲きくらいで、花弁がすべて新鮮な状態で鑑賞すると、創造主のなせる業と言うべきか、本当に美しいことが良く分かる。
   今回は、さくら園の東半分の桜と、築山の正面に植わっている静桜について、書いてみたい。
   
   
   
   
   

   まず、目に付くのは、まだ、小木ながら、豪華な花姿で存在感を示すのが、王昭君。
   前漢の元帝の時代、絶世の美女ながら、絵師に賄賂を贈らなかったために醜く描かれて、匈奴の呼韓邪単于の妃として送られた悲劇の女性で、杜甫や李白の詩にも、能「昭君」でも、登場する。
   
   
   
   
   
   
   
   

   この王昭君に並んで、「楊貴妃」が、植わっていて、これは、はるかに小木で、胴吹き芽に一輪だけ咲いていて、その根元に名札がついていて、写真にし難く、とにかく、二枚写真に撮った。
   この一輪を見ただけでも、かなり、豪華な桜であることが分かる。
   最近、杜甫と李白の本を読んで、多少、詩心を学んだつもりなので、牡丹を思わせるイメージを桜にも感じたのであろう。
   
   

   次は、「妹背」。
   ピンクの清楚な感じの花である。
   
   
   

   白い桜の「大提灯」。
   
   
   

   繊細な感じのピンクの「手弱女」。
   しとやかなやさしい女性を言うようで、益荒男との対称言葉だと言う。
   しかし、浮かれ女。あそびめ。と言う意味もあると言うから、中々、意味深な味のある女性のようで、よく見ると、妖艶な蠱惑的な雰囲気もある桜である。
   
   
   
   
   白い鮮やかな「白妙」。
   白い桜でも、蕾は、ほんのりとピンクで優しい。
   
   
   
   

   一番華やかに咲いている感じが、「関ヶ谷」。
   
   
   
   
   
   
   一回りした時には、一応、桜の名前を意識していたが、二回目に回った時には、雰囲気を味わいたくて、シャッターを切った。
   無意識なので、これが、私自身の気持ちなのかもしれない。

   まず、空をバックにしたショット。
   日本きっての桜守佐野藤右衛門は、桜は、下から見上げるものだと言っていた。
   
   
   
   

   接写や胴吹き芽。
   望遠ズーム18-200を絞り開放で、露出を調整するくらいで、何の造作もせずにシャッターを切り続けているので、良い写真が撮れるはずがないのだが、とにかく、下手な鉄砲数打ちゃ当たるの姿勢である。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   入園門から、築山を臨むと、今、シャクナゲが満開で、極彩色の風景が展望できるのだが、その陰にひっそりと咲いている白い花が、小輪で清楚な「朝桜」。
   花が小さいので、ユキヤナギのような雰囲気さえする。
   
   
   
   

   私は、花見客で賑わう雰囲気が嫌いなので、静かにひっそりと咲いている桜を求めて、学生時代に、京都や奈良を歩いたのだが、今でも、それと裏腹なのか、ソメイヨシノとは違った桜を見たいと言う気持ちが強い。
   佐倉城址公園の桜も、すこし、遅れて八重桜が咲くころに良く行った。
   このフラワーセンターも桜の名所ではなさそうで、観光客は少ないのだが、これだけ、綺麗な桜を鑑賞しない手はないと思っている。
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フラワーセンター大船植物園・・・桜が美しい(1)

2017年04月13日 | 鎌倉・湘南日記
   2月26日に、このフラワーセンターが、ソメイヨシノから作出した玉縄桜の満開記事を書いたが、今は、ソメイヨシノが満開である。
   ところが、このフラワーセンターには、そのソメイヨシノは、大木にはなっているのだが、数本しか植わっていない。
   しかし、そこは植物園で、個々の数は少ないが、珍しくて興味深い綺麗な桜が、何種類か植えられていて、一部の八重桜を残して、綺麗に咲いている。

   まず、ソメイヨシノだが、やはり、その下には、子ども連れの団体が円陣を作って、花見を楽しんでいた。
   
   
   
   
   

   そのソメイヨシノから少し離れたところ、シャクヤク畑を隔てて、菖蒲園の土手に沿って、5本の紅枝垂桜が植えられていて、美しく咲いている。
   それ程、大きな木ではないが、滝のように枝垂れてたピンクのカスケードが美しい。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
    
   

   もう一つの桜の鑑賞スポットは、一直線に梅が咲き誇るうめ園と遊歩道を隔てて並ぶさくら園の桜である。
   まだ、一部の八重桜の蕾が固いこともあって、華やかではないが、綺麗な花が咲いていて、近寄って、夫々の花を見ていると、桜花のバリエーションの妙を楽しめる。
   まず、今回は、西側のコーナーの桜について、記しておきたい。
   手前から、白い加賀の曙、淡いピンクの嵐山、緑の御衣黄、ピンクの日暮である。
   
   

   まず、加賀の曙。
   
   

   嵐山。
   
   
   

   御衣黄。
   新宿御苑では、殆ど咲いていなかったが、ここでは、大分開花していた。
   花が緑色なので、近づいて良く見ないと、見過ごしてしまう。
   
   
   
   

   日暮。
   まだ、満開からは程遠いのだが、ピンクの匂うような優雅な花弁が魅力的である。
   
   
   
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新宿御苑・・・華麗な桜花の乱舞

2017年04月12日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   国立能楽堂の定例公演がはねたのが、3時45分。
   薄雲りの気持ちの良い日であったので、千駄ヶ谷門に行けば、チケット売り場クローズの4時には間に合うので、新宿御苑に行くことにした。
   新宿御苑の閉門まで、30分少ししかなかったが、とにかく入苑した。
   桜は、ソメイヨシノなど、散った桜もかなりあったが、満開情報が出てから随分経ち、風雨に晒されててはいたが、まだ、見頃の雰囲気で、大変な人出であった。
   
   
   
   
   
   
   

   新宿御苑の桜の良さは、非常に巨大な大木の桜の木が多くて、それに、御苑と言うよりも植物園としての機能故に、さくらの種類が多くて、夫々に咲き分けていて、そのバリエーションを楽しめると言うことであろうか。
   まず、桜の風情を表現するために、アトランダムだが、少し、スポット写真を並べてみたい。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   次に、一眼レフを持ち合わせておらず、デジカメで撮ったので、接写できなかったのだが、個々の櫻花の風情を。
   八重桜は、まだ、殆ど咲いておらず、もう少しであろうか。
   御衣黄と言う緑の桜が咲きかけていた。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   私が見たかった桜は、茶室楽羽亭の枝垂れ桜である。
   確か、昨年も撮ったと思うのだが、今回は、閉苑時間での撮影だったので、殆ど障害物なく撮れたのが幸いであった。
   この桜は、見方によっては、一本に見えるが、実際は、二本の大きな桜の木である。
   西から東に歩いた視点からの写真を並べて置く。
   
   
   
   
   

   この日は、逆に、新宿門から出たのだが、イギリス風景式庭園に向かってのソメイヨシノの威容は、まだ、最盛期の雰囲気である。
   4時半閉苑で、早く出てくれと無粋にも追い出しにかかっていたが、外人観光客など聞いて聞かぬふり。
   太陽がまだ高く、これから夕刻にかけて、一番桜の美しい時間に客を追い出す、この官僚仕事のお粗末さ。
   文化文明の質がどんどん落ちて行く日本の悲劇でもある。

   それもそうだが、たった30分と少しの新宿御苑で、私自身が桜を鑑賞すると言う姿勢に欠けていたことを、いたく後悔している。
   
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鎌倉便り・・・鎌倉山のさくら道を歩く

2017年04月10日 | 鎌倉・湘南日記
   何時もバスで素通りして、鎌倉山の桜を見たつもりでいたのだが、今日は、鎌倉山のバスストップから、鎌倉山のさくら道を歩いた。
   実際には、常盤口まで下りずに、途中の若松で引き返したのだが、この道は、さくら道ではあるのだが、鎌倉山経由で大船や江の島と鎌倉駅を結んでいる路線バスが走っていて、かなり、ビジーな自動車道であり、両側には、住宅が並んでいるので、桜並木が、ずっと、続いていると言うわけではではない。
   
   
   

   さて、鎌倉山の桜だが、仮名手本忠臣蔵の四段目の「花籠の段」で、扇が谷にある塩冶判官の上屋敷で、蟄居している判官に顔世御前が夫の心を慰めようと、八重桜を籠に生け、判官へ献上しようとするのだが、その桜が、この鎌倉山の桜なのである。

   さくら道の桜は、街道に沿って植えられているのだが、途中に、民家があったりマンションがあったり、見晴らし台があったり、気の利いたコーヒーショップや店舗があったりで、さくらは、その合間を縫って咲き乱れている。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   私は、さくらの幹から、直接芽吹いて咲くさくらの風情が好きで、一寸した雰囲気を楽しんでいる。
   
   
   
   
   
   このさくら道には、いくらか、椿が植わっていて、夫々、庭木ではないので、相当大きくなっていて、単調な花色のさくらとのコントラストが面白い。
   大概、ヤブツバキか乙女椿である。
   
   
   
   
   
   
   

   このさくら道を歩いていて、気づくのは、路傍の花木や野の花や、民家やショップや畑などから、顔を覗かせている花が、結構、楽しませてくれることである。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   さくら道の途中に、見晴台があり、この鞍部から、南の方は、海岸線の方を見下ろせ、北の方は、立ち木が混んではいるが、木の間から横浜の方が少し見えてくる。
   少し離れたところからは、江の島の展望灯台が見え、富士山が微かに見えていた。
   この鎌倉山の住宅地には、富士と江の島が展望できる建物があって、両方見える家は資産価値が高いのだと言う。
   
   
   
   
   
   
   
   

   ところで、少し、歩き疲れたので、小休止したくて、若松から引き返す途中で、喫茶店へ入ろうと思った。
   丁度、山小屋風のショップで、コーヒーショップではないのに、コーヒー始めましたと言う手書きの張り紙がしてあったので、面白いと思って入ってみた。
   チャーミングな女性が、今ドリップで煎れますから少し待ってくださいと言うことだが、別に、急ぐわけでもなく、店の中を見ていた。
   店の名は、AROUND <アラウンド>で、ブランド名が、The Landscapersと言うことで、サボテン科と言うのか多肉植物と言うのか、根のない様々な珍しい植物が、所狭しと並んでいて、マグカップもあれば、古木のオーナメントもあれば、装身具もあれば、とにかく、面白いものが並んだ雑貨ショップと言う雰囲気である。
   社長が、プロのLandscaperだと言うことで、近くに工房があると言う。
   変わっているのは、商品のタグから、店のポスターや飾り付けなども、一切、英語で、私も英米生活が長いので分かっているつもりだが、驚くほど日本離れしたバタ臭い店だが、全く、日本人の日本の店だと言う。
   この店は、最近まで、「葉山ボンジュール」で、創業100年の伝統を誇る人気ベーカリーだったようで、観光案内にも書いてある。
   パンを買うつもりで入ってきた親子連れが、失望して帰って行った。
   店の窓から、さくら道のさくらが綺麗に見える。
   
   
   
   
   
   
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わが庭・・・エレガンス・シャンペン、曙咲く

2017年04月09日 | わが庭の歳時記
   花見シーズンたけなわの週末だが、何となく落ち着かない雨模様。
   昨日、能楽堂に行ったので、千駄ヶ谷門から入って、新宿御苑の桜を見ようと思ったのだが、天気が悪くて気が進まず帰ってきた。
   能楽堂の桜は、満開であったし、この鎌倉山や西鎌倉のソメイヨシノも、今を盛りに咲き乱れている。
   強風と雨に叩かれて、早々に散り始めていて、可哀そうである。

   さて、暖かいので、蕾のわが庭の椿も、また、新しく咲きだした。
   朝、庭に出ると、雨露を受けた曙が、お椀のように水を湛えていたり、唐子の密集したエレガント・シャンペンが、たっぷりと雨を含んで頭を垂れていた。
   曙は、まだ、小さな苗木なので、しばらく時間がかかるが、わが千葉の庭では、花富貴とピンクの優雅な花姿を競っていたので、これからが楽しみである。
   
   
   
   
   

   ピンクと言えば、桃太郎が、これも、匂うような美しい花を咲かせ続けていて、魅せてくれている。
   
   
   

   まだ、咲いていない椿もあるが、咲き続けている椿の花は、
   ピンク加茂本阿弥、フルグラントピンク、鴇の羽重、トムタム、薩摩紅、卜伴、エレガンス・シュプリーム、マーガレット・デービス
   
   
   
   
   
   
   
   

   ヒヨドリに傷つけられたり落とされたりしなくて残ったモクレンが、咲いている。
   シャガも、綺麗に咲いている。
   ハナカイドウが、ピンクの薄い繊細な花弁を開き始めた。
   花ではないが、同じように実に繊細なもみじ琴の糸が、芽吹き始めて風に揺れている。
   
   
   
   
   
   
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ウィリアム・H・マクニールほか著「世界史 Ⅱ」インディオの悲劇

2017年04月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、アフリカの奴隷貿易について書いたが、
   1492年以降、ポルトガル人とスペイン人が、太平洋を越えて南北アメリカ大陸に到達し、内陸部に侵入を開始した。
   メキシコやペルーのように統一された帝国を発見すると、彼らは、軍事力で素早く征服するか、インカ帝国の場合のように、クーデターに近い形で乗っ取った。
   エルナン・コルテスは、数百人の部下を引きいて、アステラの敵からの支援と天然痘の流行に助けられて、1519-21年にアステカ帝国を滅ぼした。
   1532年には、フランシスコ・ピサロが、167人の手勢を連れて、天然痘で疲弊し内戦で引き裂かれたインカに攻め入り、外交術、裏切り、戦闘、殺戮によってほどなくインカを支配した。
   興味深いのは、インディオは、家畜に由来する伝染病やペストに免疫がなかったので、スぺイン人が持ち込んだ病原体にやられて、半数以上、恐らくは9割が命を落としたと言う事実である。

   しかし、北アメリカ、中央アメリカ、ブラジル、南アメリカの最南部「コースノール」などのように統一された帝国が存在しなかった地域は、植民地化は緩慢であった。
   他地域のスペイン領、ポルトガル人のブラジル、イギリスやフランスの北アメリカはこのケースで、支配権、経済的つながり、文化を押し付ける過程に何世紀も費やしたが、徐々に、「旧世界のウェブ」に組み込まれて行った。
   
   その後の、スペインの新世界とインディオへの、想像を絶するような極めて過酷な殺戮や支配や搾取を行ったことは、史上明確な事実であって、金銀財宝、ある限りの富を掻き集めて本国に送り、その富によってスペインは栄光を勝ち得たのだが、その栄光故に、経済が破たんするなど国運は下降の一途を辿っていった。
   マクニールは、詳しくは、アメリカの、「旧世界のウェブ」への融合について、記していないので、これまでに、私自身が、このブログで論じてきた諸点を加味しながら、ポルトガルやスペインの中南米支配の事実を敷衍してみたい。

   ダレン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンは、「国家はなぜ衰退するのか」の中で、
   スペインの征服者たちは、植民と同時に、インディオ達の豊かな帝国を略奪殺戮の限りを尽くして破壊して金銀財宝を本国に持ち去り、植民地形成後は、原住民たちを分け合って奴隷化したエンコミエンダ制度を確立し、更に、ミタ、レパルティメント、トラジンと言った圧政搾取システムを網の目のように張り巡らせて、先住民の生活水準を有無を言わせず最低水準に引き下げて、それを越えた収益をすべてスペイン人が吸い上げると言った社会制度を確立して、維持し続けて来たのである。
  これに引き換えて、遅ればせながら新大陸に乗り込んできたイギリス人達には、アメリカ大陸の好ましい部分、すなわち、搾取すべき原住民が沢山いて金銀財宝のある場所は、既に占領されてしまっていて、貧しい北米大陸が残っていただけであり、自力開発して、自分たちの力だけで生き抜く以外には道はなく、寒さと飢えに苦しむ苦難の運命の連続であった。と述べている。
   この英仏とスペインの植民地支配形態が、本国および植民地の将来像の命運を分けたと考えれば、非常に興味深い。
   

   J・D・ ダビッドソンは、これは、インディオへと言うよりは、植民地ブラジルへの対応だが、
   ポルトガル人は、ブラジルへは、金銀財宝や金儲けの機会を求めて来ており、移住地の開発や発展のために尽くそうとか、生活上も創意工夫やイノベーションを追求しようと言う気持ちなど更々なかった。
   その上に、もっと悪いのは、ポルトガル王朝の政策で、ナポレオンに駆逐されてブラジルへ逃げ込むまでの300年間、本国がブラジルに強いた鎖国政策及び収奪行為の酷さで、勿論、独自の外国との貿易は一切禁止で、印刷を認めないから出版文化も許さず、大学の設置は禁止、その上に、マニュファクチュア禁止と言う考えられないようなことが行われていたのである。
   と言って、ポルトガルのブラジル支配が、如何に近視眼的で自己本位であったかを語っており、現在まで尾を引いている法治国家とはほど遠いアミーゴ社会のブラジルの一面を匂わせていて面白い。

   ニューヨークタイムズの記者ラリー・ローターが、「BRAZIL ON THE RISE(仮題 台頭するブラジル)」で、現代ブラジルを克明に活写しており、群馬県立女子大学の「ブラジル学」の講義の参考にと思って、この本を台本にして21回にわたってこのブログで、”BRIC’sの大国:ブラジル”を掲載した。
   その一部を、以下に引用して、ブラジルのインディオおよび恵まれない人々について、追加情報を記しておきたい。
   インディオの人口だが、ブラジル建国時には600万人いたのが、1970年には、20万人に激減し、その後、人口が3倍くらいに増えているので、テリトリーの問題でトラぶっている。
   インディオは、少人数の集団を形成して移動する狩猟民であるので、広大な土地を必要としており、1%以下の人口で10%の土地を名目上支配しているので、それが増加するとなると、アマゾン開発に虎視眈々と身構えている開発業者など多くのブラジル人が、利権保護のために、大反発するのである。
   しかし、現実には、インディオの所有権が厳然と存在しているインディオ保護居住区は、地方の大ボスや鉱山業者や開発業者たちの違法極まりない侵入や乱開発で無茶苦茶に権利が侵害されており、駐屯している軍隊も、インディオを保護するどころか高飛車に対応してトラブルが絶えないと言う。
   現在でも、武装した開発団などが、どんどん、インディオ・テリトリーに押しかけて権利を侵害し、アマゾンの乱開発を進めていると言う。

   もう一つは、今様の賃金奴隷制度の存在である。元々、19世紀から20世紀初頭のゴム景気の時に端を発しているのだが、現在では、輸出用の植物栽培や、木材業、鉱山業と言った過酷な労働に、貧窮した農民労働者などが各地から集められて、粗末な住居に寝起きして奴隷のように酷使されていると言う。
   身分証明書や労働手帳は、燃やされてしまい、毎日朝の6時から仕事に出て夜の11時に終わり、生活必需品はすべて強制的に労働キャンプで買わされ、生活経費はすべて天引きされるので、賃金は一度も支払われたことがないと元賃金奴隷がローターに語っているが、ある宗教団体によると、そのような労働者が、少なくとも、2万人存在し、政府機関の急襲で、毎乾季に、1000人以上が解放されるのだと言う。
   武装した監視人によって厳重にガードされているので、逃げるに逃げられないというのだが、現実は、あの植民地時代の東北地方のサトウキビのエンジェニーニョ制度と殆ど同じような過酷さである。

    バンデイランテスが、インディオを目指して奴隷狩りに、奥地に踏み込み、マットグロッソやアマゾナスなど西に進出して、同時に、新領土を広げて行った。
   この大土地植民区を如何に開発すべきかだが、スペイン支配のラテン・アメリカには、沢山のインディオが居たので労働力に不足はなかったが、ブラジルの場合には、ポルトガルとの交易で文明の機器などを手に入れたインディオは取引に興味を失って奥地に入ってしまったので、広大な土地を開発するために、アメリカのように、アフリカから、黒人奴隷を輸入なければならなかったのである。
   ラテン系は、混血にはあまり拘らないので、スペイン系ラテン・アメリカには、白人とインディオの混血メスティソが、そして、ブラジルには、白人と黒人の混血ムラート(あのカーニバルで魅力的な女性はムラータ)が多いのは、この移民政策の所為である。
   ブラジルにおいては、CAPITANIASにおいて、膨大な黒人やインディオ達が、奴隷労働(slave labor)として、非人間的な過酷な労働を強いられて搾取に搾取を重ねられて、ブラジルの開発が進められて来たのである。

   吹けば飛ぶような小国ポルトガルが、真っ先に世界に雄飛して大航海時代を開き、地球上を二つに分けた「トルデシリャス条約」によって、奇しくも、南米大陸の東に飛び出した巨大なブラジルを植民して、BRIC'sの大国の基礎を築いた。
   スペインもそうだが、このポルトガルも、その恵まれた幸運とも言うべき運命故に、本国のその後がスポイルされたと言えば、言い過ぎであろうか。
   先の「BRIC’sの大国:ブラジル」にも書いているが、良くも悪くも、あの当時のポルトガルやスペインのDNAが、そのまま、新世界の国々の運命や国民気質にビルトインされて、今日を体現している。
   変わっても変わらない世界があって、面白いと思っている。
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ウィリアム・H・マクニールほか著「世界史 Ⅱ」黒人の悲劇

2017年04月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   Ⅱ巻目は、1450年から今日までの世界史を展望している。
   1450年時点で、シルクロードと海路によって「旧世界のウェブ」が拡大して、人類のおよそ4分の3を包含するようになっていた。
   このウェブは、西の端は太平洋に接し、西アフリカのサバンナからヨーロッパを含み、その北はロシアからシベリア、東の端は太平洋に達し、北は日本や朝鮮から、東南アジアの島々までを含む広大な地域である。

   したがって、バスコ・ダ・ガマやコロンブスが開いた大航海時代の幕開けは、この直後であり、別な小さなウェブとして存在していた南太平洋やアメリカを、「旧世界のウェブ」に取り込んで、その後、人類の世界史は、一気に、「唯一のコスモポリタン・ウェブ」への道を走り出したのである。

   我々が、世界史を学ぶ時に、コロンブスのアメリカ大陸発見やマゼランの世界一周などの快挙によって大航海時代の明るい面ばかりを観ている傾向があるのだが、私自身は、アメリカやブラジル、そして、ヨーロッパに在住した経験があるので、ヨーロッパ人が、文明開化の美名のもとに、如何に、アフリカや南北アメリカの歴史や文化文明、そして、人々の生活を踏み躙って犠牲にして今日を築き上げてきたのかを、身近に感じてきている。
   幸い、マクニールは、この本で、その歴史を、かなり、克明に描写しているので、今回は、この点に絞って考えてみたいと思う。

   まず、マクニールは、スコットランド人探検家A・マッケンジーが、カナダの毛皮を中国で売るのに都合の良い経路を探していて、北アメリカ大陸を横断した最初のヨーロッパ人だと紹介して、当時のウェブの拡大を述べながら、
   ”ウェブは、情報、人、物品、感染症を遠い地域にまで運び、離れた住民たちを協力させたり争わせたりし、何百万人の人々の運命を弄んで、ある者を富ませ、別のある者の命を奪い、あるいは貧困に陥らせ、一部の文化を衰退させ、その一方で別の言語(欧米語)を広く反映させた。”と書いている。
   実際の先進国ヨーロッパ人の新世界の文化文明や人々の生活破壊は、そんな生易しいものではなかった筈ではある。

   古くから、モザンビークや南アのイロコイ族などの奴隷貿易は行われていたが、奴隷貿易の重要性と規模に変化が生じたのは、太平洋岸ヨーロッパ人が世界の海岸を結び付けてからだと言う。
   1441年に、ポルトガルの船乗りたちが、初めてアフリカの黒人を捕えて、ポルトガル、マデイラやカナリア諸島の砂糖きびプランテーションに送り込んで奴隷貿易を始めた。
   1850年以降、奴隷貿易が廃止されるまで、1,100万人から1,400万人の奴隷がアフリカから送り出されて、その約85%が命を落とさずにアメリカ大陸に着いた。ブラジルとカリブ海周辺に、夫々、40%、アメリカ合衆国へ5%、残りが、その他のスペイン領中南米へ送られたと言う。
   ヨーロッパの奴隷商人は、西アフリカの奴隷市場で、金や銀や馬やタカラガイを対価に奴隷を買い取り、中南米のプランテーションへ送り込んだのである。
   数百万人の人々が、戦争で捕虜になったり、誘拐されたり、一族の誰かが犯した犯罪により奴隷となって、奴隷市場に送り込まれるのだが、内陸部の商人や掠奪者や王侯たちは、益々、多くの人々を奴隷にするようになった。アフリカの支配者たちは、敵を攻撃して、できるだけ多くの兵士を捕えて売ることは政治的に優れた戦略でもあったので、自らの利益のために戦争を仕掛けて捕虜を獲得することに励んだと言う。
   こうした行為の背後にあったのは、アフリカ人と言うアイデンティティの共通認識が存在しなかったため、奴隷商人が奴隷たちの運命に何の感慨も抱かなかった現実だ。とマクニールは言う。

   マクニールの気になるのは、次のコメントである。
   「奴隷貿易がアフリカに与えた影響は、大部分が間接的なものだった。アフリカの総人口からすると、ごく小さな比率を占めるに過ぎなかった。・・・
   特定の時期や地域において由々しき問題だったとは言え、奴隷貿易がアフリカ全体に及ぼした人口統計的な影響は恐らく小さなものだったはずだ。」
   そうだとしても、あまりにも悲しい人類の歴史の軌跡である。

   最古の「人類の祖先」が、人類の母ルーシーだと言われ、その後、ラミダス猿人アルディだと言われているが、いずれにしろ、人類の発祥地は、このアフリカであり、このアフリカから、人類は、壮大な艱難辛苦の旅を乗り越えて全世界に旅立ったのである。
   アルフレート・ヴェーゲナーの「大陸移動説」の地図を見れば、アフリカを中心にして、左右南北に、陸地が散って移動して行った(?)ことが良く分かる。
   アフリカは、奇しくも、人類にとって、最も重要な故地でもあることを考えると、感に堪えない思いである。

   この奴隷貿易の影響は深刻で、政治面で、奴隷貿易は国家の樹立と拡大を促したと言う。
   アフリカ大陸の多くの社会は、防衛のために武装化し、野心的な軍事指導者が台頭して、急速に蓄えた富と暴力的なやり方で既存の秩序を転覆させようとした。防衛の不十分な近隣社会から奴隷を調達することに長けた掠奪型の国家が優位になった。
   経済的には、ほかの手段よりも、更なる掠奪に役立つ馬や銃に投資して、奴隷売買の「利益で生活するの者の方が有利な状況であった。
   アフリカに持ち込まれた銃は2,000万丁に上ったと言われており、この奴隷貿易が、アフリカ社会の商業化を促し、遠距離の通商路の交通量を大幅に増やしたというから、皮肉と言えば皮肉である。
   奴隷貿易の影響は不均一だが、中には、消滅してしまった民族もあると言う。

   興味深いのは、文化面で、イスラム法が、信者の奴隷化を禁じていたので、イスラムの奴隷商人から逃れるために、イスラム教に改宗する人々が増えて、イスラム教の普及に寄与したと言う。
   ブラックアフリカに、かなり多くのイスラム教徒が居て、ボコハラムなどが、活躍して治安を悪化させているのは、そのような土壌があった所為なのであろうか。

   アフリカの太平洋岸は、奴隷貿易の拡張を通じて、「旧世界のウェブ」に参入した。   これが、マクニールの結論である。
   人間(それも、主に、アフリカ人自身が、同胞のアフリカ人)をモノとして売買した交易によって、アフリカが、歴史の幕開けを迎えたと言う、あまりにも残酷な現実である。
   文明化されていた旧世界を征服して植民地化された国とは違った、未開ゆえの悲劇だが、歴史上の汚点を少しずつ払拭しながら、人類は進化してきたと言うのであろうか。
   

   明日は、ポルトガルとスペインが、アメリカ大陸に残したインディオの悲劇について書くことにして、その後に、感想を書きたいと思う。
   
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わが庭・・・エレガンス・シュプリーム咲く

2017年04月05日 | わが庭の歳時記
   エレガンス・シャンペンと一緒に、タキイから買ったエレガンス・シュプリームが咲き始めた。
   送られてきた時には、20センチ足らずの全く小さな挿し木苗であったので、育つかどうか心配であったが、鉢植えで2年育てて、庭植えした後、大分しっかりとした木に育ち、今春は、立派な花を咲かせた。
   エレガンス仲間には、他に、上品な淡いピンクのエレガンス・スプレンダーがあるのだが、白いエレガンス・シャンペンも、ともに、唐子咲きで、花芯を抱え込むようにして優雅に咲くところが良い。
   まだ咲いているが、以前に、卜伴や式部などの唐子咲きの椿に魅力を感じて、このエレガンス椿を育て始めたのだが、私が子供の頃に見た椿と言えば、殆ど、白い筒の先に黄色い雄蕊を付けた赤い一重のヤブツバキなのだが、随分、椿の仲間には、豊かなバリエーションがあるのに驚かざるを得ない。
   エレガンス・シャンペンは、蕾がほころび始めたので、もうすぐ、咲き始めるであろう。
   
   
   
   
   

   今、庭に一面に咲き乱れているのが、ハナニラである。
   千葉の庭に咲いていたのは、白い花であったが、この庭の花は、淡いブルーが浮き上がっている。
   咲き始めたのは、ユキヤナギである。
   淡いピンクだった筈なのだが、大きくなってからは、真っ白に変わってしまった。
   クリスマスローズが、殆ど咲きそろったのだが、随分、息の長い花である。
   門扉脇の花壇の八重が、結構大きな株に育っていて、綺麗である。
   庭の片隅に、つくしが頭を出している。
   面白いと思ったのは、もみじが芽吹き始めていて、獅子頭の小さなもみじの葉の造形が面白いのである。
   この葉が、秋には、真っ赤に紅葉して美しくなる。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   今年の歳時記の異変は、鎌倉山の木の実や草の実など、野鳥たちの食料が不足したのであろうか、
   年末年始にかけて、残っていた2~300個ほどのキウイの実を、ヒヨドリの大群が押し寄せて来て、一気に食い尽くし、
   何時もなら、夏にもたくさん残っているはずの夏ミカンやダイダイの実を、早々に、食い尽くしてしまい、
   それに、春になって咲き始めた椿やモクレンの花を、片っ端から突いて、いためたり叩き落したり、
   とにかく、殆ど、ヒヨドリの仕業なのだが、メジロやシジュウカラがやって来ても、木の実などが殆ど残っていない。

   頭の毛はぼさぼさで、褐色の魅力的ではない大柄の獰猛な(?)姿で、他の小鳥を追い散らして、ヒーヨヒーヨと騒がしいヒヨドリは、最早、害鳥ではないかと思えるほどの傍若無人。
   双眼鏡も、バードウォッチングの本も買って、一寸、野鳥に親しもうと思った矢先、困ったことである。
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鈴木信一著「子どもの国語力は「暗読み」でぐんぐん伸びる」

2017年04月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「暗読み(くらよみ)」と言う言葉が分からなかったのだが、子供にとって、国語力が学力・知力の基礎だと思っており、帯に「5歳から始める論理力アップのメソッド」と書いてあったことで、孫のために何か役に立つのではないかと思って読み始めた。

   著者は、冒頭で、
   「暗読み」とは造語ですが、いわゆる寝床での語り聞かせを指します。子どもが寝るときに一緒に布団に入り、部屋を暗くして、子どもには目をつぶるように言ってやり、おもむろにその日の話を始める。しかし、だからこそ、想像力はこのときフル稼働します。匂いや音、手触りまでが、生々しく感知できるようになるのです。と言っている。

   「暗読み」には、台本がなく、真っ暗なので何も見ることができず、あらかじめ知っている昔話や童話や故事逸話など、あるいは、その場での即興話をすることになる、いわば、文字なき本を子どもに読み聞かせると言うことになる。
   子どもの知育として、幼児期に絵本の読み聞かせがポピュラーで、沢山の絵本や懇切丁寧な挿絵入りの読み聞かせ本が出版されていて、これが、一般化しているのだが、現実には、子どもの国語力が低下している。絵本には挿絵があって、子どもたちはそれにばかり注意を奪われて、言語運用能力でその基礎となる、言葉を映像に変換する能力を養えずに終わってしまうので、幼稚園の年長や小学1年生くらいになったら、絵本から卒業させて、前述の「暗読み」に移行すべきである。と言う。

   「暗読み」の効果は、言葉を映像に変換する脳のシステムを涵養するとともに、その物語なりストーリーの先の展開を予測する習慣(「先読み」の習慣)を身に着けさせることであり、子どもに、想像力と論理的思考力を育み、国語力を一気にアップさせる。と言うのである。

   私は、孫に、クリスティーヌ・アリソンの「365日のベッドタイム・ストーリー」を、時々、読み聞かせている。
   かなり、ストーリーにはばらつきがあるのだが、世界の民話や童話など、意表を突くような話があったり、結構面白い話があって、私自身脚色しながら読み聞かせているのだが、勿論、殆ど挿絵などはないので、多少、想像力を働かせるのに役立っているのではないかと思っている。
   この著者が説く「暗読み」については、良い話だとは思うのだが、娘たち父母の世界なので、立ち入るわけには行かない。

   ところで、国語力が、学力・知力の根本的な基礎であると言うのは、私自身が身に染みて感じていることなので良く分かる。
   長女が、サンパウロで小学校前半を送ったのだが、日本人小学校に行っていたにも拘らず、漢字や日本語の看板や標識があふれている日本と違って、取り巻く環境がすべてポルトガル語の世界であったから、「太陽がかんかん照り付ける」と言うかんかんと言う言葉が、(缶がカンカンと音がすると言うことしか知らずに)分からなかったので、心配になって、日本から、学年相当の全国学校図書館選定図書を全部取り寄せて読ませたことがある。
   これは、家庭教師をしていた経験からでも言えるのだが、国語力が十分につけば、他の学科の成績も一気に上がるのは、当然のことである。
   もう一つ、私自身、ペンシルベニア大学のウォートン・スクールのMBAなので、ネイティブでない分、英語の理解力に不足していた所為もあって、他のことでも結構苦労したので、これなど、言葉のハンディなのだが、いずれにしろ、著者の言う国語力の差は、大きいと思う。

   ところで、話が違うが、私の場合、最近、能鑑賞に、国立能楽堂などに通って居るのだが、詞章では、壮大かつ深淵な物語であったとしても、極限まで切り詰め昇華された能舞台では、殆ど動的な視覚的舞台には動きがなく、正に、想像力を駆使して物語を頭の中で再構築しなければならない。
   これが、中々出来なくて、苦労しているのは、私自身の読書経験などが、何処か歪んでいて、著者が言う「暗読み」で涵養すべき想像力と論理的思考力が欠如しているからではないかと思っている。
   比較的、理解の役に立っているのは、私自身、学生時代から、能の舞台である京都や奈良、あるいは、平家物語や源氏物語や詩歌管弦の舞台を歩き続けていたからかも知れないが、これは、国語力ではないのが気になっている。

   イギリスに居た時に、RSCなどのシェイクスピアの舞台鑑賞に随分通ったが、シェイクスピア戯曲は、観るのではなくて聴くのだと教えられた。
   確かに、あの「恋に落ちたシェイクスピア」の劇場と全く同じ青天井のグローブ座で、シェイクスピア戯曲を観れば、例えば、舞台は極めてシンプルだし、太陽がカンカン照りつけている劇場で、「ハムレット」の冒頭、父王の亡霊が、漆黒の闇の中、エルシノアの城壁に現れるシーンを観るのなどは、正に想像で、聴くであって、能の世界と同じである。

   文楽、人形劇も、浄瑠璃を聴きに行くと言うのが本当のようであるし、本来、舞台芸術と言うものは、言葉が先にあって、語りなり謡いが主体であって、それを、まず理解できることが、肝要だと言うことなのであろう。
   この「暗読み」のような経験をして、想像力と論理的思考力を涵養して国語力を高めておれば、もう少し、能やシェイクスピアや文楽を楽しめたのではないかと、この本を読んで、思っている。
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わが庭・・・やはり、新しい椿が咲くと嬉しい

2017年04月03日 | わが庭の歳時記
   また、最近、庭植えした椿が、咲き始めた。
   千葉で、庭に植えていた同じ椿を懐かしんで植えたのが、薩摩紅と花富貴。
   薩摩紅は、紅乙女椿に似た千重咲きで、この椿は、千葉に庭で最初に植えた椿の一つで、偶然、イギリスのキューガーデンの家に咲き乱れていた椿の花によく似ていた。
   
   

   花富貴は、成長が比較的早くて、鮮やかな淡いピンクの抱え咲きの大輪を、沢山つけて、枝がたわわにしなって、美しい。
   しかし、ピンクの椿の性質として、繊細な花弁が、すぐに傷がつくので、中々、完璧で綺麗な花を見つけにくい。
   まだ、わが庭の花富貴は、株が小さくて、咲いても数輪なのだが、その分、一輪一輪大切に観賞するので、良いのかも知れない。
   
   
   

   もう一つ、新しく庭植えして咲き始めたのが、朱月。
   筒型の蕊が立派なヤブツバキに似た花姿で、鮮やかな濃紅色の花である。
   
   
   

   4月に入ると、庭の椿が、一斉に咲き始めて、華やかになって嬉しくなる。
   私自身、ガーデニングに多少レイジーになってきて、精々、ユリやシャクヤクくらいで、手間暇のかかる草花を殆ど栽培せずに、後は、花木ばかりなので、庭に咲いているのは、クリスマスローズ、ハナニラ、スノードロップ、ムスカリ、水仙、シャガくらいであろうか。
   東京は、ソメイヨシノは満開だと言うが、鎌倉山や西鎌倉の桜は、まだまだ、蕾が固い。
   わが庭では、源平桃は満開で、ユキヤナギが咲き始め、ハナカイドウが咲きかけてはいるのだが、菊枝垂桜や姫リンゴなど、やっと、芽が出始めたくらいである。
   
   
   
    
   
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ウィリアム・H・マクニールほか著「世界史 Ⅰ」

2017年04月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ウィリアム・ハーディー・マクニール(William Hardy McNeill)は、トインビー以来の大歴史学者だと言われている。
   ベストセラーの「世界史」を読もうと思ったのだが、息子との共著のこの本、(原書の著者のタイトルが、J・R・McNeillが先になっているから主に息子の執筆かもしれない)が、新しい著作だし、簡便であろうと考えて、先に読み始めた。

   この本のタイトルは、”The Human Web: A Bird's-Eye View of World History”で、
   two renowned historians, father and son, explore the webs that have drawn humans together in patterns of interaction and exchange, cooperation and competition, since earliest times.
   世界の歴史の初期から、相互作用や交換、協力や競争と言った形で人類を結びつけてきたウエブを探求して、世界史を説き起こそうとする俯瞰図的な書物と言うことである。

   ウエブとは、人と人とを繋ぐ色々な結びつきで、様々な旧世界の文明の相互作用、特に、1500年以降の西洋文明が齎した影響を活写することで世界史を展望したマクニールにとっては、世界史を論ずる格好のテーマなのであろう。
   ユーラシア大陸と北アフリカの大部分にまたがる最大の「旧世界のウェブ」が、多数の小さなウェブを統合して、単一の「コスモポリタン・ウェブ」となって、電子化されてはるかに迅速な交流が可能になって、今日では、誰もが単一のグローバルなウェブの中で暮らしていると言う。

   まず、私が関心を持った問題意識は、これまで、周知の事実として論じられている四大文明が、どのように関連して発展してきたのか、そのウェブを、現在の世界歴史論としては、どう論じているのか、マクニールの見解を知りたいと言うことであった。

   緊密なコミュニケーションの交点が、地球上の四か所で文明化の過程を生み出した。最古の文明は三つの川―――メソポタミアのチグリス・ユーフラテス川、エジプトのナイル川、パキスタンのインダス川とその支流―――に沿った水の豊かな土地で起こった。と言う。
   紀元前3500-3000年頃にチグリス・ユーフラテス河口付近に誕生したシュメール人の10あまりの都市は、エジプト文明やインダス文明に先んじてはいたが、沿岸部の海路とそれを補う陸路のキャラバンが、三つの文明の交流を支えており、この三つの文明は、最初から相互に交流し合う一つの文明「ナイル=インダス回廊」ウェブを形成したと言っているのである。

   エジプトだが、シュメール文化との初期の関係についても明白な考古学的影響がある。
   古代エジプトは、泥煉瓦ではなくて石を使い、独自の技術や芸術様式を急速に発展させたが、最初期の階段ピラミッドには、シュメールの建築様式を意識して取り入れている。
   シュメールの文字がゆっくりと発達したのに対して、エジプトの文字は最初から完成されたように見えるのは、ヒエログリフも楔形文字を意識的に模倣したからではないかとも言っている。

   インダス文明のシュメールとの関りについては、マクニールは殆ど触れていないが、モヘンジョ・ダロやハラッパの遺跡で発掘されるシュメールの印章そのたの人工物は、シュメールとの交易があったことを証明している。海岸伝いの航路によって旅が容易になったために、考え方や技術の交換がインダス川のほとりでの文明の発達を初期から刺激したのかも知れないと言っており、
   また、メソポタミアの二輪戦車隊が、紀元前1678年以降、エジプトを、紀元前1500年頃に、北インドに進出していたと言う。

   マクニールは、紀元前2350年から紀元前331年にかけて、メソポタミア中心部における軍事的、政治的動乱によって、三つの根本的なイノベーションが起こり、これが、文明をこれほど強力なものにした「メトロポリタン・ウェブ」を、取り込まされた様々な民族同士の関係を円滑にするのを助けた。
   その三つとは、官僚制に基づく政府、アルファベット文字、地域に限定されない会衆を基礎とする宗教である。
   アルファベット文字の齎した重要な影響の一つは、一般の人々が神聖な文書を読めるようになった結果、宗教を作り出したと言うのだが、
   この三大イノベーションの歴史への貢献は大きい。

   シュメールなどメソポタミアが先行した文明なので、逆のエジプトやインドからのフィードバックについては触れられてはいないが、紀元前はるか昔に、「ナイル=インダス回廊」文明が、十分な交通やコミュニケーション手段を持って、相互に交流しながら、文明の発展を図っていたと言うのは、驚くべきことである。
   また、この世界の文明を生み出した同じ中近東の故地で生まれたイスラム文化が、メディチのフィレンツェを触発して、イタリア・ルネサンスを生み出す一因となったと言う厳然たる事実を思えば、今、世界を揺るがせているイスラム排斥が、何を意味するのか、非常に興味深い。
   歴史の皮肉と言うべきか、長い人類の歴史を考えてみれば、今の欧米人の文化文明に尽くした貢献など、微々たるものだとすれば、今日のアロガントさを許せないと言う気持ちも分からない訳ではない。

   一方、紀元前3000年頃、黄河流域の中ほどに位置する中国北部の高度地帯にも同じような相互交流の中心が生まれたが、西方からステップや砂漠を越えて目新しい物品が齎されるなど重要な影響を受けつつも、その後の東アジアの文明は、「ナイル=インダス回廊」とは別個の独自のスタイルの文明を発展させたと説く。
   中国は、紀元前350年頃から北西部の辺境地帯より騎兵の襲撃を受けるなど、草原地帯からの侵入者に対して有効な手立てを持たなかったために、漢の武帝の頃から西部に遠征隊を送り込んで道を開いたおかげで、中国と西アジアとのキャラバンを介した交易や直接の交易が起こり、その後も長く途絶えることがなかった。
   これによって、かって間接的で断続的であった遠く離れた中心地同士の交流が、成長しつつあったユーラシアの中で接続し、絶え間なく行き来することになって、「旧世界のウェブ」が一つに纏まって、世界史に新たな時代が出現したと言うのである。

   とにかく、この本は、高校の世界史教科書を読んでいるような感じの明快さで、非常に示唆に富んでいて面白い。
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